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「黒人性」と「ユダヤ性」のハイブリッド・ミュージック──「ラプソディ・イン・ブルー」が表現したアメリカの姿【ヒップの誕生】Vol.46

連載記事 ヒップの誕生

Profile headshot of American composer George Gershwin (1898 - 1937) writing notes on a musical score while sitting at his piano, New York City. (Photo by Hulton Archive/Getty Images)

日米の20世紀裏面史とジャズの関係をディグする連載コラム!

アメリカ最大の作曲家であり、クラッシック音楽とポピュラー音楽の垣根を取り払ったイノベーターであったジョージ・ガーシュウィン。彼もまたベニー・グッドマンと同じく東欧をルーツとするユダヤ人だった。彼が黒人音楽とユダヤ音楽を融合してつくり上げた「ラプソディ・イン・ブルー」は、ジャズにもクラッシックにも分類可能なハイブリッド・ミュージックであるばかりでなく、雑多な人種的、文化的要素の混淆によって生まれたアメリカという国を象徴する曲でもあった。

「ジュー・ヨーク」と呼ばれた街

ニューヨークの高層ビル街を映すモノクロ映像を背景に、グリッサンドで奏されるあのよく知られたクラリネットのソロ演奏が流れ、「ジョージ・ガーシュウィンの旋律にも似たときめきのある街」というウディ・アレンのナレーションが重なる──。『マンハッタン』(1979年)は、ガーシュウィンの代表作「ラプソディ・イン・ブルー」で幕を開けて幕を閉じるばかりでなく、作中にも「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー」「スワンダフル」「バット・ノット・フォー・ミー」といったガーシュウィンの曲を配した「ガーシュウィン・ムービー」と言うべき映画である。「ラプソディ・イン・ブルー」を演奏しているのはニューヨーク・フィルハーモニックで、冒頭のクラリネットは監督・主演のウディ・アレン自身が吹いているらしい。

ニューヨーク生まれのユダヤ人としての自伝的要素をまぶして「アメリカ映画中最もユダヤ的な映画」と言われるウディ・アレンの代表作『アニー・ホール』(1977年)に比して、『マンハッタン』ではユダヤ性の直接的な表現は抑制されている。しかし、やはりユダヤ人であったガーシュウィンの音楽を意識的に多用している点で、この作品もまたウディ・アレンならではの「ユダヤ的映画」と言っていいと思う。

19世紀末から20世紀初頭に東欧から大挙してアメリカに移住したユダヤ人の多くが居を定めたのがニューヨークで、マンハッタン島南端のロウワー・イースト・サイドや、イースト川をはさんだブルックリンには大規模なユダヤ人街が形成された。『アメリカのユダヤ人』(土井敏邦著)という本には、『マンハッタン』が製作されたのとほぼ同時期の1981年におけるユダヤ人人口調査が紹介されている。それによれば、ニューヨーク市のユダヤ人の数はおよそ113万人で、これは市の全人口の16%に当たる。とりわけマンハッタンとブルックリンでは、人口のおよそ2割をユダヤ人が占めたという。当時全米のユダヤ人人口比率が2.5%であったことを考えれば、これは突出した数字である。ニューヨークが「ジュー・ヨーク(Jew York)」と呼ばれた所以だ。

ラグタイムに魅了されたユダヤ人

ニューヨーク、ブルックリンの貧しいユダヤ人家庭にジェイコブ・ガーショウィッツが生まれたのは、1898年9月のことだった。父、モーリス・ガーショウィッツ(ゲルショーヴィチ)がロシアのサンクトペテルブルクからアメリカに移住してきたのは1890年8月である。彼はロシアにいた頃からの知り合いだったローズ・ブルースキンとニューヨークで再会して1895年に結婚し、その翌年には長男アイラが誕生している。

次男ジェイコブは、のちにアメリカ風にジョージと呼ばれるようになり、ファミリー・ネームもガーシュヴィン(Gershvin)に改められた。アメリカに移住したユダヤ人が改名するのは当時普通のことだったが、必ずしも自分たちの意志によるものばかりではなかったようだ。

入国審査の係官は移民のむずかしい名前を正確に記入するのを拒絶し、用紙にまったく新しい名前を書きこんだ。学校では教師は児童の発音しにくい名前のかわりに、もっと発音しやすい名前を記入した。(『ユダヤ移民のニューヨーク』野村達朗)

