投稿日 : 2023.07.25

【証言で綴る日本のジャズ】安倍寧|シャンソンもタンゴもハワイアンも「ジャズ」だった─ 戦後ショウビジネスの新たな幕開け


ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。

今回登場するのは音楽評論家の安倍寧。1950年代に音楽ライターとして活動を開始し、ジャズやポピュラーミュージックを対象に鋭敏な論説を展開。さらに、ミュージカルを介して米英のショービジネスにも暁通し、日本での舞台公演や企画、運営にも数多く携わってきた。“昭和の芸能とメディア” の最深部を知る同氏が、衝撃の体験談を語り出す。

安倍 寧
あべ やすし/音楽評論家。1933年5月21日、静岡県沼津市生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学科を卒業する55年(昭和30年)、『デイリースポーツ』紙でライター・デビュー。当初はジャズを中心に執筆していたが、徐々にポピュラー・ミュージック全般を守備範囲に。同時にショウ・ビジネスの世界に関わりを持ち、執筆以外にもさまざまな形で活躍。65年以降はミュージカルに対する造詣を深め、ニューヨークのブロードウェイ、ロンドンのウエスト・エンドで上演された多くの舞台を観てきた。学生時代からの盟友・浅利慶太が主宰する劇団四季の取締役として『キャッツ』『オペラ座の怪人』『マンマ・ミーア!』など、日本公演の企画・交渉に携わった時期も長い。一方、歌謡界、Jポップス界との関係も強く、長年にわたり「日本レコード大賞」の実行委員・審査委員を歴任。執筆業のかたわら、エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社顧問をはじめ多くの要職も務めてきた。

生家に爆撃─耳に残る戦前の流行歌

──まずは生まれた場所と生年月日を教えてください。

昭和8年5月21日、西暦でいいますと1933年になります。親父が静岡県の沼津市で耳鼻咽喉科を開業しておりまして、そこで生まれました。

──東京に出られたのは?

高校一年のとき。

──すると、戦時中は静岡?

昭和20年の5月に沼津市から疎開をしました。御殿場の奥ですね。いまは御殿場市に併合されていると思いますが、駿東(すんとう)群高根村というところ。それで戦争が終わりましてすぐに静浦という御用邸がある近く、今度は海があるところに行きました。ですから、昭和20年は非常に慌ただしかったことを覚えています。

──ギリギリになって疎開されたんですね。

はい。その前に沼津市は爆撃されて、わが家にも25キロ爆弾が落とされました。病院のうしろに「食堂兼音楽室」があったんですけれど、そこに直撃弾が落ちたんで、家の半分が吹っ飛んじゃった。

──疎開をされて、次が御用邸のあるところ。そこでお父様は開業を?

ちょっとしましたけれど、また沼津駅近くの、駅から歩いて十分くらいのところに戻って。

──ジャンル問わずですけれど、最初に聴いた音楽の記憶にはどんなものがありますか?

親父が音楽好きで、病院とは別に「食堂兼音楽室」と称する別棟を作っておりました。その音楽室にはアップライト・ピアノと、背の高い手回しの蓄音機、電蓄ではありませんでしたけれど、それがありました。日常生活をするところにもポータブルの蓄音機がありました。あと、どこの出版社か忘れたけれど、『世界音楽全集』がぜんぶ揃っていて、これは何十冊もあるクラシックの譜面でした。

安倍寧

──当時のレコードはSPですよね。

SPです。クラシックだと12インチの、サイズが大きなレコードでした(SPは直径10インチが一般的)。曲は、覚えていない……。ぼくも子供のころにバイエルンまではやったんです。怠けてしまって、あとはなにもやらなかったけれど。

──最初はクラシックが……

クラシックと……童謡はあんまり聴いたことがないなぁ。あっという間に軍歌になりましたからねぇ。でも、母親の姉妹が歌っていた流行歌が耳に残っています。「空にゃ今日もアドバルーン……ああそれなのに、それなのに」(注1)とかねぇ。流行歌ではそういうのが記憶にあります。

注1:37年に美ち奴が歌ってヒットした曲〈あゝそれなのに〉。作詞=星野貞志、作曲=古賀政男

──戦前・戦時中は、ポピュラー・ミュージックの記憶はほとんどない?

まったくないといっていいでしょうね。かろうじて歌謡曲ですかねぇ。

玉音放送と進駐軍放送

──洋楽のジャズにしろカントリー&ウエスタンにしろ、聴いたのは戦後で。

やっぱり戦後の進駐軍放送でしょう。WVTR、その後のFEN(注2)。

注2:45年9月に開局した在日米軍向けのAMラジオ放送。当初はWVTRと呼ばれ、その後はFEN(Far East Network)の名で親しまれ、97年からはAFN(American Forces Network)に改称。

──終戦のときのことは覚えていますか?

明確に覚えています。高根村の小学校に5月から8月末まで在学していました。8月15日には小学校の校庭に集合しました。それで、学校のラジオで生徒たちは頭をうな垂れて玉音放送を聞く。その場面も声もよく覚えています。小学校六年生の8月です。

──その前から、日本は負けたなと思っていました?

