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「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
デヴィッド・ボウイは70年代半ば、スイスに居を定め、モントルーのスタジオで盛んにレコーディングを行っていた。彼がその「ホーム」のステージに立ったのは2002年のことである。当時の新作『ヒーザン』発売後のツアーの一環だったそのライブでは、彼の最高傑作と定評のある『ロウ』のほぼ全曲が演奏された。自身の現在と過去に対峙しながら最高のパフォーマンスを見せたボウイの姿が、音源と映像に残されている。
「デヴィッド・ボウイ」という架空のキャンバス
2016年1月8日、デヴィッド・ボウイは自身の69回目の誕生日にアルバム『★(ブラック・スター)』を発表し、その2日後に死んだ。「2日」というのは、ボウイにとって予期せぬ誤差だったのではないかと思う。彼は、自らが生まれた日に、最後の、そして最良と思える作品を発表し、同時に世を去るというそれまでいかなる芸術家も成し遂げたことのなかったプランを緻密に練っていたのではないか、と。
ボウイが肝臓癌を宣告されたのは14年半ばのことで、『★』は闘病生活の中で制作された。彼はこれが最後の作品になると承知していたとプロデューサーのトニー・ヴィスコンティは語っている。そうして『★』は、死の匂いを濃厚に漂わせる異形の傑作となった。
デヴィッド・ボウイというペルソナは、それ自体が一つの作品だった。会社勤めをしながらのバンド活動で成功のきっかけをつかもうとしていたロンドン郊外生まれの美青年は、デヴィッド・ロバート・ジョーンズという生まれ名とデイヴィー・ジョーンズという愛称を封印し、「デヴィッド・ボウイ」という仮面を被ることで世に知られることになった。さらにその仮面の上に彼は、ジギー・スターダスト、ダイヤモンドの犬、シン・ホワイト・デュークといった別の仮面を次々に被せ、それらのキャラクターを巧みに演じてみせた。彼が演じたキャラクターは、いわばデヴィッド・ボウイという架空のキャンバスの上に描かれた架空の画だった。キャラクターが役割を終えれば、画を消し去ってもとのキャンバスに戻し、新たな画を描けばよかった。
しかし、仮面の裏にある肉体はいずれ滅びなければならない。彼はデヴィッド・ボウイというペルソナを肉体の死の道づれにするために、最後までデヴィッド・ボウイを演じ切ろうとしたのだと思う。生前最後に撮られた写真で、ボウイはトム・ブラウンのダーク・グレーのスーツを纏い、黒いフェルトのハットを被って、豪快に笑ってみせた。これほど屈託のない笑顔をかつて人に見せたことがあったか。しかしこの笑顔もまた、おそらくは厳しいセルフ・プロデュースによってつくられた表情であっただろう。病に苦しみながら死んでいく英国人デヴィッド・ロバート・ジョーンズ。そんな姿を誰が見たいと思うか。デヴィッド・ボウイは死の瞬間まで、いや死してのちもデヴィッド・ボウイでいなければならない。それが人々の望みであるならば──。そんな強い思いが彼には最後まであったのではなかったか。
『ロウ』と『ヒーザン』の類縁性
1983年の『レッツ・ダンス』でデヴィッド・ボウイはカルト・ヒーローを脱し、マイケル・ジャクソンやポール・マッカートニーらと並ぶワールドワイドなスーパースターとなった。『レッツ・ダンス』は発売からの3カ月で100万枚を売り上げた。これは、それ以前の10年間のアルバムの総売り上げ枚数と同じ数字だという(『デヴィッド・ボウイ』野中モモ)。ボウイはさらに『戦場のメリークリスマス』や『ビギナーズ』をはじめとするさまざまな映画に出演し、俳優としての名声も確かなものとした。しかし、それは同時に表現者としての低迷期の始まりでもあった。その後、『トゥナイト』と『ネヴァー・レット・ミーダウン』という彼の全アルバム中最低評価を競う2枚の作品をリリースし、「バンドごっこ」と揶揄されたティン・マシーンを結成するも成果は残せず、低迷の時代はほぼ10年に及んだ。
ポップ・スターとして頂点を極めながら、アーティストとしては暗闇をさまよう。それまでのロック・ミュージシャンの誰も体験したことのなかったその奇妙なキャリアを経たのち、90年代のボウイは70年代の自身の作品をリファレンスの対象とすることで徐々に表現の水準を取り戻していった。
90年代から2000年代にかけてつくられた7枚のアルバムの中で最高の作品を一枚挙げろと言われれば、多くのファンは2002年の『ヒーザン』を選ぶのではないだろうか。盟友トニー・ヴィスコンティを22年ぶりに招聘してつくられたこのアルバムの収録曲は、3曲のカバー以外すべてボウイ単独のペンによるもので、これはこの時期の彼には珍しいことだった。パフォーマーやシンガーとして以上にソング・ライターとしての能力にボウイの本質を見るファンにとって、『ヒーザン』はまさに会心の一作と言ってよかった。
