投稿日 : 2023.05.02 更新日 : 2023.06.20
3人のユダヤ人と「最高のジャズ・シンガー」が生み出した名曲─ビリー・ホリデイと「奇妙な果実」【ヒップの誕生】最終回
文/二階堂尚
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日米の20世紀裏面史とジャズの関係をディグする連載コラム!
最も早い時期に黒人によって歌われたプロテスト・ソングであり、ブラック・ライヴズ・マターの原点であるとも言われる「奇妙な果実」。しかし、その作者は黒人ではなかった。ビリー・ホリデイの絶唱によってジャズの歴史に名を刻むことになったこの曲をつくったのはユダヤ人であり、この曲を歌う場所を用意したのも、レコード化したのもまたユダヤ人であった。3人のユダヤ人と1人の黒人の共同作業によって名曲「奇妙な果実」が誕生した背景を探る。
アメリカ南部で頻発したリンチ殺人
日本語で「私刑」と訳される「リンチ(lynch)」という言葉は、実在した人物の姓に由来するらしい。名祖(なおや)と考えられる人は3人いて、米バージニア州の治安判事ウィリアム・リンチと、米独立戦争時代の治安判事チャールズ・リンチの二人は18世紀の人物、アイルランド西部ゴールウェイ市のジェームズ・フィッツスティーブン・リンチ市長は15世紀の人物である。いずれも法律によらない私的処罰ないし処刑を行ったことで歴史に名を残している。
3人のリンチ氏は今では歴史上の人物となっているが、アメリカで黒人に対するリンチが盛んに行われていたのは、それほど古い話ではない。20世紀の中ごろまで、黒人を対象にしたリンチは、日常の風景とは言えないまでも、決して珍しい事件ではなかった。しばしば引き合いに出される数字は、1889年から1932年までの間に3700人以上がリンチで殺害され、そのうち85%は南部で行われたというものである。それとは別に、1865年から1950年までのリンチによる黒人死者数はおよそ6500人にのぼるというデータもある。
「南部で起きた黒人リンチの大半は、何らかの形で白人女性と黒人男性の性的関係を根拠にしていた」(『アメリカ黒人の歴史』上杉忍)との説明がある一方で、例えばミシシッピ州では「人種差別に異議を唱えたと目された若い黒人たち」が白人自警団によるリンチの犠牲者となった(『アメリカ黒人史』ジェームス・M・バーダマン)という記述も見られる。
よく知られているのが、ジョージア州で起こった「サム・ホーズ事件」である。1899年4月、サム・ホーズという黒人労働者が、賃金の引き上げと遠隔地に住む母親を見舞うための休暇の許可を白人の雇用主に願い出たが、雇用主はいずれの要望も言下に斥けた。それに対してサムが口ごたえしたところ、雇用主は立腹し、彼に銃をつきつけた。殺されると思ったサムは手近にあった斧を投げつけて、雇用主を逆に殺害してしまった。
逃亡したサムは、10日後に逮捕され、投獄された。即座に処刑すべしとの声が高まり、法廷での審理もないまま彼は公開処刑されることになった。遠方から見物に訪れる客のために特別列車が仕立てられ、当日は子どもを含む2000人を超える群衆が処刑場となった広場に集まった。
公開処刑の扇動者たちは、サムを全裸にして木に縛りつけ、生きたまま耳と指と性器を切り取り、顔の皮を剥ぎ、体に火をつけた。焼かれた死体の一部は切り取られ、群衆に「土産」として配布された──。
以上が事件のあらましである。アメリカ黒人の歴史を語る際にこの事件がよく取り上げられるのは、数あるリンチ事件の中でとりわけショッキングな内容だからだと思われるが、木から吊るすことや体に火をつけることはリンチの常道であった。そのような行為が、少なく見積もって3700回以上繰り返されたのである。
ユダヤ人がつくった黒人リンチの歌
1930年8月、アメリカ中西部インディアナ州マリオン郡でもそんなリンチ事件が起こった。殺されて木から吊るされたのは2人の黒人男性である。見物人の数は5000人に及び、死体とそれを見物する人々の姿を撮影した写真が販売された。一説には10日で1000枚以上が売れたという。