高根村にも単発だか双発だかのアメリカ軍の飛行機が来て、機銃掃射をされました。通学の途中でサイレンが鳴って、子供のわたしたちがバタバタ道を駆けずり回っていると、空から機銃掃射を浴びせられました。

──けっこう危ない目に遭われて。

30メートルくらい離れているところに爆弾が落ちたことがあります。だいたいバラバラバラって10個ぐらい爆弾を落としていくと、50メートルごとに1個くらい落ちてくる。

──そういう体験をしていれば、敗戦は仕方ないという気持ちに。

うーん、生命の危機は感じていました。

──戦争が終わってどうしようとか。子供だから、まだそんな考えはなかった?

親父が医学部を出た当時は、大正13年(1924年)ですが、一年志願兵(注3)という制度があって。大学を出たあとに1年だけ軍に入ると、召集令状が来たときにいきなり将校に任官できるんです。要するに、半分プロの軍医みたいな資格がもらえるわけです。

注3:旧日本陸軍の兵役に服する者のうち、中学校以上の卒業資格を有し、陸軍の予備・後備の将校となることを志願し、特定の試験に合格し、一年間現役に服する者のこと。

普通だと赤紙が来て一兵卒に取られる。一兵卒からやらなきゃならない。けれど、大卒にはそういう特例があったんです。軍医が足りなかったから、召集令状が来て、すぐ陸軍少尉で任官して、行っちゃいました。豊橋の陸軍病院に務めていましてね。終戦で親父はまた開業医。小学校を転々としたわたしは訳わからずで。

安倍寧

──終戦になって、しばらくして沼津に戻り、最初のポピュラー・ミュージックというか洋楽が入ってきたのが進駐軍放送のWVTR。NHKでも洋楽が聴けましたよね。

もちろんそうです。

──初期で鮮明に覚えている音楽は?

父親の医者仲間にジャズ好きがいっぱいいたんで、すぐに覚えました。最初に聴いたジャズのフル・オーケストラ、それがジャズを聴いたいちばん最初だと思うんですが、ルイ・アームストロング(tp, vo)もベニー・グッドマン(cl)もみんな越しちゃって、スタン・ケントン(p)のオーケストラ。お医者さん仲間がいきなりウディ・ハーマン(cl, sax)、スタン・ケントンのSPをかけて、「いま、これが流行だよ」と。昭和21年ぐらいの話です。

──それまでは、邦楽やクラシックを聴いていて。まったくサウンドが違うじゃないですか。こりゃあすごいとか、思いました?

新鮮な感じがして、心が踊りました。そのうちにNHKのジャズ番組を聴くようになったり、WVTRが聴けるようになって。そのころはジャズというより、WVTRで聴いたのはヒット・パレードものですね。ドリス・デイ(vo)の〈センチメンタル・ジャーニー〉とか〈アゲイン〉。当時、日本全国いたるところに兵隊がいましたから。なんとなく彼らの音楽だなという感じはしました。

──日本の歌謡曲とは違う印象が。

音の響き、歌詞、まったく別物でした。でも、歌謡曲も決して聴かなかったわけではないんです。たとえば美空ひばりだってけっこう最初はモダンな歌をうたっていたし。それからエノケン(榎本健一)もジャズを歌っていました。ジャズもどきをね。

──日本語でエノケンのダイナとかを。

そのとおりです。

日劇で聴いた “生のジャズ”

──高校までは沼津?

高校一年の7月に東京に出てきました。

──家族全員?

初めはぼくひとりで、あとから家族が。

──大学が慶應義塾の文学部仏文学科。高校一年から東京の学校。それも慶應ですか?

都立日比谷高校です。

──そのために出てきた?

はい。親父が昔の一中(のちの都立日比谷高校)だったものですから。そういうことも関係していました。

──そのころはポピュラー・ミュージックを熱心に聴くようになっていた?

進駐軍放送の『ヒット・パレード』ですかね。この番組、大好きでした。それとNHKラジオの音楽番組です。NHKの番組には二種類あって。日本のジャズ・バンドを録音して放送するもの。あ、録音じゃないね、当時は生放送。それともうひとつは解説者がいて、外国のレコードをかけるという二種類がありました。どちらかというと、生放送は娯楽番組的、解説者が出てくるほうは教養番組的な色彩がありました。

ぼくがジャズを生で知って、魅力を感じるようになったきっかけは、高校の同級生に、いまはなくなった「日劇(日本劇場)」のファンがいましてね。「日劇」は日劇ダンシング・チームを持っていた。それと、「日劇」は東宝映画の封切館だったんです。

安倍寧

──映画との抱き合わせでしたね。

そうです。映画がメインで、ダンシング・チームが活躍するレヴューは添え物のアトラクション。東宝系は「日劇」をトップの映画館として、新作を最初に封切りましたから。ここは東宝系でいちばんの映画館。そのアトラクションにいろんなショウがあり、その中にさまざまなジャズ・バンドが出てくるんです。

