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エリック・ミヤシロのトランペット【名手たちの楽器 vol.2】

エリック・ミヤシロ

ジャズのビッグバンドで、最も注目されるポジションの一つがリード・トランペットである。アンサンブルの最も高い音域を担当し、バンド全体にも大きな影響を与える存在として、高度なテクニックと優れた表現力を求められる。

トランペット奏者のエリック・ミヤシロは、そんな大役を幾多のバンドで務め上げてきた。力強く華麗なプレイ、そして高音域で演奏する能力に長けたプレイヤーとしてもよく知られている。彼が頭角をあらわしたのは10代のはじめ頃。特待生として米ボストンのバークリー音楽院で学んだのち、世界トップクラスのビッグバンド(※1)にリード・トランペットとして招かれ、国際的な舞台でキャリアを築いていった。

※1:バディ・リッチやウディ・ハーマンのビッグバンドに在籍しながら、およそ7年のあいだ世界各国を巡る。

そんなエリック・ミヤシロが、活動の拠点を日本に据えたのは1989年。以降も多くのバンドでリード・トランペッターを任されながら、自身のグループ「EMバンド」も率いている。また、日本のトップ・プレイヤーたちで結成された「ブルーノート・トーキョー・オールスター・ジャズ・オーケストラ」のリーダー兼音楽監督としても活躍中だ。

こうした日米での実績は、彼の出自がそのまま映されている。

ハワイに現れた天才少年

エリック・ミヤシロの父親は、ハワイを拠点に活動するミュージシャン。母親もかつて日本で芸能活動を行なっていた。

母は日劇(※2)のダンサーで女優もやっていました。あるとき彼女がハワイで公演をする機会があって、そのバックバンドでトランペットを吹いたのが父でした。公演中は “女優に手を出したらクビだぞ” って言われていたそうですが、真っ先にクビになったのがうちの親父で(笑)」

※2:日本劇場。1933年、東京都千代田区有楽町に開業。81年の閉館まで約半世紀にわたって日本の興行界を代表する拠点の一つとして親しまれた。当館を本拠にする舞踏集団「日劇ダンシングチーム」も結成され、日劇での定期公演のほか海外での公演も行った。

こうしてエリックは米ハワイ州ホノルルに生まれた。父親がトランペット奏者ということもあり、乳児の頃から楽器に触れていたという。

トランペットのマウスピースをおしゃぶり代わりにしていたそうです。父親は器用な人だったので、トランペット以外の楽器もたくさん家にありました。僕も小さい頃からそういった楽器をオモチャのようにして遊びながら育ったんです

やがて彼は本気で音楽と向き合うことになる。きっかけは父親の姿だった。

音楽に対する興味に火がついたのは、小学校に入った頃でした。父親はいつも家ではダラダラとテレビを観ているんです。ところがステージに立つと別人みたいにカッコ良くなって、お客さんはみんな幸せそうな顔で帰っていく。それがとても魅力的で、自分も早いうちから “トランペットをやりたい” と心に決めていました

10代になった頃、すでに彼は演奏者として周囲から一目置かれる存在だった。この時期に初めて、自分のトラペットを手に入れるのだが、当時どうしても欲しい1本があったのだという。

中学の吹奏楽部に入った時に、本腰を入れてやりたいから楽器を買ってくれと父親に言いました。その頃の僕はメイナード・ファーガソン(※3)に憧れていたので、彼のシグネチャー・モデルが欲しかった。でも高価だったし地元ハワイの楽器店にも置いていなかったので諦めました。それで、このキングの楽器を買ってもらったんです

※3:Walter Maynard Ferguson(1928-2006)カナダ出身のトランペット奏者。21歳でアメリカに移住後、スタン・ケントン楽団に加入。のちに自身のバンドを率いて活躍。高い音域を正確に演奏する“ハイノート・ヒッター”としても有名。

エリック・ミヤシロが最初に手に入れたキングのトランペット

憧れのファーガソン・モデルを諦め、手に入れたのはキングのトランペット。もちろんこれも素晴らしい楽器だ。しかも、最初の1本としては大正解だった。その理由は後述するとして、ついに自分の楽器を手に入れたエリック少年はさらに音楽へのめり込んでいく。やがて彼は “天才少年” と騒がれはじめ、中学生ながらプロのステージにも立っていた。

人生を変えてくれた恩人

そんな天才少年が演奏していた音楽は、多種多様だったという。

マーチングバンドやジャズバンドでも演奏したし、クラシックのオーケストラにも参加していました。ただ、ハワイは小さな島だし保守的なところもあって、当時は “ジャズをやると音が悪くなる” とか “悪いクセがつくからジャズはやめた方がいい” なんて言われましたね

クラシックの舞台で活躍しながらジャズも愛していた彼は、そうした風潮に反発を感じていた。若くて吸収力もあり、自分の可能性を模索したい時期。なのに “どの音楽に籍を置くのか” と立場を迫られるのは辛かった。

スポーツは苦手だし勉強もダメ。そんな僕にとって、トランペットだけが唯一の武器だったんです。その武器を使って表現する喜びや楽しさは、どんなジャンルの音楽であれ同じです。その気持ちは今も変わらない

誰にも負けない “誇らしい特技”を、たかだか音楽のジャンルごときで縛られるのが嫌だったのだ。それでも彼は地元ハワイでの演奏活動を存分に楽しみ、ひたむきに鍛錬も続けた。そして高校3年のとき、人生の転機が訪れる。