アイラとジョージのガーシュヴィン兄弟は10代になるとガーシュウィン(Gershwin)を名乗るようになり、ほかの家族もそれに従って改名した。ジョージはその頃から黒人霊歌、ゴスペル、ジャズなどに興味をもち、同時に、ニューヨークの音楽出版街ティン・パン・アレイの作曲家であったアーヴィング・バーリン、ジェローム・カーンの作品にも深く傾倒した。

ジョージ・ガーシュウィン(写真左)とアイラ・ガーシュウィン(写真右)

バーリンはロシアのシベリア西部の町チュメニ生まれのユダヤ人で、映画『ジャズ・シンガー』の中でやはり東欧系ユダヤ人のアル・ジョルソンが歌った「ブルー・スカイズ」は彼がつくった曲だった。何より、アメリカ音楽史上最も売れた曲と言われる「ホワイト・クリスマス」の作曲家としてバーリンは高名である。ジョージ・ガーシュウィンは、バーリンを「アメリカのシューベルト」と呼んだ。一方のジェローム・カーンは、「煙が目にしみる」「今宵の君は」「イエスタデイズ」など、のちにジャズ・スタンダードとなった曲の作者として知られる。彼もまたユダヤ移民の子である。

それらの音楽以上にジョージの心を捉えたのが、1910年代にシカゴ経由でニューヨークでも流行するようになった黒人音楽ラグタイムだった。アメリカ最初の大衆音楽であり、ジャズの前身の一つでもあったこの音楽に耽溺したジョージは、ピアノを熱心に練習し、ティン・パン・アレイに出入りするようになってからは、その界隈で最も上手なピアニストと言われるようになった。「それはアメリカで最初に敢行された『白人』の側からの『黒人音楽=ジャズ』への挑戦」であり、「ロシア系ユダヤ人の子として生まれ、『白い』社会からさまざまな差別や排除の力を受けながらゲットーに育ったガーシュインの血に流れる『辺境性』が『ラグタイム』にもう一つの『辺境性』を認め、シンパシーを抱かせた」のだと批評家の末延芳晴氏は言っている(『ラプソディ・イン・ブルー』)。

もう一つ、その後のジョージ・ガーシュウィンの作曲に大きな影響を与えたのが、ユダヤ音楽である。ガーシュウィン家は厳格なユダヤ教の家庭ではなく、ユダヤ的慣習が重んじられることもなかったが、ジョージは早くからユダヤ人劇場に出入りし、イディッシュ語(東欧系ユダヤ人の言語)演劇とそこで流れるユダヤ音楽から多くのものを学んだ。

高校を中退し、ティン・パン・アレイの音楽出版社で働きながら自作の曲づくりに打ち込んでいたジョージ・ガーシュウィンの名を最初に世に知らしめたのが、1919年に作曲した「スワニー」だった。これをアル・ジョルソンが気に入り、「シンバッド」というミュージカルの中で歌ったことで大ヒットした。曲単位で見れば、この曲がガーシュウィンの生涯で最も売れた作品となった。

ジョージ・ガーシュウィン

ガーシュウィンを評価した「キング・オブ・ジャズ」

ガーシュウィンに次の転機が訪れたのは1922年である。この年彼は、登場人物がすべて黒人という当時としては画期的な一幕物のオペラ『ブルー・マンディ(135番街)』を手がけた。のちの大作『ポーギーとベス』のプロトタイプと見なされる作品だが、批評家の評価は低く、上演の機会は結局一度しかなかった。しかし、この作品を評価した音楽家がひとりだけいた。20年代のニューヨークで「キング・オブ・ジャズ」と称されていたバンド・リーダー、ポール・ホワイトマンである。やはりユダヤ人であったホワイトマンの「ユダヤ性」がガーシュウィンの「ユダヤ性」と共鳴した。そう書けば、ではその「ユダヤ性」とは何かという話になるが、ガーシュウィンの音楽がホワイトマンの心の琴線に触れたのは確かだった。

翌年、ホワイトマンは「現代音楽の実験」と題したコンサートを企画するにあたって、「ジョージ・ガーシュウィンはジャズ風の協奏曲に取り組んでいる」というインフォメーションを本人の許可なく発表した。これは依頼を断られることを回避するためのホワイトマンの戦略であったらしく、発表された以上ガーシュウィンはこの仕事を引き受けるほかなかった。ニューヨークからボストンに向かう電車の中で、車輪の音にインスピレーションを受けたガーシュウィンは、一気呵成に初めてのオーケストラ曲を書きあげたのだった。要した時間はわずか3週間だったという。

