投稿日 : 2023.07.25

【証言で綴る日本のジャズ】安倍寧|シャンソンもタンゴもハワイアンも「ジャズ」だった─ 戦後ショウビジネスの新たな幕開け


“音楽ライターと新聞記者” のはざまで

──大学を卒業して、就職する気はなかった。

卒業したんですけど(笑)、就職しなかったに等しいんで。映配株式会社っていう映画配給の会社があって、のちの松竹映配会社ですが、そこでアルバイトしていたことがあるんです。4月から正社員として勤めるはずになっていたけれど、原稿の注文がけっこう来たりしたので、行かなくなった(笑)。

──でもそういう会社でアルバイトしていたってことは……

芸能関係に興味があったんですね。普通の会社員にはなりたくなかった。映配もいちおう入社試験を受け、パスしていたんです。そういえば、学生時代にマネージャーみたいなことはしたことがあるんです。大学二年のときに雪村いづみがデビューして、超人気になった。そのときに関西方面を初めて巡業することになって。

細かいいきさつをぶっ飛ばしてお話しちゃうと、関西公演をプロデュースしたプロモーターが経費節約のため慶應の学生バンドを使いたいと相談に来て、紹介したことがあるんです。そこでバンドからマージンをもらったんだよね。「この商売もいいなぁ」とは思いました(笑)。そんなことをやったり、しろうとの物書きをやったりしていたんです。

──書くことは以前からしていたんですか?

いや、あまり書いてなかったんですけれどね。ぶっつけで書いていました。

──書くことは苦手じゃなかった。

ひねり出していました。そんなに得意でスラスラというほどではなかったです。

──安倍さんは音楽評論家というかライターというかでデビューされて、ジャンルはとくに限定せず、ポピュラー・ミュージック全般を書かれていた?

そうですね。ジャズに特化するというより、歌謡曲をのぞくポピュラー音楽全般を書くようにしたいなという希望はありました。最初はジャズがメインでした。ハワイアン、カントリー&ウエスタンも人気があったので書きました。日本のバンドの歌手やプレイヤーがどこからどこに移ったとか、そういうニュースをけっこう載せてくれました。

──フリーランスで新聞以外にも書かれていたと思いますが、安倍さんの中では、たとえば『デイリースポーツ』紙に原稿を書くときは、新聞記者みたいな意識なんですか? それとも評論家の意識ですか?

鋭い質問だなぁ(笑)。中間でしょうね。というのは、新聞記者にはなりたくないというかなぁ。新聞記者とは違うスタンスで書きたい。もう少し批評を加えた文章を書きたい。ですから、当時は『デイリースポーツ』を中心にして、いわゆるコンサート評も書いていました。コンサート評の中にはジャズもある。中村八大トリオとか、そういうもののコンサートがあれば批評も書きました。だから批評家になりたい意識はあったかもしれない。

安倍寧

──『デイリースポーツ』から「こういう取材をしてくれ」という依頼もありましたか? そういうときでもフリーの評論家的立場で行くんですか? それとも『デイリースポーツ』から派遣された気持ちで行く?

肩書なしの物書きとして行きました。こっちに任せてくれましたから。勝手に取材をしに行くという、ある意味でフリー・ハンドで。ですから、「スター物語」みたいなものも『デイリースポーツ』に書いていました。1回原稿用紙3枚くらいで、それを1週間書くとか。「越路吹雪物語」「ペギー葉山物語」なんてのを書きましたね。

それからもうひとつ重要だったのが、ジャズを中心にしたプロダクションが活躍し始めたことです。これもネタになったんですよ。いちばん目立ったのが渡辺プロ(注13)。その動静が大きなネタになりました。

注13:渡辺プロダクションのこと。渡辺美佐(1928~)と渡辺晋(1927~87年)が55年1月に設立。二人三脚で日本最大規模のプロダクションに育てあげる。

コンボでは、ビッグ・フォアは「国際劇場」を満員にできちゃうほどすごい人気があった。全国津々浦々、公演ができました。そういうものの批評や大騒ぎな様子も取り上げる。あと、ジャズだけじゃなくて、たとえば昭和33年(1958年)になるとポール・アンカ(vo)が来るとかね。ビッグ・スターが来日するようになりますから、そういう連中も取り上げることになった。彼やマンボのペレス・プラードのステージ評も書いた記憶がある。

──ポピュラー全般ですね。その後にロックが出てくる。

ロックはぼくの意識の中でいちばん占有率が低いんだなぁ。ぼくの感性の中で、ロックは結局この歳になるまで消化できていない。「日劇ウエスタン・カーニヴァル」(注14)の第1回のときには、初日に渡辺美佐さんと一緒に観ましたけど、すごいキャーキャーワーワーでした。「武道館」のビートルズもすごいキャーキャーワーワーだった。けれど、あのときにファンの一員のような一心同体にはなれなかった。