全米高校オールスターズというプロジェクトがあって、アメリカ50州からそれぞれ2人ずつ、計100名のプレイヤーが代表として選ばれるんです。さらに、そこからオーディションで選ばれた人たちでビッグバンドを組んで、ニューヨークのカーネギー・ホールで演奏する。そのメンバーに選ばれました

さらに嬉しかったのは、そのコンサートにゲストとしてメイナード・ファーガソンが加わることだった。幼い頃から憧れていたヒーローと共演するチャンス。そんなコンサートの当日、リハーサル時にハプニングは起きた。

ファーガソンさんの到着が遅れていて、リハーサルには参加できないということになって。代役として僕が彼のパートを吹くことになりました。それで得意げに演奏していると、シーンとした会場の隅でひとりだけ拍手をしてくれる人がいるんです。見ると、その人がファーガソンさんでした

エリックの演奏に感心したファーガソンは「高校を卒業したら俺のバンドに来い」と誘いをかけた。このときは大学進学もありバンド入りは実現しはしなかったが、のちに両者は何度も共演を重ねることになる。

メイナード・ファーガソン、1970年頃のステージ写真

カスタムで「音が変わる」発見

ファーガソンは生涯、エリックを息子のようにかわいがり、エリックもまた彼を「僕の人生を変えてくれた恩人」と慕い続けた。ファーガソンとの交流で多くを学んだエリックだが、じつは “ファーガソンに会う前” から、彼はひとつ大事なことを教えてもらっている。ここで再び登場するのが、本稿の冒頭で触れた「少年時代に欲しかったファーガソン・モデルのトランペット」だ。

中学生のとき、ファーガソンのシグネチャー・モデルは買ってもらえなかった。ならば “少しでも憧れの楽器に近づけたい” と思って、自分のトランペットを近所の楽器店に持ち込んで、指掛け(右手の小指を引っかける部分)のパーツをシグネチャー・モデルと同じ形のものに交換してもらったんです

これによって少し “見た目の満足度” が上がった。と同時に、彼はあることに気づいた。

音が変わったんです。こんな小さなパーツを交換しただけなのに、明らかに変化している。それを機に楽器のカスタマイズにも興味を持ちはじめて、いろんなことを試しました。本体だけでなく、マウスピースも3つに分解できるように改造したり、授業中にカップ(※4)の部分をヤスリで削ったりしていましたね(笑)」

※4:マウスピースの部位名。息を吹き込む、窪みの部分。

以来ずっと、彼は実験と探究を続けている。その知見は楽器メーカー(ヤマハ)との協働により、エリック・ミヤシロ監修のシグネチャー・モデルとして結実した。ここに至るまでの楽器遍歴も相当なものだ。

最初に買ってもらったキングのトランペットに始まって、いま使っているヤマハのシグネチャー・モデルに至るまでに、数えきれないほどたくさんの楽器を試したり、後付けのパーツを使って改造したり、構造を研究し続けてきました

本人が所有するコレクションの一部

その結果わかったのは “皆に共通する万能のトランペットはない” ということだった。同じく、高価な楽器を使えば誰もがいい音を出せる、というわけではないのだ。

例えばマウスピース。誰かが使って “いい音” が出ているからといって、自分もその音を出せるとは限らない。人間の唇の形状や歯並びは皆それぞれ違うわけだから、評判の良いマウスピースがあったとしても、自分の口に合っていないと、良い音を出すことはできないわけです

いつもファーガソンの導きがあった

そのことを実感する出来事があった。またしても、あの “ファーガソンのシグネチャー・モデル” の登場である。のちに彼はこのトランペットを手に入れて実際に試してみたところ「ものすごく吹きにくかった」というのだ。ハイトーン・ソリストとして名を馳せたファーガソンのモデルは、高音を大きな音量で出すことに主眼を置いた設計で、低い音域で演奏する際には、多くの息を吹き込まなければならない。

自分には合わない楽器でした。だから、これを最初に使っていたらずいぶん苦労して、無茶な奏法を身に付けてしまっていたかもしれません。中学2年の時に初めて買ってもらったキングのトランペットは6〜7年使いましたが、ファーガソン・モデルよりもはるかに吹きやすかったんです

手前がキング製。中央はメイナード・ファーガソンのシグネチャー・モデル。奥はエリック・ミヤシロ監修のシグネチャー・モデル

そんな「ファーガソン・モデル」だけでなく、先述のとおり彼はありとあらゆるトランペットを試し、ときには改造も施しながら “理想の1本” を追い求めてきた。が、最初に手に入れた「キングのトランペット」こそ、じつは理想に近い個体だった。そのことを知ったのは、意外にも最近のことである。

いま僕がメインで使っている楽器は、自身で監修したシグネチャー・モデルです。このモデルは、レーザー測定やコンピューター設計、素材技術、音響科学など、最新のテクノロジーや知見を取り入れて作られています。一方、僕が最初に使ったキングの楽器は1960年代後半に設計されたものですが、自分のシグネチャー・モデルと似た部分がたくさんあったんです。この事実には驚きましたね

エリック・ミヤシロは幸運な音楽家である。トランペットの才能に恵まれ、人にも恵まれた。ふり返るといつもメイナード・ファーガソンが導いてくれていたのだ。そして何より「最高の楽器を、最初に手に入れていた」ことこそ、彼が掴んだ最大の幸運だったのかもしれない。

文/坂本 信
撮影/山下直輝

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