コンサートが開催されたのは1924年2月12日のことで、「延々と長時間にわたる退屈なコンサート」の、23曲中22番目にその曲「ラプソディ・イン・ブルー」は演奏されたと、ガーシュウィンの評伝を手がけたポール・クレシュは書いている。

だらだら長いコンサートだったので、この曲の番になる頃には聴衆は半分眠っていた。ところがクラリネットの野性的な音が聞こえると、たちまち眼をさました。演奏が終わると、盛大な拍手喝采がいつまでも続いた。(『アメリカン・ラプソディ』)

クラリネットで奏でられた馬のいななき

先に紹介した末延芳晴氏の『ラプソディ・イン・ブルー』は、欧州クラシック音楽へのコンプレックスからアメリカ人を解き放ったと言われるこの曲をさまざまな角度から論じたガーシュウィン・ファン必読の書だが、とくに興味深いのは、「ラプソディ・イン・ブルー」と、1917年に史上初のジャズ・レコードとして発売されたオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの「リヴァリー・ステイブル・ブルース」との類縁性を指摘している点である。それはとりわけ冒頭のクラリネット・ソロに顕著であると末延氏は言う。

末延氏によれば、「リヴァリー・ステイブル・ブルース」の作曲者で、バンドのコルネット奏者であったニック・ラロッカは、「馬のいななきと鶏のときの声、そしてロバの鳴き声をコルネットとクラリネットとトロンボーンの音に模して吹き込んだ」と語ったという。そのような擬音、擬声をフランス語でオノマトペ、英語でオノマトピアというが、「ラプソディ・イン・ブルー」の導入部のクラリネットによる上行グリッサンドは、一種のオノマトペであった。これはもともとスラーの指示のついた17連符をクラリネット・プレーヤーが、「リヴァリー・ステイブル・ブルース」を真似て馬のいななきのようにグリッサンドでプレイし、それを聴いたガーシュウィンがその場で採用したものである。「リヴァリー・ステイブル・ブルース」と「ラプソディ・イン・ブルー」を聴き比べてみると、確かに影響関係が色濃く感じられる。

オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドによるこの史上初のジャズ・レコードが発売されたのはビクターからだったが、レコーディングはコロンビアの方が先だった。それがお蔵入りになったのは、コロンビアがオノマトペの入った演奏を録音することを拒否したためにバンドとの関係が悪化したからだと言われる。ジャズとは元来、冗談音楽的なセンス・オブ・ヒューモアの要素を多分に含んでいたものだったが、それをコロンビアは理解できなかったということなのだろう。ガーシュウィンはそのユーモアの感覚を自作に即興的に取り入れ、最大の効果を上げることに成功したのだった。

アメリカ音楽史上初のクロスオーヴァー・ミュージック

以前にも言及したとおり、クラリネットは東欧ユダヤの音楽であるクレズマーにおいて最も重要な楽器である。ガーシュウィンは「『ラプソディ・イン・ブルー』の冒頭に、クラリネットのソロをもってくることによって、自らのユダヤ的アイデンティティのあかしとしてクレツマー音楽的特性を刻印した」と末延氏は言う。さらに、そこにラグタイムやディキシーランド・ジャズからの影響を加えることによって、ガーシュウィンはアメリカ音楽史上初のクロスオーヴァー・ミュージックをつくり上げたのだ、と。

オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドは白人バンドだったが、ジャズのレコーディングにおいて白人が黒人に先んじたのは、たんに黒人にレコーディングの機会が与えられなかったからにすぎない。20年代のニューヨークにおいて、今日の耳からはほとんどジャズには聞こえないスウィート・ムード・ダンス・ミュージックの旗手であったポール・ホワイトマンが「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれたのも、黒人ジャズ・バンドの演奏の場がほとんどなく、聴衆が「本物のジャズ」を聴くことができなかったからである。しかし、ガーシュウィンの感性は10代から黒人音楽の本質を捉え、その本質をオーケストラ曲に昇華させることに成功したのだった。

『ラプソディ・イン・ブルー』において最初に結実することになるガーシュイン音楽における「ジャズ」の内実を規定していたもの、それは、表層的にはホワイトマンに代表される白人ジャズであり、深層的には血としてガーシュインの体内に流れるユダヤの民衆音楽であり、一層根源的には「夢」の「象徴的イメージ」としての真正なる黒人音楽、具体的にはラグタイムであり、ディキシーランド・ジャズであり、ブルースであった。(『ラプソディ・イン・ブルー』)