注14:58年2月~77年8月まで「日劇」で開催されていた音楽フェスティヴァル。 全57回公演。

──ウエスタン・カーニヴァルは平尾昌晃、山下敬二郎さん、ミッキー・カーチスさんとか、最初はそういうひとたちがスターで、歌謡曲とは違う、日本人が作った歌でも洋楽っぽいものをやるようになって。そのあと、グループサウンズが出てくる。

そういうのもぜんぶ観ています。たとえばジャズのひとたちもそちらに流れたんですよ。平尾昌晃の最初のマネージャーは永島達司(注15)さんです。キョードー東京の。戦後のジャズを含むショウ・ビジネスの歴史の中で重要な役割を果たしたのは、永島さんと渡辺晋・美佐夫妻かなぁ。永島さんの仕事ではナット・キング・コール(vo, p)が素晴らしかった。とくにトリオで演奏したジャズが……。

注15:永島達司(プロモーター 1926~99年)少年期をニューヨークとロンドンですごし、41年帰国。戦後進駐軍クラブのマネージャーを経て、57年協同企画(現キョードー東京)設立。66年ビートルズの日本公演を実現させるなど、外国人ミュージシャンの招聘に実績を残す。

──江利チエミさんがアメリカ公演を終えて帰ってきたときに(53年)、デルタ・リズム・ボーイズを伴ってくるんでしたね。そのときのアメリカ公演のマネージャーが永島さんで、デルタ・リズム・ボーイズを見つけて、日本でチエミさんとの共演を企画する(注16)

注16:そのときに残されたのが61年2月20日、21日に東京・大手町「産経ホール」で実況録音された『江利チエミ/チエミ・アンド・ザ・デルタ・リズム・ボーイズ』(キングレコード)。伴奏は原信夫(ts)とシャープス&フラッツ。

羽田に着いて、江利チエミが飛行機から降りてきたときに花束を持って迎えたのが雪村いづみ。いづみがビクター、チエミがキングで。レコード会社が違うのに、後輩として花束を持って行って。

デルタリズムボーイズ

これ、有名な話ですが、チエミはそのときに〈ティル・アイ・ワルツ・アゲイン・ウィズ・ユー(思い出のワルツ)〉をレコーディングするはずだった。それをいづみが先に権利を取っちゃったっていうんで、チエミがつっけんどんに「この子、どこの子?」といったって。

守安祥太郎の評判

──安倍さんの出発点はジャズの原稿ですけど、のちのち比重が変わっていきます。最初の10年くらいはジャズの比重が大きくて。

そうですね。日本のジャズの動向を追いかけていたし、そういうことの取材先として渡辺晋さん、美佐さんは非常に大切な存在でした。

渡辺晋とシックス・ジョーズはね、テーマ曲がジョージ・シアリング(p)の〈セプテンバー・イン・ザ・レイン(九月の雨)〉。シックス・ジョーズはクール・ジャズ(注17)を目指していたんです。そこに、「少しブローもあったほうがいい」というんで、晋さんが松本英彦(ts)を連れてきた。そのあと、松本英彦はジョージ川口のビッグ・フォアに入る。

注17:当時クール・ジャズを代表するコンボがジョージ・シアリング・クインテットで、そのサウンドを手本にしたのが渡辺晋とシックス・ジョーズ。

──そういう動きを安倍さんは非常に近い場所で目撃されていた。

そういうことを知っているジャーナリストがほかにいなかったので、自分が書いたってことです。

──秋吉敏子(p)さんは聴かれている?

聴いていますし、JATPが来日した際、TBS(当時はラジオ東京)でレコーディング(注18)するときのいきさつにも興味があってウォッチしていました。巷間伝えられているところによると、オスカー・ピーターソン(p)が昼間、西銀座のジャズ喫茶「テネシー」に来て、その晩は銀座の七丁目か八丁目、松坂屋の並びにあった「銀馬車」(注19)に。彼女は、昼夜かけ持ちで、昼は「テネシー」、夜は「銀馬車」に出ていた。それでとんとん拍子にラジオ東京のスタジオで録音する話になるんです。

注18:それがアメリカで発売された『Toshiko’s Piano』(Norgran)。邦題は『アメイジング・トシコ・アキヨシ』(ヴァーヴ)。これがアメリカで評判を呼んだことから、55年、ボストンのバークリー音楽院留学に繋がる。メンバー=秋吉敏子(p) ハーブ・エリス(g) レイ・ブラウン(b) J.C.ハード(ds) 53年11月 東京で録音

注19:筆者が秋吉に行なったインタヴューでは「銀馬車」だったが、2021年の『読売新聞』紙オンラインの記事ではクラブ「ニュー銀座」となっている。

のちに、秋吉さんはぼくに、「オスカー・ピーターソン以外で誰が来たかは明確に憶えていない」とおしゃっていましたけれどね(関係者がフリップ・フィリップスとオスカー・ピーターソンを連れてきた)。ラジオ東京のひとが絡んでいるんだよね。有名なジャズのプロデューサーで、ジャズ番組をやっていたひと。

──石原康行さん?

