映像と音声が一体となった「最初の現代映画」のタイトルには「Jazz」の文字があった。しかし、劇中でジャズを歌ったのは、黒人ではなく「黒人に扮したユダヤ人」だった。そして、この映画の発端となったミンストレル・ショーもまた、白人が黒人を演じる芸能であった。アメリカの大衆文化の基層にある「幻想としての黒人」。その幻想は、遠く日本にも及んだのだった。
映画史における初の台詞「お楽しみはこれからだ」
映像と音声がシンクロした映画であるトーキング・ピクチャー、いわゆるトーキーを人々が初めて体験したのは1927年10月6日のことである。映画史上初めてのトーキー『ジャズ・シンガー』が公開されたのがこの日だった。もっとも、「史上初のトーキー」という称号には、しばしば「本格的長編商業映画として」という但し書きがつけられる。すでにそれ以前に、映画における映像と音声の同期の試みが何度か行われていたからである。それらの試みが実験の域を出なかったのは技術的な限界があったためで、本格的トーキーの実現にあたっては、電話業界とラジオ放送業界が映画産業に投資するようになったことが大きく寄与していると映像研究者の北野圭介氏は書いてる。
映画会社としては、音と画面のシンクロ技術にはそれなりの成果をあげていたものの、さっぱり上手くいかなかった音の再生と増幅に関わる精緻な技術のノウハウを電話会社とラジオ会社が蓄積していたことは、願ったり叶ったりだったのです。(『新版ハリウッド100年史講義』)
しかし、現代の映画を見る目で『ジャズ・シンガー』を見ると、かなり期待を裏切られることになる。劇中で実際に映像と音声が同期しているのはほぼ歌のシーンだけで、登場人物のセリフは一部の例外を除いてすべて字幕で示されるからだ。字幕といっても、この時代にはまだ映像に文字を同期させるスーパーインポーズ、いわゆる字幕スーパーの技術は確立していなかったので、台詞はインタータイトルと呼ばれる文字だけの差し込み画面で示されている。結局、『ジャズ・シンガー』は「歌入りのサイレント映画」というのが正確なところだが、だからこそ例外的に映像とシンクロした台詞が際立つとも言える。
映像と同期した台詞が最初に登場するのは、主人公ジャック・ロビンがナイト・クラブで歌うシーンである。一曲を歌い終えたジャックにもっと歌えと要求する客を、彼は「Wait a Minute. You ain’t heard nothin’ yet.」と言って制する。これが「お楽しみはこれからだ」と訳されて、映画史に残る名台詞として日本人の記憶に刻まれることになった。
ユダヤ人が登場した初のハリウッド映画
もう一つの例外的台詞は、歌手として成功したジャックがしばらくぶりに実家に帰ってきたシーンに登場する。息子との再会を涙を流して喜ぶ母に、彼はピアノを弾きながらのちにジャズ・スタンダードとなる「ブルー・スカイズ」を歌って聞かせる。この場面での母と息子の会話と、そこに帰宅した父が息子の歌を遮って発する「やめろ!(Stop!)」という台詞がその例外に当たる。映画史において最初に発せられた台詞のうちの一つは、ジャズを激しく否定する言葉であった。
父親が息子の歌を制したのは、彼がユダヤ教徒が集まるシナゴーグにおいて礼拝をリードする先唱者であり、世俗の大衆音楽を否定しなければならない立場にあったからだ。『ジャズ・シンガー』は初のトーキーであることばかりが強調されるが、実は、ユダヤ人がユダヤ人として登場する初のハリウッド映画でもあった。
この映画の原作は、ユダヤ人作家サムソン・ラファエルソンの同名小説で、彼はミンストレル・ショーで歌っていたユダヤ人シンガーのアル・ジョルソンをモデルとしてこの小説を書いたのだった。映画では、厳格なユダヤ教徒の家に生まれた主人公をそのままアル・ジョルソンが演じている。主人公の本名はジェイキー・ラーヴィノヴィッツで、この名前があまりに「ユダヤ的」であったために、歌手になってから名乗った「アメリカ的」な名前がジャック・ロビンだった。
『ジャズ・シンガー』を製作したワーナー・ブラザースは、ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー兄弟によって設立された会社で、彼らもまた東欧系ユダヤ人である。ワーナー・ブラザースだけでなく、20世紀フォックス、MGM、パラマウント、ユニバーサル、コロンビアなど、ハリウッドのほとんどのメジャー映画会社はユダヤ人によって創設されているが、『ジャズ・シンガー』以前に「ユダヤ性」を前面に出した映画が製作されなかったのは、ユダヤ人差別が根強いアメリカ社会において、ユダヤ人を描いた作品は大衆に受け入れられまいと考えられていたからだ。その点でも『ジャズ・シンガー』は画期的な作品であった。
白人たちの「恣意的想像」の産物