このアルバムのリリース後のツアーに先立つコンサートで、ボウイは『ヒーザン』と『ロウ』の全曲を収録順にプレイしてみせた。77年につくられた『ロウ』にフォーカスをあてたのは、自他ともに認める彼の最高傑作であるこの作品と新作『ヒーザン』との間にボウイが類縁性を認めていたからである。死後に出版された2段組み550ページを超える大著『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』で、著者の田中純は『ヒーザン』についてこう評している。
極端に短く切り詰められた詞の表現とどこか脳天気で調子はずれの明るさを帯びたそのサウンドは、深刻でありながら陽気で、簡潔なのに複雑な多義性を備えていた『ロウ』A面の歌に通じている。
2時間半を超える圧巻のステージ
そのコンサートからスタートしたツアーの過程で、ボウイはモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージに立った。2002年7月18日のことである。現在入手できるそのライブの音源は、FMラジオ放送をソースとした154分に及ぶ2枚組のCDとして発売されていて、YouTubeにもステージの模様が全編アップされている(途中で一部映像が飛ぶトラブルがある)。
ステージは3部に分かれていて、第1部とそのアンコールにあたる第2部は、『ヒーザン』からの曲に過去の代表曲を織り交ぜる構成になっている。「ライフ・オン・マーズ」から「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」、「チャイナ・ガール」から「スターマン」、「ステイ」から「チェンジズ」「ファッション」「フェイム」と、名曲を次々に畳みかける展開はボウイ・ファンであれば興奮せずにはいられない。第一部は「ヒーローズ」と「ヒーザン」という新旧の2曲によって閉じられる。
衣裳を着替えて登場した第2部では、『ヒーザン』中最も優れた曲と言っていい「エヴリワン・セズ・ハイ」に続いて、「ハロー・スペースボーイ」「レッツ・ダンス」「ジギー・スターダスト」の全4曲が演奏される。時間的にも展開的にも、ステージはここで終わると観客のほとんどは思ったのではないか。
しかし、ボウイは再び衣裳を変えてステージに現れ、キーボードの前に立つと、「ワルシャワ」のメロディを弾き始める。傑作『ロウ』を象徴するあの幻想的なインストルメンタル曲である。第3部では『ロウ』の収録曲11曲中10曲が演奏された。『ロウ』の収録曲の半数以上はインストルメンタル、あるいはそれに準じる曲である。ボウイはキーボードのほか、当時の西ベルリンでの新しい生活を表現した「ア・ニュー・キャリア・イン・ア・ニュー・タウン」でハーモニカを、最終曲の「サブテラニアンズ」ではバリトン・サックスを演奏している。
2時間半を超えるステージのボウイは一貫して上機嫌で、冗談を飛ばしながら笑顔を振りまき、客席と積極的にコミュニケーションをとる姿は自然体そのものに見える。観客は仮面の裏の彼の素顔を見たのだろうか。それとも彼は「リラックスした55歳のロック・スター」を演じてみせたのだろうか。
いずれにしても、彼がスイスのモントルーという場所に親近感をもっていたことは確かだった。70年代半ばからしばらくの間、彼は住居をスイスに定め、クイーンが所有してたモントルーのマウンテン・スタジオで何枚ものアルバムをレコーディングしている。観客としてモントルー・フェスのライブを見たこともあったようだ。『レッツ・ダンス』のギタリストにスティーヴィ・レイ・ヴォーンを起用したのは、モントルー・フェスでの彼のプレイが気に入ったからだったと伝わる。モントルーのステージをボウイはおそらくホームのように感じていたことだろう。
ボウイは生前に3枚のオフィシャル・ライブ・アルバムを発表しているが、このモントルーのライブ作は、ボリューム、曲のランナップ、演奏レベル、ボウイの歌唱などにおいてそれら過去のアルバムを上回っている。加えて、数あるモントルー・フェスのライブ・アルバムの中で最も聴き応えのある作品の一つであると言っていい思う。
ジャズへの接近が意味するもの
2014年、ボウイは現代ビッグ・バンド・ジャズの第一人者であるマリア・シュナイダーのオーケストラとともに新曲「スー(オア・イン・ア・シーズン・オブ・クライム)」をレコーディングし、シングルとして発表した。ボウイのキャリア中、最もジャズに接近したこの曲を聴いて長年のファンは驚いたが、若き日の彼が最初に志した音楽がジャズであり、バンド活動の始まりがサックス・プレーヤーであったことを考えれば、むしろボウイは原点に返ったとみることもできた。