そう、石原さんでした。しかし、やっぱり秋吉さんが出来事です。あそこで認められてアメリカに行くチャンスを掴んだことは、日本のジャズにとって大きいねぇ。その後の影響に。だって渡辺貞夫(as)さんがのちにバークリーに行ったのも秋吉さんの推薦があったからだし。

秋吉敏子。1955年頃に撮影されたポートレート

──当時の秋吉さんはピアニストとして傑出していたんですか?

最初、ぼくが聴いたころはシックス・レモンズ(注20)にいました。シックス・レモンズはフランキー堺がタイコ、平野快次がベースで、リーダーが与田輝雄。それから、トランペットが松本文男。秋吉さんはシックス・レモンズを抜けてコージー・カルテットを作る。このバンドも「テネシー」でよく聴きました。そんなに尖ったモダン・ジャズじゃなくて。これは、店の方針だったのかもしれない。

注20:与田輝雄(ts)が51年10月に結成。初代メンバーは、渡辺辰郎(as)、松本文男(tp)、秋吉敏子(p)、平野快次(b)、フランキー堺(ds)。当時はこのグループとジョージ川口のビック・フォアに渡辺晋のシックス・ジョーズが3大人気コンボだった。

──守安祥太郎(p)さんは?

聴いたことがないんです。伝説的なジャム・セッションとかに出ていたのは知っていましたが。

──噂にはなっていたんですか?

すごくなっていました。ジャム・セッションに参加したジャズメンたちからなんとなく聞いていましたから、「聴いてみたいな」とは思っていました。

──渡辺貞夫さんがデビューしたころは聴かれました?

秋吉さんのところに貞夫さんもいたんだよね、聴いてますけど、それほど熱心には聴いていなかった。スタンドプレイのない、やや地味目、控えめな印象でした。そんなに前衛的ではないけれど低俗でもない。

当時の印象とすれば、非常にバランスの取れた、どちらかといえばマイルドなプレイヤー。秋吉さんとやると、秋吉さんがブローは抑え気味のひとだったから。そういうプレイを心がけていたんでしょう。ただ、ときには火を噴くような、なかなか激しいプレイもありました。それよりは松本英彦さんのほうがブローしてましたね。

──松本さんはブローを売り物にしていたんですよね。そうなると、彼がいたビッグ・フォアはバンドとしてかなりのインパクトがあった?

ビッグ・フォアは興行的にすごかった。人気歌手が「日劇」や「国際」を1日3回満員にするような、バンドでありながらそれができた。そういうグループはほかになかったですね。「国際劇場」で「国際最大のジャズ・ショウ」という公演が何度も行なわれるんだけれど、これのプロデューサーはぜんぶ永島達司さんです。出たいひとはみんな永島さんに売り込んでいました。

国際劇場パンフ
国際劇場が発行していた小冊子

──国際最大のジャズ・ショウは相当な人気で?

人気でした。それが、たとえばジャズじゃないけれど、ペレス・プラードとかの興行に繋がっていく。ポール・アンカを呼ぶとか。

──当時はこういうパッケージ・ショウみたいなものが多かった。

そうですね。いくつかのバンドが出てくるんです。歌手も、ナンシー梅木、江利チエミ、笈田敏夫、ビンボー・ダナオなど。SKD(松竹歌劇団)のダンス場面もありました。

──その流れを作ったのが日劇だったり、国際劇場だったり。

そういうことです。「国際」は永島達司さん。「日劇」は東宝の社員でジャズにとても熱心なひとがいて。伊藤康介さんという、東宝の社員プロデューサーで、ジャズが大好きで、ジャズ界に対する「日劇」の窓口になっていたようなひとです。渡辺美佐さんも、「伊藤さんのことは忘れられているけれど、彼がいたから日劇でジャズができたんだ」とおしゃっていました。

──やっぱり、ちゃんとした方がいるから成立したんでしょうね。

好きで、ジャズを盛り上げたい。ジャズという新しい音楽を、日本人に知られていない音楽を紹介したいという意欲があったんでしょう。

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