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ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。
今回登場するのは音楽評論家の安倍寧。1950年代に音楽ライターとして活動を開始し、ジャズやポピュラーミュージックを対象に鋭敏な論説を展開。さらに、ミュージカルを介して米英のショービジネスにも暁通し、日本での舞台公演や企画、運営にも数多く携わってきた。“昭和の芸能とメディア” の最深部を知る同氏が、衝撃の体験談を語り出す。
安倍 寧
あべ やすし/音楽評論家。1933年5月21日、静岡県沼津市生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学科を卒業する55年(昭和30年)、『デイリースポーツ』紙でライター・デビュー。当初はジャズを中心に執筆していたが、徐々にポピュラー・ミュージック全般を守備範囲に。同時にショウ・ビジネスの世界に関わりを持ち、執筆以外にもさまざまな形で活躍。65年以降はミュージカルに対する造詣を深め、ニューヨークのブロードウェイ、ロンドンのウエスト・エンドで上演された多くの舞台を観てきた。学生時代からの盟友・浅利慶太が主宰する劇団四季の取締役として『キャッツ』『オペラ座の怪人』『マンマ・ミーア!』など、日本公演の企画・交渉に携わった時期も長い。一方、歌謡界、Jポップス界との関係も強く、長年にわたり「日本レコード大賞」の実行委員・審査委員を歴任。執筆業のかたわら、エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社顧問をはじめ多くの要職も務めてきた。
生家に爆撃─耳に残る戦前の流行歌
──まずは生まれた場所と生年月日を教えてください。
昭和8年5月21日、西暦でいいますと1933年になります。親父が静岡県の沼津市で耳鼻咽喉科を開業しておりまして、そこで生まれました。
──東京に出られたのは?
高校一年のとき。
──すると、戦時中は静岡?
昭和20年の5月に沼津市から疎開をしました。御殿場の奥ですね。いまは御殿場市に併合されていると思いますが、駿東(すんとう)群高根村というところ。それで戦争が終わりましてすぐに静浦という御用邸がある近く、今度は海があるところに行きました。ですから、昭和20年は非常に慌ただしかったことを覚えています。
──ギリギリになって疎開されたんですね。
はい。その前に沼津市は爆撃されて、わが家にも25キロ爆弾が落とされました。病院のうしろに「食堂兼音楽室」があったんですけれど、そこに直撃弾が落ちたんで、家の半分が吹っ飛んじゃった。
──疎開をされて、次が御用邸のあるところ。そこでお父様は開業を?
ちょっとしましたけれど、また沼津駅近くの、駅から歩いて十分くらいのところに戻って。
──ジャンル問わずですけれど、最初に聴いた音楽の記憶にはどんなものがありますか?
親父が音楽好きで、病院とは別に「食堂兼音楽室」と称する別棟を作っておりました。その音楽室にはアップライト・ピアノと、背の高い手回しの蓄音機、電蓄ではありませんでしたけれど、それがありました。日常生活をするところにもポータブルの蓄音機がありました。あと、どこの出版社か忘れたけれど、『世界音楽全集』がぜんぶ揃っていて、これは何十冊もあるクラシックの譜面でした。
──当時のレコードはSPですよね。
SPです。クラシックだと12インチの、サイズが大きなレコードでした(SPは直径10インチが一般的)。曲は、覚えていない……。ぼくも子供のころにバイエルンまではやったんです。怠けてしまって、あとはなにもやらなかったけれど。
──最初はクラシックが……
クラシックと……童謡はあんまり聴いたことがないなぁ。あっという間に軍歌になりましたからねぇ。でも、母親の姉妹が歌っていた流行歌が耳に残っています。「空にゃ今日もアドバルーン……ああそれなのに、それなのに」(注1)とかねぇ。流行歌ではそういうのが記憶にあります。
注1:37年に美ち奴が歌ってヒットした曲〈あゝそれなのに〉。作詞=星野貞志、作曲=古賀政男
──戦前・戦時中は、ポピュラー・ミュージックの記憶はほとんどない?