映画の中で、アル・ジョルソンは顔を黒塗りにしてブロードウェイのステージに立つ。「黒人を演じるユダヤ芸人」というのが彼の役どころで、これは彼が実際に出演していたミンストレル・ショーの意匠であった。
ミンストレル・ショーとは、1840年代に成立したとされるアメリカ最初の大衆芸能で、白人が顔を黒く塗り黒人に扮して歌やダンスを披露する出しものだった。今日にあってミンストレル・ショーが主に否定的文脈で語られるのは、それが黒人に対する差別意識を基盤とした芸能であったと考えられているからだ。「ミンストレル・ショーは、白人による黒人イメージをつくりあげ、それをステレオタイプ化した」のであり、「ショーに登場する“黒人”は、白人たちの恣意的想像力が生んだ産物で、黒人をからかって面白がる白人たちの優越感がよくあらわれています」とアメリカ音楽研究家のジェームス・M・バーダマン氏と里中哲彦氏は語っている(『はじめてのアメリカ音楽史』)。
ミンストレル・ショーで黒人を演じた白人の多くはアイルランド人で、中にはアル・ジョルソンのようなユダヤ人もいた。アメリカ白人社会における下層に位置していた彼らは、黒人を演じることで逆説的に「白人」になろうとしたのだとしばしば指摘される。例えば、ポピュラー音楽研究家の大和田俊之氏は、「アイルランド人やユダヤ人は、ミンストレル・ショウの舞台でその民族的記号を覆い隠すことができた」と言っている(『アメリカ音楽史』)。ワインのコルクを焼いて粉末にし、それに水を加えてペースト状にして顔に塗ることで、彼らは「黒人」となった。舞台を降りて黒塗りを落とせば、彼らは皆「白人」となる。ブラック・フェイスは、本来統一性のない「白人」という抽象的概念をつくり出す機能を果たしたのだと大和田氏は指摘する。
複雑なのは、当初は白人演者が白人オーディエンスに向けて芸を披露する場であったミンストレル・ショーに、のちに「本物の黒人」が加わるようになったことで、それにともなってこのショーは黒人観客にも開かれることになった。ミンストレル・ショー出身の黒人ミュージシャンには、「ブルースの父」と呼ばれるW・C・ハンディのほか、マ・レイニー、ベッシー・スミス、エセル・ウォーターズといった女性ボーカリストたちがいた。彼女たちはいずれも、ブルースやジャズを大衆音楽として広めるに大いに功があったシンガーである。
ミンストレル・ショーの音源は現在でも『Monarchs of Minstrelsy』などのCDに残されていて、このショーで活躍していた頃のアル・ジョルソンの歌もここで聴くことができる。聴いてみると、ミンストレル・ショーとは歌だけでなく漫談のような語りも加わった総合的な芸能であったことがわかる。このショーが一つの源流となって、ヴォードヴィル、レヴュー、ミュージカルといったアメリカの大衆芸能が生まれたのだった。
雑多な要素の混淆が生んだアメリカの大衆芸能
ミンストレル・ショーについては、もう一点指摘しておくべき事実がある。「アメリカのポピュラー音楽の祖」と呼ばれるスティーブン・フォスターとミンストレル・ショーの関係である。アメリカ最初の職業音楽家であったフォスターは、「おおスザンナ」「草競馬」「スワニー河(故郷の人々)」「ケンタッキーの我が家」などアメリカの国民的大衆歌として定着した曲をはじめ、生涯に200曲近くを作曲したが、そのうちのおよそ30曲はミンストレル・ショーのために書いた曲だった。
アイルランド系白人であったフォスターの曲の多くは、スコットランドやアイルランドの民謡の形式を用いて、アメリカ南部の風景やそこにおける黒人の生活を読み込んだものだったが、彼自身は南部出身ではなく、南部を実際に訪れたこともほとんどなかったと言われる。つまり、北部の白人が考える「幻想の南部」と「幻想の黒人」のイメージから生まれたのがフォスターの曲で、それをバーダマン氏に倣って「恣意的想像力の産物」と言ってもいいだろう。フォスターの歌の世界は、ミンストレル・ショーを成立させた恣意性とまさしく合致していた。
白人の黒人に対する恣意的想像力が生んだミンストレル・ショーやスティーブン・フォスターの曲は、アメリカの大衆芸能の基盤となり、ミンストレル・ショーにアイデアを得てユダヤ人が書いた小説『ジャズ・シンガー』は、「史上初のトーキー」となって、そこから現代映画が始まった。映画を製作したのはユダヤ人であり、映画の中で主人公を演じたのは「黒人に扮したユダヤ人」であった。
これらが示すのは、アメリカの大衆芸能や大衆娯楽は、黒人性、ユダヤ性、アイルランド性といった雑多な要素の混淆によって生まれたという事実である。「ジャズ」とは、その混淆の一つの形態につけられた名前であった。
「黒塗り」で人気を集めた日本人コーラス・グループ