その写真は現在もインターネットで容易に見ることができるが、控えめに言って身の毛がよだつような写真である。撮影されたのは日が沈んでからだったようで、ボロボロの服をまとって宙づりにされた2人の犠牲者が闇に浮かび、それを多くの白人男女が見上げている。中には遺体を指さす者もいれば、薄笑いを浮かべている男もいる。
この写真を雑誌で見て衝撃を受けたひとりのユダヤ人がいた。ニューヨーク、ブロンクスの高校教師であり、アメリカ共産党員であったエイベル・ミーロポルである。彼は、この写真から受けた印象を詩にして、高校教師を読者とする「ニューヨーク・ティーチャー」という雑誌に発表した。ペンネームはルイス・アラン、詩のタイトルは「苦い果実(Bitter Fruit)」だった。
ミーロポルは文筆や詩作だけではなく作曲もする才人だったが、自分の詩を曲にする際は、ほかの作曲家に頼むことが多かった。しかし、この「苦い果実」に関しては自分で曲をつくることにこだわったという。そうして完成した楽曲を教職員集会で歌ったのは、ギターが得意だった妻のアンだった。
「苦い果実」は、「fruit/root」「breeze/trees」「south/mouth」「fresh/flesh」「pluck/suck」「drop/crop」と二行ごとに脚韻を踏む三連十二行の詩で、「リンチ」という語を一切使うことなくリンチ殺人の残虐さを表現した優れた作品だった。歌詞を訳出しておく。
南部の木には奇妙な果実がなる
葉に血が溜まり、根に血がしたたる
黒い身体が南部の風に揺れる
奇妙な果実がポプラの木に吊るされている
颯爽たる南部ののどかな風景
腫れあがった眼と歪んだ口
甘く新鮮な木蓮の香りが漂う
そんなとき不意に、肉が焼ける匂いが鼻をつく
果実はカラスについばまれ
雨を集め、風を呼び
日の光で腐り、木から落ちていく
奇妙で苦い実がここになっている
この曲はのちに「奇妙な果実(Strange Fruit)」という名で多くの人々に知られることになる。
ニューヨーク初の「白黒混合」のジャズ・クラブ
ルイス・アランは現在では、この「奇妙な果実」と、フランク・シナトラが歌った「ザ・ハウス・アイ・リヴ・イン」の作者として知られている。「ザ・ハウス・アイ・リヴ・イン」がシナトラが生前最後にレコーディングした曲の一つだったことはこの連載で以前に書いた。ルイス・アラン(Lewis Allan)という名は、極めて頻繁にルイス・アレン(Allen)と誤記されるが、アランが正しい。「ルイス」も「アラン」も死産した双子の息子たちに夫婦がつけた名前で、ついに顔を見ることがなかったその兄弟の名をミーロポルは自身の創作名としたのだった。
「苦い果実」が「奇妙な果実」として世の人々に知られることになったきっかけは、アランがこの曲をジャズ・クラブ〈カフェ・ソサエティ〉に持ち込んだことだった。1939年4月、彼はクラブのオーナー、バーニー・ジョセフソンを訪ね、店の出演者であった黒人女性シンガーにこの歌を歌ってほしいと懇願した。シンガーの名は、ビリー・ホリデイである。
ルイス・アラン=エイベル・ミーロポルとバーニー・ジョセフソンの境遇はたいへんに似通っていた。ユダヤ系のミーロポル家がポグロムを逃れて西ウクライナからアメリカに移住してきたのは1902年だった。翌1903年にエイベルは誕生している。一方、バーニー・ジョセフソンの一家もまた、東欧から移民してきたユダヤ人であった。ジョセフソンの両親と兄姉がラトヴィアからアメリカに来たのが1900年、バーニーがニュージャージー州で生まれたのが1902年である。二家族はほぼ同じ時期にアメリカにやって来て、2人はほぼ同じ時期に生まれたのだった。
バーニー・ジョセフソンが靴屋をやめてニューヨークのダウンタウンで〈カフェ・ソサエティ〉を始めたのは、1938年12月末である。ニューヨークで初めて白人客と黒人客を同席させた画期的なジャズ・クラブだった。当時、ジャズ界のフィクサー的ポジションにあったプロデューサーのジョン・ハモンドは言っている。
「バーニーと私はたちまち意気投合した。彼は、私がそれまでずっと夢に見ていたことをやろうとしていたのだ。白黒混合の客を相手に白黒混合の出し物をやる白黒混合のナイト・クラブである」(『ジャズ・プロデューサーの半世紀』)。
ジョセフソンは店の中で人種差別的行為が行われないよう常に目を光らせていたが、客層から見てその心配はなさそうだった。店の常連客は、ジャズ・ファンのほか、作家、知識人、学生などのインテリ層や、労働組合の幹部などであった。