映画『ビギナーズ』の監督ジュリアン・テンプルは、「生涯を通してデヴィッドの情熱の対象となるジャズに関するすべてを彼に教えたのはテリーだった」と語っている(『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』)。テリーとはデヴィッドの10歳年上の異父兄の名である。デヴィッドがサックスを手に取ったのは、テリーから教えられたジャズ・ミュージシャンの中で、とりわけバリトン・サックス・プレイヤーのジェリー・マリガンに憧れたからである。モントルーにおける彼のバリトン・サックス・プレイは、そんな過去と一直線につながっている。
ボウイは「スー」に続くアルバム、すなわちのちに『★』と名づけられることになるアルバムでもマリア・シュナイダーと共演することを望んだが、マリアのスケジュールがそれを許さず、彼女が推薦したジャズ・プレーヤーたちを起用してアルバムはつくられることになった。ダニー・マッキャスリン、マーク・ジュリアナ、ジェイソン・リンドナー、ティム・ルフェーブル、ベン・モンダーといった面々である。この逸話からわかるのは、ボウイはおそらく自身にとって最後となる作品をジャズ・アルバムもしくはそれに近いものにしようと考えていたということだ。
『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』を読むと、兄テリーの存在がボウイにとってどれほど大きなものだったかがよくわかる。テリーは若い頃から精神を病んでいて、何度かの自殺未遂ののち、1985年に線路に身を横たえて自死を完遂した。自身の死期を悟ったボウイは、人生の最後にジャズに最接近することによって、彼にジャズを教えてくれたテリーのもとへ行こうとしたのではなかったか。そんなふうに考えてみたくなる。
『★』の最終曲、つまり我々が聴くことのできるボウイの最後の歌は「アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ」である。「私はすべてを与え切ることはできない」という老賢者のような言葉が反復されるこの曲で、ボウイは「ニュー・キャリア・イン・ア・ニュー・タウン」のハーモニカのフレーズを引用している。モントルーのステージで自ら吹いたあのフレーズである。
新しい街で新しいキャリアを始めるが如き軽やかさをもって、デヴィッド・ボウイは別の世界に向かった。自身が生まれた日であり、最後のアルバムが発表された日のその2日後に。この2日の誤差がなければ、デヴィッド・ボウイの生涯は完璧なものになったはずだ。彼はデヴィッド・ボウイというペルソナを自分が企図したように演じ切ることはできず、生身のデヴィッド・ロバート・ジョーンズとして死ななければならなかった。だがそれによって、彼はそれまで人々に見せたことのなかったフラジャイルな姿をはからずも表現したとも言える。私はすべてを与え切ることはできない──。いや、われわれは最後にすべてを与えられたと言うべきだろう。
文/二階堂 尚
〈参考文献〉『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』田中純(岩波書店)、『デヴィッド・ボウイ──変幻するカルト・スター』野中モモ(ちくま新書)、「ユリイカ」2016年4月号(青土社)
『Montreux Jazz Festival』
デヴィッド・ボウイ
■1.Sunday 2.Life on Mars? 3.Ashes to Ashes 4.Cactus 5.Slip Away 6.China Girl 7.Starman 8.I Would Be Your Slave 9.I’ve Been Waiting for You 10.Stay11.Changes 12.Fashion 13.Fame 14.I’m Afraid of Americans 15.5:15 The Angels Have Gone 16.”Heroes” 17.Heathen (The Rays) 18.Everyone Says ‘Hi’ 19.Hallo Spaceboy 20.Let’s Dance 21.Ziggy Stardust 22.Warszawa 23.Speed of Life 24.Breaking Glass 25.What in the World 26.Sound and Vision 27.Art Decade 28.Always Crashing in the Same Car 29.Be My Wife 30.A New Career in a New Town 31.Subterraneans
■デヴィッド・ボウイ(vo,g,kb,sax,harmonica)、アール・シック(g)、ゲリー・レオナルド(g,vo)、マーク・プラティ(g,vo)、ゲイル・アン・ドーシー(b,vo)、スターリング・キャンベル(ds)、マイク・ガーソン(kb)、キャサリン・ラッセル(kb,per,vo)
■第45回モントルー・ジャズ・フェスティバル/2002年7月18日