ミンストレル・ショーの劇団は、実は明治維新以前に日本にも訪れている。『はじめてのアメリカ音楽史』によれば、日米和親条約の締結を目指していたペリーが、1854年に二度目に来日した際に引き連れていたのがミンストレル・ショーの一団で、横浜、函館、下田、那覇などでショーが開催されたという。「おそらく日本で聴かれた初めてのアメリカ音楽でしょう」と同書の著者のひとりである里中氏は言っている。神奈川県立歴史博物館に所蔵されている「黒船絵巻」には、顔を黒く塗って演奏する男たちの姿が描かれている。
日本人が最初に聴いたアメリカ音楽が「黒人を擬装した音楽」であったことは、その後の日本人と黒人文化の関係を示唆しているような気がしてならない。ミンストレル・ショー来日のおよそ130年後の日本で、顔を黒く塗ってデビューしたコーラス・グループがあった。シャネルズ、のちのラッツ&スターである。
黒人コーラスのドゥー・ワップを見事に再現してデビュー・シングル「ランナウェイ」を110万枚も売り上げたこのグループには、当初から批判もあったようだ。シャネルズのデビュー後まもなく、「戦後三十五年間における、日本人のアメリカ誤解の一つの頂点」とこのグループを評したのは作家の小林信彦氏だった。
敗戦後の日本人はアメリカのことをよく知らずに追従してきたのであって、日本人のアメリカ観は自分たちに都合よく解釈したものに過ぎない。まして、日本人に黒人のことが本当にわかるはずはない。顔を黒く塗って黒人の真似をするのは滑稽の極みである──。それが小林氏の言い分だった(『星条旗と青春と』)。
この発言は、音楽評論家スージー鈴木氏の『EPICソニーとその時代』に紹介されているもので、スージー氏によれば、ラッツ&スターのリーダーである鈴木雅之は、松本隆の作詞活動45年を記念するイベント「風街レジェンド2015」で、「日本初の黒人、鈴木雅之です」と挨拶したという。スージー氏は、鈴木雅之に「黒人文化に対する強烈にピュアな憧れ」があることを理由にこの発言や黒塗りを肯定的に捉えているが、鈴木雅之はじめラッツ&スターのメンバーに、ミンストレル・ショー同様、黒人に対する「恣意的想像力」が働いていたとは言えるだろう。
グループのバス・ボーカル担当で、現在はインディーズのレコード会社ファイルレコードの社長でもある佐藤善雄は1996年のインタビューで、黒塗りのアイデアはメンバーのひとりで、のちに覚醒剤使用で何度も逮捕されることになる田代まさしのものだったと語っている。そのアイデアを聞いたメンバーは、「尊敬している黒人音楽だし、どうせやるんだったら、見た目の分かりやすさもあるし、黒人になりきっちゃおう」と判断したのだった。「僕らなりに黒人の音楽とか黒人っていう人達にリスペクトする気持ちがあればこそ出来ること」だから、と(「クイック・ジャパン Vol.7」)。「黒人をリスペクトしているから黒塗りは許される」というロジックはスージー鈴木と共通している。
佐藤はこんな興味深い逸話も紹介している。アメリカの黒人ミクスチャー・ロック・バンドのフィッシュボーンが来日したときに、両グループは音楽番組で一緒になったことがあったという。
彼らは僕らを見た時、凄く怒ってましたね。やっぱり、馬鹿にされていると思ったんじゃないですか。別に殴りかかってくるわけじゃないんだけど、側にいて刺さるような目つきを感じる部分があったから。
80年代に活動を停止していたラッツ&スターは1996年に再結成し、NHK紅白歌合戦に黒塗りメイクで出演して、大瀧詠一の「夢で逢えたら」を歌った。紅白歌合戦は海外でも見ることができるが、この年の海外放映で彼らの出演シーンはカットされたようだ。黒人差別であるという海外からの批判を恐れたNHKの判断だったと思われる。
今の世のポリティカル・コレクトネスの高みから、卓越したシンガーである鈴木雅之やラッツ&スターのかつての黒塗りを断罪することに意味があるとは思えない。しかし彼らの中に、過酷なアメリカ社会を生きてきた黒人のリアリズムから遠く隔たった「幻想の黒人」のイメージがあったことは確かだろう。ミンストレル・ショーを成立させていたのと同じ恣意的イメージが。
では、現在の私たちはそのイメージからどの程度逃れられているだろうか。黒人に対する、ジャズに対する、ブルースに対する、R&Bに対する、ラップに対する「恣意的想像力」からお前はどれほど自由であるか──。そう自分自身に問うてみたく思う。
(次回に続く)
〈参考文献〉『新版ハリウッド100年史講義』北野圭介著(平凡社新書)、『ユダヤ人と大衆文化』堀邦維著(ゆまに書房)、『はじめてのアメリカ音楽史』ジェームズ・M・バーダマン、里中哲彦著(ちくま新書)、『アメリカ音楽史』大和田俊之著(講談社選書メチエ)、『ミュージカルの歴史』宮本直美著(中公新書)、『星条旗と青春と』小林信彦、片岡義男著(角川文庫)、『EPICソニーとその時代』スージー鈴木著(集英社新書)、「クイック・ジャパン Vol.7」(太田出版)
文筆業。1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。