まったくないといっていいでしょうね。かろうじて歌謡曲ですかねぇ。
玉音放送と進駐軍放送
──洋楽のジャズにしろカントリー&ウエスタンにしろ、聴いたのは戦後で。
やっぱり戦後の進駐軍放送でしょう。WVTR、その後のFEN(注2)。
注2:45年9月に開局した在日米軍向けのAMラジオ放送。当初はWVTRと呼ばれ、その後はFEN(Far East Network)の名で親しまれ、97年からはAFN(American Forces Network)に改称。
──終戦のときのことは覚えていますか?
明確に覚えています。高根村の小学校に5月から8月末まで在学していました。8月15日には小学校の校庭に集合しました。それで、学校のラジオで生徒たちは頭をうな垂れて玉音放送を聞く。その場面も声もよく覚えています。小学校六年生の8月です。
──その前から、「日本は負けたな」と思っていました?
高根村にも単発だか双発だかのアメリカ軍の飛行機が来て、機銃掃射をされました。通学の途中でサイレンが鳴って、子供のわたしたちがバタバタ道を駆けずり回っていると、空から機銃掃射を浴びせられました。
──けっこう危ない目に遭われて。
30メートルくらい離れているところに爆弾が落ちたことがあります。だいたいバラバラバラって10個ぐらい爆弾を落としていくと、50メートルごとに1個くらい落ちてくる。
──そういう体験をしていれば、敗戦は仕方ないという気持ちに。
うーん、生命の危機は感じていました。
──戦争が終わってどうしようとか。子供だから、まだそんな考えはなかった?
親父が医学部を出た当時は、大正13年(1924年)ですが、一年志願兵(注3)という制度があって。大学を出たあとに1年だけ軍に入ると、召集令状が来たときにいきなり将校に任官できるんです。要するに、半分プロの軍医みたいな資格がもらえるわけです。
注3:旧日本陸軍の兵役に服する者のうち、中学校以上の卒業資格を有し、陸軍の予備・後備の将校となることを志願し、特定の試験に合格し、一年間現役に服する者のこと。
普通だと赤紙が来て一兵卒に取られる。一兵卒からやらなきゃならない。けれど、大卒にはそういう特例があったんです。軍医が足りなかったから、召集令状が来て、すぐ陸軍少尉で任官して、行っちゃいました。豊橋の陸軍病院に務めていましてね。終戦で親父はまた開業医。小学校を転々としたわたしは訳わからずで。
──終戦になって、しばらくして沼津に戻り、最初のポピュラー・ミュージックというか洋楽が入ってきたのが進駐軍放送のWVTR。NHKでも洋楽が聴けましたよね。
もちろんそうです。
──初期で鮮明に覚えている音楽は?
父親の医者仲間にジャズ好きがいっぱいいたんで、すぐに覚えました。最初に聴いたジャズのフル・オーケストラ、それがジャズを聴いたいちばん最初だと思うんですが、ルイ・アームストロング(tp, vo)もベニー・グッドマン(cl)もみんな越しちゃって、スタン・ケントン(p)のオーケストラ。お医者さん仲間がいきなりウディ・ハーマン(cl, sax)、スタン・ケントンのSPをかけて、「いま、これが流行だよ」と。昭和21年ぐらいの話です。
──それまでは、邦楽やクラシックを聴いていて。まったくサウンドが違うじゃないですか。「こりゃあすごい」とか、思いました?
新鮮な感じがして、心が踊りました。そのうちにNHKのジャズ番組を聴くようになったり、WVTRが聴けるようになって。そのころはジャズというより、WVTRで聴いたのはヒット・パレードものですね。ドリス・デイ(vo)の〈センチメンタル・ジャーニー〉とか〈アゲイン〉。当時、日本全国いたるところに兵隊がいましたから。なんとなく彼らの音楽だなという感じはしました。
──日本の歌謡曲とは違う印象が。
音の響き、歌詞、まったく別物でした。でも、歌謡曲も決して聴かなかったわけではないんです。たとえば美空ひばりだってけっこう最初はモダンな歌をうたっていたし。それからエノケン(榎本健一)もジャズを歌っていました。ジャズもどきをね。
──日本語で〈エノケンのダイナ〉とかを。
そのとおりです。
日劇で聴いた “生のジャズ”
──高校までは沼津?
高校一年の7月に東京に出てきました。
──家族全員?
初めはぼくひとりで、あとから家族が。
──大学が慶應義塾の文学部仏文学科。高校一年から東京の学校。それも慶應ですか?
都立日比谷高校です。
──そのために出てきた?