父を殺したものが表現された歌
バーニー・ジョセフソンは、ルイス・アランの詩を読み、その内容に打ちのめされた。ビリーが店にやって来ると、ジョセフソンはビリーにアランを紹介し、アランは自らピアノを弾いて彼女に曲を聴かせた。しかし、当初ビリーは歌詞の意味を理解できなかったらしい。「なにをうたった歌なのかビリーにはぜんぜんわかっていないと、はじめは思った」とジョセフソンは述懐している(『月に願いを』ドナルド・クラーク)。ビリーは南部生まれではなく、リンチを目撃した経験もなかった。彼女は歌詞にある「Pastoral(のどかな)」という単語の意味がわからず、アランに尋ねたという。
しかし、自伝『奇妙な果実』におけるビリー自身の回想は異なっている。彼女は言う。「その詩をみせられたとき、私は直ぐに感動した。その詩には、パパを殺したものがすべて歌い出されている様な気がした」のだと。
ビリーの父、クラレンス・ホリデイはフレッチャー・ヘンダーソンのバンドなどに参加していたギタリストで、仕事で訪れていたテキサス州ダラスで肺炎を患って死亡した。父の死について、ビリーはこう語っている。
肺炎が彼を殺したのでなく、テキサス州ダラスだったということが致命的原因となったのだ。彼は治療して貰うために、病院から病院へと歩きまわった。しかしどこも彼を入れてくれるどころか、熱さえ計ってくれなかったのだ。(『奇妙な果実』)
在郷軍人病院の黒人用病室に収容されたときはもう手遅れだった。父の死因は肺炎ではなく、黒人であったことだったと彼女は言う。南部の黒人たちはリンチで殺された。父もまた黒人であることを根拠とする拒否と不作為によって殺された。父の死を思うことで、自分は「苦い果実」の詩のすべてを即座に理解することができた。そう彼女は回想する。
1957年に出版された自伝『奇妙な果実』は、ほとんど一パラグラフごとに事実誤記があると言われている本で、そこに描かれているのはあくまで「ビリーにとっての真実」であるというのが定説である。「詩をみせられたとき、私は直ぐに感動した」というのも、後年振り返ったときに彼女の脳裏に浮かんだ「真実」だったのだろう。だがそれに続く、「彼(アラン)は、私の伴奏者だったソニー・ホワイトと私に、曲をつけることをすすめ、三人は、ほぼ三週間を費してそれをつくりあげた」という記述は客観的事実とあまりにかけ離れていたので、この本が出版されたのち、バーニー・ジョセフソンもルイス・アランも、いろいろな人に本当の事情を説明しなければならなかった。もっとも、アランの原曲自体もかなりラフなもので、編曲家のダニー・メンデルソーンが手を入れることでようやく譜面になったという事実がいくつかの証言から明らかになっている。
「奇妙な果実」を世に出した「3人目のユダヤ人」
事実の誤りが多いビリー・ホリデイの自伝の中にあって、彼女が「奇妙な果実」を初めて歌った場面の記述はかなり事実に近いようだ。「私には、遊び半分で集まるナイトクラブの客に、私の歌の精神を感じとってもらえるかどうか、全く自信がなかった」と彼女は振り返る。
最初に私が歌った時、ああやっぱり歌ったのは間違いだった、心配していた通りのことが起った、と思った。歌い終っても、一つの拍手さえ起らなかった。(『奇妙な果実』)
やはり「歌の精神」は伝わらなかったのだろうか。そうではなかった。間もなくひとりの客が何かに憑りつかれたように拍手を始め、続いて会場全体が大きな拍手に包まれた。ミーロポルは、「彼女はびっくりするほどドラマチックに、そして効果的な解釈で歌ったので、聴衆を満足させるというよりは、なんというかショックを与えてしまった」のだと言っている。
私がなぜこの歌を書き、どう歌ってもらいたいかと考えていた、まさにそのとおりのものだった。ビリー・ホリデイの歌い方は比類のないもので、私がこの歌にこめた苦痛と衝撃を表現するのにぴったりの資質を持っていた。(『ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》』デーヴィッド・マーゴリック)