ユダヤ人の特性は生物学的なものではないので、「血」はあくまでも比喩である。「夢」「象徴的イメージ」とは、10代のガーシュウィンが憧れとともに心のうちに抱いていた黒人音楽の姿とでも解しておけばいいだろう。

「ラプソディ・イン・ブルー」は、「『黒人』と『ユダヤ人』と『白人』と三つの人種と音楽言語の出会いとクロスオーヴァーの最初の成果」であり、より具体的には「音楽史上最初に成し遂げられた、ラグタイムとジャズ、ブルースに象徴される『黒いアメリカ』の音楽とクラシックや行進曲、ポピュラー・ソング、ダンス・ミュージックに象徴される『白いアメリカ』の音楽、さらにはシリアスな西洋クラシック音楽と大衆的なポピュラー音楽のクロスオーヴァー」なのだと末延氏は強調する。

やはり東欧ユダヤ移民二世であった指揮者のレナード・バーンスタインは、「構成力の欠如の典型」と指摘しながらもこの曲を評価したが、彼の文章にも同様の視点がある。

この曲は、かなり人工的な転調や移調の手法や古めかしいカデンツァで無造作につなぎ合わされたエピソードでできている。しかし重要なのは、『ラプソディー・イン・ブルー』の欠陥ではなく、長所なのだ。この無器用につなぎ合わされたエピソードがすばらしいのは、それが本質的に心をつき動かすメロディー、真心にあふれたハーモニー、本物のリズムをもっているからである。(「ユリイカ」1981年12月号/大原えりか訳)

バーンスタインは「無造作につなぎ合わされたエピソード」という言い方で、期せずしてアメリカという国を端的に表現している。それは末延氏のこんな言葉と響き合うだろう。「ガーシュウィンは『アメリカ』を『アメリカ』たらしめている、多様な文化的価値が共存しクロスオーヴァーし合うことを通して、新しい統合的価値を生み出していくオープンに開かれたシステムと構造を『ラプソディ・イン・ブルー』に取り込んだ」、つまり「『ラプソディ・イン・ブルー』そのものが、構造的にアメリカなのである」──。

ギル・エヴァンスはユダヤ人か

ガーシュウィンは、「ラプソディ・イン・ブルー」を完成させたおよそ10年後に、最後の大作である『ポーギーとベス』に着手する。白人作家デュボース・ヘイワードが描いた港町の貧しい黒人の物語を、ユダヤ人作曲家がジャズの要素を加えてオペラ化したのが『ポーギーとベス』であり、これもまた黒人性とユダヤ性の混淆によって生まれた作品と言うことができる。

『ポーギーとベス』はエラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロング、オスカー・ピーターソン、モダン・ジャズ・カルテットなどがのちにジャズ作品としてレコーディングしているが、最高傑作はマイルス・デイヴィスとギル・エヴァンスによるものだろう。黒人性とユダヤ性のクロスオーヴァーによって生まれたオペラに、黒人トランペッターとユダヤ人アレンジャーが手を組んで取り組み、最高の作品を生み出した──。そう書けばたいへん美しいストーリーとなるが、しかしこのストーリーはかなりの確率で成立しないと思われる。

ギル・エヴァンスは日本では「ユダヤ人」ということになっている。確かに、「ギル・エヴァンス ユダヤ人」というワードで検索してみれば、彼が「ユダヤ系カナダ人」であるという判で押したような日本語の説明がいくつも出てくる。しかし、「Gil Evans Jewish」で検索しても、ギルがユダヤ人であるという英語の説明には一切たどり着けない。これが意味するものは何か。

次回は、『ポーギーとベス』というオペラの成立の経緯と、その作品に取り組んだマイルスとギル・エヴァンスの関係を掘り下げたい。

次回に続く)

〈参考文献〉『ユダヤ人』上田和夫著(講談社現代新書)、『アメリカのユダヤ人』土井敏邦著(岩波新書)、『ユダヤ移民のニューヨーク』野村達朗(山川出版社)、『アメリカン・ラプソディ──ガーシュウィンの生涯』ポール・クレシュ著/鈴木晶訳(晶文社)、『ラプソディ・イン・ブルー──ガーシュウィンとジャズ精神の行方』末延芳晴著(平凡社)、「ユリイカ」1981年12月号(青土社)

二階堂 尚/にかいどう しょう
文筆業。1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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