高校の同級生に日劇ダンシング・チームのファンが何人かいまして。「一緒に観に行こう」と誘われて、ぼくも行くようになりました。学校を出てずっと経ったあとで、「なんで君たちは日劇のファンになったの?」って聞いたら、「あるとき日劇の前を歩いていたら、呼び込みのおっさんが『今日は宝くじの抽選会だからタダで観られるよ』といって、入れてくれた。それで観たら、綺麗なお姉ちゃんがいっぱい出ているんで、すっかりファンになっちゃった」。

ぼくが彼らと知り合ったころは、けっこう楽屋訪問をしたり、楽屋に上げてもらったりしていました。日劇ダンシング・チームの女の子には「仮券」と称する招待券が出せる特権があってね。その招待券を出してもらうくらいの仲になっている友人が何人かいて。つき合っている女の子のほうも数人いたかな。

最初は宝くじの抽選会に呼び込まれて、「綺麗なお姉さんがいっぱいいて楽しいな」ってことで一生懸命ファン・レターを書いて、プレゼントを届けたりして、個人的な関係が出来上がった。幸いにも、ある程度つき合いができたところにぼくが誘われたんです。

「日劇」で本格的にジャズと出会いました。当時、ここのオーケストラ・ボックスには後藤博(tp)とディキシーランダーズというフル・バンドが入っていました。もともとは進駐軍のクラブや日本のキャバレーなどで演奏していたフル・オーケストラですが、それがそっくりそのまま入っていました。けっこうジャズっぽい音楽もやっていました。そのディキシーランダーズが最初に聴いたジャズのフル・オーケストラになるんです。

竣工当時(1933年)の日劇

──コンボを聴くのはこのあと?

あとですねぇ。それから「日劇」のショウの常連として、渡辺弘(sax)とスターダスターズがいました。スターダスターズはヴァイオリンも入れるような編成で。いまでも覚えているのは美女のヴァイオリニストがいて。渡辺弘さんが狙ったのはシンフォニック・ジャズでした。そういうバンドがショウに出ることもありました。

──豪華ですね。

はい、ものすごく豪華でした。コンボでは与田輝雄(ts)とシックス・レモンズを「日劇」のステージで観ています。ここのドラマーでのちに人気俳優になるフランキー堺(注4)と結婚するのがNDT(日劇ダンシング・チーム)の美人ダンサー、谷さゆりです。ぼくの級友のひとりは彼女にせっせと贈り物をしていました。

注4:フランキー堺(ds、俳優 1929~96年) 大学時代から進駐軍のキャンプでシックス・レモンズのドラマーとして活躍。54年にスパイク・ジョーンズ楽団を手本に、フランキー堺とシティ・スリッカーズを結成。築地のクラブで演奏しているときに伴淳三郎と知り合い、役者に転向する。

──フランキーさんはまだ冗談音楽みたいなことはやっていなかった?

コミック・アクトを交えるシティ・スリッカーズはずっとあとです。普通にジャズをやっていました。フランキーは日本のプレイヤーでいうと、ジョージ川口さんがトップ・ドラマーで、次がフランキー。そこに白木秀雄が出てきて。藝大(東京藝術大学・音楽学部打楽器科)卒っていうんで、それが売り物でしたよね。

──フランキーさんも含めて、高校時代にそういう演奏を聴いていて。その流れで、ジーン・クルーパ(ds)が来たときも観ている。

そういうことです。彼が来たのが昭和27年(1952年)。大学に入ったか入る直前かですね。

──日本に着いたのが4月19日ですから、大学に入った直後だと思います。この時点で、ジーン・クルーパは安倍さんの中でビッグ・スターだったんですか?

ジーン・クルーパ(ドラムス)と彼のバンド。1950年頃の写真

ビッグ・スターでした。なんとなく情報はありました。そのころ、ぼちぼちジャズ喫茶というより喫茶店でジャズのSPをかける店がいくつか出てきました。本格的にジャズをかける店ではなくて、BGMのような形でジャズを流している店でした。そういうところで、なんとなくジーン・クルーパの名前は聞きました。

──実物をご覧になってどうでした?

びっくりしました。やっぱり迫力がありました。記憶が薄れてはいるのですが、あのときはバス・ドラムがふたつだったかな? 噂ではそれをジョージ川口が見習ってダブル・バス・ドラムにしたといわれています。トリオの演奏で印象が強かったのはチャーリー・ヴェンチュラ(sax)。サックスのブローがとても強烈でした。

──それまで日本のジャズを聴かれていたわけですが、そういったものとはまったく違った?

違いました。リズムがはっきり刻み込まれていましたし、ワクワクするような盛り上がりがありました。本物を観たという感じですか。ただ、なぜかジーン・クルーパよりチャーリー・ヴェンチュラの印象が強かった。あのトリオはヴェンチュラを売り物にする、そういうところがあったんでしょうね。

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