その頃、ビリー・ホリデイのレコードはコロムビア・レコードから発売されていたから、この歌もコロムビアで録音されるのが筋だったが、それが実現しなかったのはコロムビアの社員となっていたジョン・ハモンドが、「奇妙な果実」をメジャー・レーベルで扱える曲ではないと判断したからである。加えて、彼は個人的にこの曲をはっきり嫌っていた。
私は〈奇妙な果実〉は好きではない。それでコロンビアにはどこかよそでレコーディングさせるよう勧めたのである。多くの点で、この歌はアーティストとしてのビリーを損なっていると思う。(『ジャズ・プロデューサーの半生記』)
ハモンドは「奇妙な果実」は「芸術的に見れば、ホリデイのなかでこれまでで最悪のもの」であり、「ビリーにとって終わりの始まりが『奇妙な果実』で、そのときから彼女は左翼の知識人たちのお気に入りになった」のだとも語っている(『ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》』)。自身「左翼の知識人」であり、17歳のビリー・ホリデイの歌を聴いたときから「彼女こそ最高のジャズ・シンガーであると確信した」ハモンドだったが、彼にしてみればビリーは恋の歌を小粋に歌う歌い手なのであって、共産主義者がつくった「政治的な曲」を彼女が歌うことには我慢がならなかったらしい。
「奇妙な果実」は結局、コモドア・レコードという小さなインディ・レーベルでレコーディングされることとなった。マンハッタンでレコード・ショップを営んでいたユダヤ人ミルト・ゲイブラーが立ち上げたレーベルである。
ミルト・ゲイブラーの父はオーストリアから、母はロシアからアメリカに移民してきたユダヤ人だった。彼は父親が経営するラジオ店で働いていたが、1926年にその店でレコードを売り始め、1937年になると自らジャム・セッションを企画し、それを録音して販売するようになった。この「3人目のユダヤ人」の働きによって、数多くのリスナーが「奇妙な果実」を聴く機会を得ることになったのだった。
リリース後、歌詞の内容が強烈すぎるという理由で大半のラジオ局がオンエアを見送ったにもかかわらず、「奇妙な果実」は1939年7月の「ビルボード」のベストセラー・チャートで16位まで上がった。もちろん、ビリーにとってそれまでで最高のヒットだった。
彼女が歌い始めると、すべての動きがとまった
ヒットしたことでステージではいつも「奇妙な果実」をリクエストされることになったが、「彼女は聴衆を観察し、もしかれらが本気で聴く気になっていないようなら、けっして歌おうとはしなかった」という(『ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》』)。歌うのは必ずステージの最後で、この曲を歌ったあとはアンコールに応じなかった。
彼女が歌い始めると、すべての動きがとまった。ウエイターも会計係も下げ膳係もみんな動けなくなってしまった。(『ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》』)
ビリー・ホリデイには、彼女が手本としたベッシー・スミスのような声量はなかったし、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンのようなスキャットでのインプロヴィゼーションは一切しなった。あくまで抑制された声と感情で、クールに歌うのが彼女の持ち味だった。そしてそのスタイルは、「奇妙な果実」によくフィットした。
“ストレインジ・フルーツ”をうたうとき、ビリーは身じろぎもしなかった。その手は下にたらしていた。マイクにさえもふれなかった。顔には小さな光をうけていた。涙があふれてもその声は変わらなかった。(『月に願いを』)
公民権運動の活動家であり、黒人やジャズの歴史に関する多くの著作を残したデンプシー・トラヴィスは、「奇妙な果実」を歌うときビリーの顔にはいかなる感情もなく、曲の歌詞は蛇口からゆっくり流れ落ちる水のようだったと語っている。「この詩は、みえすいた感傷的なものとなる可能性があったが、そっけなく扱われることによって、最高のものとして尊敬されるようになったのである。苦悩はあるが、しかしそれにひたってはいないのである」。そう書いたのは、現代音楽家のガンサー・シュラーである(『ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》』)。