はい。親父が昔の一中(のちの都立日比谷高校)だったものですから。そういうことも関係していました。
──そのころはポピュラー・ミュージックを熱心に聴くようになっていた?
進駐軍放送の『ヒット・パレード』ですかね。この番組、大好きでした。それとNHKラジオの音楽番組です。NHKの番組には二種類あって。日本のジャズ・バンドを録音して放送するもの。あ、録音じゃないね、当時は生放送。それともうひとつは解説者がいて、外国のレコードをかけるという二種類がありました。どちらかというと、生放送は娯楽番組的、解説者が出てくるほうは教養番組的な色彩がありました。
ぼくがジャズを生で知って、魅力を感じるようになったきっかけは、高校の同級生に、いまはなくなった「日劇(日本劇場)」のファンがいましてね。「日劇」は日劇ダンシング・チームを持っていた。それと、「日劇」は東宝映画の封切館だったんです。
──映画との抱き合わせでしたね。
そうです。映画がメインで、ダンシング・チームが活躍するレヴューは添え物のアトラクション。東宝系は「日劇」をトップの映画館として、新作を最初に封切りましたから。ここは東宝系でいちばんの映画館。そのアトラクションにいろんなショウがあり、その中にさまざまなジャズ・バンドが出てくるんです。
高校の同級生に日劇ダンシング・チームのファンが何人かいまして。「一緒に観に行こう」と誘われて、ぼくも行くようになりました。学校を出てずっと経ったあとで、「なんで君たちは日劇のファンになったの?」って聞いたら、「あるとき日劇の前を歩いていたら、呼び込みのおっさんが『今日は宝くじの抽選会だからタダで観られるよ』といって、入れてくれた。それで観たら、綺麗なお姉ちゃんがいっぱい出ているんで、すっかりファンになっちゃった」。
ぼくが彼らと知り合ったころは、けっこう楽屋訪問をしたり、楽屋に上げてもらったりしていました。日劇ダンシング・チームの女の子には「仮券」と称する招待券が出せる特権があってね。その招待券を出してもらうくらいの仲になっている友人が何人かいて。つき合っている女の子のほうも数人いたかな。
最初は宝くじの抽選会に呼び込まれて、「綺麗なお姉さんがいっぱいいて楽しいな」ってことで一生懸命ファン・レターを書いて、プレゼントを届けたりして、個人的な関係が出来上がった。幸いにも、ある程度つき合いができたところにぼくが誘われたんです。
「日劇」で本格的にジャズと出会いました。当時、ここのオーケストラ・ボックスには後藤博(tp)とディキシーランダーズというフル・バンドが入っていました。もともとは進駐軍のクラブや日本のキャバレーなどで演奏していたフル・オーケストラですが、それがそっくりそのまま入っていました。けっこうジャズっぽい音楽もやっていました。そのディキシーランダーズが最初に聴いたジャズのフル・オーケストラになるんです。
──コンボを聴くのはこのあと?
あとですねぇ。それから「日劇」のショウの常連として、渡辺弘(sax)とスターダスターズがいました。スターダスターズはヴァイオリンも入れるような編成で。いまでも覚えているのは美女のヴァイオリニストがいて。渡辺弘さんが狙ったのはシンフォニック・ジャズでした。そういうバンドがショウに出ることもありました。
──豪華ですね。
はい、ものすごく豪華でした。コンボでは与田輝雄(ts)とシックス・レモンズを「日劇」のステージで観ています。ここのドラマーでのちに人気俳優になるフランキー堺(注4)と結婚するのがNDT(日劇ダンシング・チーム)の美人ダンサー、谷さゆりです。ぼくの級友のひとりは彼女にせっせと贈り物をしていました。
注4:フランキー堺(ds、俳優 1929~96年) 大学時代から進駐軍のキャンプでシックス・レモンズのドラマーとして活躍。54年にスパイク・ジョーンズ楽団を手本に、フランキー堺とシティ・スリッカーズを結成。築地のクラブで演奏しているときに伴淳三郎と知り合い、役者に転向する。
──フランキーさんはまだ冗談音楽みたいなことはやっていなかった?
コミック・アクトを交えるシティ・スリッカーズはずっとあとです。普通にジャズをやっていました。フランキーは日本のプレイヤーでいうと、ジョージ川口さんがトップ・ドラマーで、次がフランキー。そこに白木秀雄が出てきて。藝大(東京藝術大学・音楽学部打楽器科)卒っていうんで、それが売り物でしたよね。
──フランキーさんも含めて、高校時代にそういう演奏を聴いていて。その流れで、ジーン・クルーパ(ds)が来たときも観ている。
そういうことです。彼が来たのが昭和27年(1952年)。大学に入ったか入る直前かですね。
──日本に着いたのが4月19日ですから、大学に入った直後だと思います。この時点で、ジーン・クルーパは安倍さんの中でビッグ・スターだったんですか?
ビッグ・スターでした。なんとなく情報はありました。そのころ、ぼちぼちジャズ喫茶というより喫茶店でジャズのSPをかける店がいくつか出てきました。本格的にジャズをかける店ではなくて、BGMのような形でジャズを流している店でした。そういうところで、なんとなくジーン・クルーパの名前は聞きました。
──実物をご覧になってどうでした?
びっくりしました。やっぱり迫力がありました。記憶が薄れてはいるのですが、あのときはバス・ドラムがふたつだったかな? 噂ではそれをジョージ川口が見習ってダブル・バス・ドラムにしたといわれています。トリオの演奏で印象が強かったのはチャーリー・ヴェンチュラ(sax)。サックスのブローがとても強烈でした。
──それまで日本のジャズを聴かれていたわけですが、そういったものとはまったく違った?
違いました。リズムがはっきり刻み込まれていましたし、ワクワクするような盛り上がりがありました。本物を観たという感じですか。ただ、なぜかジーン・クルーパよりチャーリー・ヴェンチュラの印象が強かった。あのトリオはヴェンチュラを売り物にする、そういうところがあったんでしょうね。
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戦中に名を変えて活動した “ジャズ” バンド
──いろんな音楽がありますが、安倍さんの中ではジャズが興味のメインだったんですか?
そうです。とくにラジオを通してのジャズがぼくの感性の中では大きなスペースを占めるというか。
──NHKやWVTRではさまざまな音楽が流れていました。当時はジャズの番組が多かったんですか?
ジャズが圧倒的に多かったでしょう。進駐軍の影響があったし。指導というか、コントロールされていたと思います。
──当時のアメリカでジャズはどのようなポジションにあったんでしょう?
兵隊に取られるひとが都市部のひととは限らない。大雑把にいうと都会の選ばれたひとは将校になっちゃう。ニューヨーク、サンフランシスコ、ロス、シカゴあたりのひとは。それで、聴いている音楽がいわゆるダンス・ミュージック。それこそベニー・グッドマンやハリー・ジェームス(tp)、トミー・ドーシー(tb)、そういうひとたちのビッグバンドを聴いていたわけで。
だけど、全アメリカ国土の中で大半のひとはカントリー&ウエスタンですよね。地方出身者が兵隊に取られて、いわゆるGIたちを慰労するためにカントリー・ミュージックがクローズアップされて。そういうカントリー音楽の楽団が慰問グループとしてヨーロッパにも行ったし、日本にもやって来たわけです。
それで初めてわれわれもカントリー&ウエスタンという音楽を知ったんです。日本にそれまでカントリーはなかったの。ハワイアンはあったけれど。ちょっと面白い資料をお見せしますね。これは極めて貴重な資料(コンサートのプログラム)です。
今日、初めて第三者にお見せするものです。戦争中のハワイアン・バンド。これ南海楽友(注5)っていうグループ。これは雪村いづみの妹の朝比奈愛子さんから預かったというかもらったというか。この写真、昭和17年の6月のものです。
注5:戦前の日本を代表するハワイアン・バンド、カルア・カマアイナスが戦時中に名乗ったバンド名。昭和15年(1940年)に結成され、18年に解散。中核メンバーは、朝吹英一(創始者、リーダー、スティール・ギター、父親は帝国生命保険、三越の社長。祖父は三井財閥の幹部を経て財界の大物となった人物)、原田敬策(ウクレレ、貴族院議員原田熊雄の長男)、朝比奈愛三(雪村いづみの父親、朝吹と同期で慶応義塾大学経済学部卒)、芝小路豊和(芸名=芝幸二、男爵家の長男)、東郷安正(ベース、貴族院男爵議員東郷安の長男)。
──この時代にやっていいんですか?