しばしば涙を流しながら「奇妙な果実」を歌ったとき、ビリーの心にあったのはどのような感情だったか。最初にあったのは父親の死のイメージだったとしても、何度となくこの曲を歌う中で彼女は、アメリカ南部の黒人が体験した災禍を自身の決して幸福とは言えなかった歩みに重ね合わせていったと思える。十歳のときにレイプされ、不良少女だからとカトリックの感化院に送られ、十四歳で売春婦となり、女子刑務所に収監され、不実な男たちに苦しめられ、歌と酒とドラッグだけが安らぎであった彼女の悲しみは、「奇妙な果実」で描写される悲しみと混じり合い、それはやがて一つになった。
彼女が味わったあらゆる敗北や、彼女自身が耐え忍び、背負ってきた多くのつらい出来事が増えていくにつれ、この歌はよりいっそう彼女個人のことを歌っているように思われていった。(『ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》』)
ユダヤ人から受け取った「悲しみのバトン」
後年、ビリーは黒人女性詩人マヤ・アンジェロウの息子に「奇妙な果実」を歌ってやったことがあった。幼い子どもは、歌詞にある「のどかな風景」の意味を彼女に尋ねたという。ビリーはこう答えた。
これはねぇ坊や、白人たちが黒人たちを殺しているときのことなんだよ。かれらは坊やみたいな小さな黒人の子どもをつかまえ、その子のキンタマをむしり、それを、くそっ、いまいましいったらありゃしない、その子の喉に突っ込むんだよ。これはそういう意味なんだよ。(『ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》』)
ビリーが激しい怒りを心のうちに抱えていたことをこの逸話は伝えている。しかし、ステージでこの曲を歌う彼女は、身じろぎもせず、両手を垂らし、涙を流した。それは怒りを湛えた人間の姿ではない。聴衆に静かに悲しみを伝えようとするひとりの黒人女性の姿である。ビリーの歌は自分ひとりだけに歌いかけてくれているような気にさせる。そうミルト・ゲイブラーは語っていた。
エイベル・ミーロポルが「奇妙な果実」の詩を書いたとき、彼の脳裏にはリンチで殺された黒人のイメージだけではなく、いわれなき迫害によって故郷を追われたユダヤ人同胞を思う悲しみが間違いなくあっただろう。ビリーは、ユダヤ人から受け取ったその悲しみのバトンを、一人ひとりの聴衆に丁寧に渡そうとした。決して昂ぶることのない、あの愛らしい声に乗せて。わが国の「かなし」という古語が、悲しさと愛しさというふたとおりの感情をあらわしたように、「奇妙な果実」を歌うビリーの声には悲しみと愛しみが溢れた。
心の底をのぞき込めば、悲しみなどいくらでもある。ビリーの声は一人ひとりが抱えるその悲しみを静かに震わせ、ビリーの言葉は人知れず忍ばれるその悲しみにそっと寄り添う。エンターテイメントは悲しみをいっとき忘れさせるが、アートは悲しみを美に変え、悲しみに向かい合う力を人々に与える。ビリー・ホリデイと「奇妙な果実」によって、ジャズはアートになった。狂気と騒乱の20世紀を代表するアートに。
(了)
〈参考文献〉『アメリカ黒人の歴史』上杉忍著(中公新書)、『アメリカ黒人史』ジェームス・M・バーダマン著/森本豊富訳(ちくま新書)、『歌と映像で読み解くブラック・ライヴズ・マター』藤田正著(シンコーミュージック・エンタテイメント)、「ミュージック・マガジン」2020年8月号、『ジャズ・プロデューサーの半生記』ジョン・ハモンド著/森沢麻里訳(スイングジャーナル)、『月に願いを』ドナルド・クラーク著/諸岡敏行訳(青土社)、『奇妙な果実』ビリー・ホリデイ著/油井正一、大橋巨泉訳(晶文社)、『ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》』デーヴィッド・マーゴリック著/小村公次訳(大月書店)、『ビリー・ホリデイとカフェ・ソサエティの人々』生野象子著(青土社)
「ヒップの誕生」の連載はこれで終了となります。4年間の連載を再構成し、書き起こし原稿を新たに加えた書籍『欲望という名の音楽 狂気と騒乱の世紀が生んだジャズ』が6月末に草思社より刊行される予定です。ご期待ください。