ギリギリやってよかったんです。戦争は始まっているわけですから、英語は使われていない。南海楽友になっている。「日比谷公会堂」でのコンサートです。
これが(といって写真の人物を指さす)雪村いづみの父親(朝比奈愛三)。バンマスは三井財閥創設者の直系(朝吹英一)だし、メンバーはみんなそれなりのひとたち。
──そういう家のひとじゃないと洋楽なんてできなかったんでしょうね。
簡単にいえば、金持ちや華族のボンボンなんかです。
──それこそ慶應の大学生とか。とても戦時中とは思えない、贅沢そうなコンサートですね。聴衆の身なりもいいし。
それの典型が日本テレビの『光子の窓』(注6)とかをやった井原高忠という有名なプロデューサー/ディレクター。井原さんの家は井原男爵だよね。それからビクター、あとはポリドールの常務まで行った、社長はやらなかったと思うけれど、鳥尾敬孝(あつたか)というひと。通称があっちゃん。このひともハワイアンからカントリーに行ったのかな? やっぱり子爵の息子。
注6:『花椿ショウ・光子の窓』は日本テレビほかで放送されていた音楽ヴァラエティ。女優・草笛光子の冠番組で、資生堂一社の提供。放送時間は毎週日曜18時30分からの30分。放送期間は58年5月11日 – 60年12月25日。
鳥尾敬孝のお母さん(鳥尾鶴代)はアメリカ軍高官と日本政府上層部との間を繋ぐ役割を果たしたひとです。通称「鳥尾夫人」といって有名なひと。三島由紀夫が芝居の主人公にしているし。鳥尾夫人は銀座でバーをやっていました。それで息子を育てて。
典型が鳥尾子爵や井原男爵の息子で、彼らがなにをやっていたかといえば、ハワイアンを少しかじってた。自分はやらなくても家に楽器があった。ウクレレ、ギター、場合によっちゃスティール・ギターもあった。戦後、このひとたちがカントリーに転じるんです。楽器編成は同じですから。
戦前の日本にカントリーはなかった。われわれはカントリーは知らなかったということなんです。なのに、戦後のヒット・パレードにはカントリーそのものではないけれど、カントリーっぽいものがいっぱいありました。ハワイアンよりはカントリーのほうが受けた。圧倒的に音楽マーケットのシェアを占めていました。
つまり、昭和20年代、1945年以降のヒット・パレードにはカントリー系の音楽が出てくる。典型的な曲が〈テネシー・ワルツ〉ですから。ぼくなんかがWVTRを聴いていると、毎週のヒット・パレードに〈テネシー・ワルツ〉が出てくる。ほかには〈ジャンバラヤ〉〈ユー・チーティン・ハート〉(どちらもカントリー・シンガー、ハンク・ウィリアムスのヒット曲)とかね。
そういうカントリーや、カントリーそのものではないけれどもカントリーあるいはヒルビリーを継承した音楽がヒット・パレードにどんどん出てくる。だからぼくたちは「ジャズ」といっても、つまり〈テネシー・ワルツ〉を聴いていたんだよね。のちに、63年ですが、〈テネシー・ワルツ〉を流行らせたパティ・ペイジ(vo)が初来日したとき、インタヴューして『週刊朝日』に記事を書いています。
進駐軍 “将校クラブ” の雰囲気
──あのころ、「ジャズ」は洋楽全般を指していました。
日本ではシャンソンもタンゴも「ジャズ」だったから。ハワイアンは当然ジャズですよ。
──そういう音楽すべてを「ジャズ」と呼んでいたのが日本のポピュラー・ミュージックの黎明期。安倍さんもそういう音楽に夢中になって。
おっしゃる通りです。ですから、ヒット・パレードに出てくる〈テネシー・ワルツ〉みたいなものをジャズと捉えていました。彼らの父親たちがハワイアンをやっていたから、家にベースやギターがある。それで手っ取り早く進駐軍に行って。演奏できる場もあった。だからそういうものも含めてジャズになっちゃった。端的にいうなら、ハワイアンをやっていたひとたちがカントリー&ウエスタンに行き、それが戦後のショウ・ビジネスを作ったということです。
──その中から本格的にジャズをやるひとが出てきた。
並行して出てきたんです。それも学生でした。渡辺晋(b)、中村八大(p)、みんな大学生ですから。
──学生のいいアルバイトだった。
そういうことです。
──かたや日本のミュージシャンがいて、一方でアメリカからジーン・クルーパのようなひとが来て。ジーン・クルーパは日本で相当な話題になった。
なりました。ぼくたちは入れなかったけれど、「アーニー・パイル劇場」(注7)に慰問の使節がアメリカから来ていた。湯川れい子さんなんかは入って観てたっていうけど。観たかったなぁと思うのはベティ・ハットン。『アニーよ銃をとれ』の主役を映画でやった彼女なんかも来ているんですよ。
注7:「東京宝塚劇場」のこと。45年から55年までGHQに接収され、駐留兵士の慰問用施設として利用された。日本人観客は立入禁止。アーニー・パイルは45年に沖縄の戦闘で殉職した従軍記者の名前。
実際、ぼくも進駐軍のクラブでどういう風に演奏されているのかを観たことがあるんです。「日劇」に出入りしていた同じころにペギー葉山と知り合いになったの。そのときのペギーは渡辺弘とスターダスターズの専属歌手でした。大雑把にいうと、渡辺弘とスターダスターズの最初の専属歌手は石井好子、次がナンシー梅木、でペギー葉山になる。
彼女を指導したのがティーブ釜萢(かまやつ)。かまやつひろしのお父さん。ティーブはアメリカ生まれで。ぼくがペギーと知り合ったころは、男性専属歌手がティーブ釜萢で女性がペギー葉山。その顔ぶれで新橋の「第一ホテル」に出ていました。
あそこは将校のクラブだったのでハイクラス。ペギーが楽屋の横っちょから覗かせてくれたの。正面にフル・バンドが並んでいて、フロアのうしろに丸テーブルが用意されている。そこでディナーをとるわけ。そして食事の間、あるいは食事が終わったあとに軽くダンスをする。ディナーとダンスはワンセットということが、その光景を見てわかったわけです。
江利チエミがこういってるんだよね。「わたしはオフィサーズ・クラブ(将校用クラブ)は大っ嫌い」と。将校夫人がみんな澄ましていたからです。占領している日本に、将校はみんな奥さん連れで進駐してきていた。夜はいまお話したように、夫人同伴でフル・コースのディナーです。チエミいわく、「みんな気取っている」。
昭和20年、戦争が終わったとたん、日本にやって来た夫人たちはみんな肩を出した格好をしているんですから。腕は丸出し、それでロング・グラブ(長手袋)をはめている。拍手も手をパチパチやらないっていうんです。気取ってテーブルを軽く叩くんだって。「芸人が軽蔑されている気がして、とっても嫌だった」と。「そこへいくと、EMクラブ、兵隊のクラブは陽気で開放的で楽しかった」といってました。
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“ジャズコン” ブームの実情
──話を戻しますと、ジーン・クルーパが来て、翌年(53年)、JATP(注8)が来日します。それも安倍さんは観られて。そのころ、日本の音楽好きなひとの間でJATPは有名だったんでしょうか?
注8:Jazz at the Philharmonicの略。44年にノーマン・グランツが始めたコンサート。ジャズの大物10~20人くらいがいくつかのグループに別れて演奏するパッケージ・ショウで、大きなホールで開催されることからこの名称になった。
有名じゃなかったですね。あれは日本マーキュリー・レコードの社長だった方(石井廣治)が招聘して。ジーン・クルーパのときもそうでしたが、お小遣いでA席のチケットを買って、行きました(A席が1000円、B席が600円)。お客さんが入って盛り上がっていたことではジーン・クルーパが上でしょう。
JATPは素晴らしいメンバーでした。印象にあるのはエラ・フィッツジェラルド(vo)。存在感がありました。コンサートの形式も含めて、なにからなにまで新しかった。でも、「日劇」がそんなに盛り上がっている感じはしませんでした。もうひとつ印象に残っているのは、冒頭、野川香文(注9)さんが出てきたんでびっくりしたことです。
注9:野川香文(ジャズ評論家 1904~57年) 戦前から活動していたジャズ評論家の第一人者。日本最古のジャズ鑑賞団体「ホット・クラブ・オブ・ジャパン」(47年設立)の会長も務めた。
──コンサートの解説をされたそうですね。
それで野川香文さんというひとも知りました。野川さんには悪いけれど、なんか垢ぬけないおっさんが出てきてモタモタやってるなって感じで。野川さんにしてもそんなことはやったことがなかったのでしょうし。
続けてかな、ノーマン・グランツ(注10)が出てきて、メンバー紹介。ノーマン・グランツは全体のコンサートの流れ、雰囲気、そういうものをよくキャッチして、うまく進行させていたと思います。ピアノはオスカー・ピーターソンでしたよね。彼には驚きました。あと、ロイ・エルドリッジ(tp)、フリップ・フィリップス(ts)、ベニー・カーター(as)を覚えているな、このあたりがぼくの中では目立っていました。
注10:ノーマン・グランツ(プロデューサー 1918~2001年) 44年からJATPをプロデュース。その後にレコード会社(クレフ、ノーグラン、ヴァーヴ、パブロ)を興し、多くの大物ミュージシャンを育てる。
──かなり長いコンサートだったんですか?
2時間半くらいでしょうね。あと、JATPという名前を知っているひとはそれほどいなかったんじゃないかな? JATPという存在そのもがポピュラーとは思えなかった。ジャズ専門誌の『スイングジャーナル』の読者なら知っているでしょうが、そういうファンはそんなにたくさんいなかったと思います。
いわゆるジャズコン(注11)は、それ以前に日本のバンドによって行なわれていたんです。行なわれていたところが「日比谷公会堂」と「共立講堂」。そこでいくつかのコンボやオーケストラ、あとは数人のシンガーが出て、ときにはハワイアンやカントリーのバンドが出る。ただしショウという割には演出がなくて、ただバンドが出てくるだけでした。
注11:「ジャズコン」と呼ばれるジャズ・コンサートがブームになったのは49年に「読売ホール」で開かれた「第1回スウィング・コンサート」がきっかけ。毎回ビッグバンド3組、コンボ6組、それにハワイアンかカントリー&ウエスタンかタンゴのバンド、そしてそれぞれにシンガーがつくという豪華なスタイルが取り入れられた。
──でも、すごい人気だった。
人気でしたね。やれば必ず満員でした。この手のコンサートでは、司会のトニー谷(注12)の人気が目立っていました。
注12:トニー谷(ヴォードヴィリアン 1917~87年) 本名は大谷正太郎。ソロバンを楽器のようにかき鳴らしてリズミックに喋る芸で人気者に。戦後のジャズ・ブームでは司会者として引っ張りだこになり、「トニングリッシュ」と称された珍妙な英語を駆使しての国籍不明役で映画などにも多数出演。
──JATPは別にして、ジャズコンに来るお客さんの世代としては学生じゃなくて、もっと上のひと?
上のひとも来ていたし、学生も来ていました。
──若いひとの中でジャズに夢中になっているひとは多かったですか? たとえば大学生とか。
リアル・ジャズというかモダン・ジャズの愛好家はそんなに多くなかったと思いますが、ヒット・パレード物を聴いているひとはある程度いたと思います。
──その中にジャズも含まれていた。
そうです。ただ、歌謡曲のほうが人気は高かった。たとえば近江(おうみ)俊郎の〈湯の町エレジー〉(48年のヒット曲)、こういう曲のほうが圧倒的に人気が高く、全国を征服するような。そういうことがジャズではなかったですね。それに近かったのが、アーティストとしてはのちのビッグ・フォアですが、一般的には歌謡曲のほうが強かった。
──ジャズは人気があったにしても、一部のひとの間。
歌謡曲に比べればずっと人気は低かった。
野川香文の就職アドバイス
──安倍さんは大学に入られていて、将来はなにになろうと考えていたんですか?
なにになったらいいかわからなかった。
──音楽でなにかをしようとも思っていなかった?
音楽が好きで聴いていましたから、どこかで音楽と関わりがあるといいなぁとは思っていました。わが家の知り合いに野川香文さんの家のとなりに住んでいるひとがいたんです。旧山手通り、環六の東側だから神山町かな? 朝日新聞の幹部だった方なんですけど、その家のとなりが野川さん。
それで大学四年のときに、その方に、「たとえばレコード会社なんかに就職したいと思うけれど、野川さんにアドヴァイスを聞きたい」とお願いして、野川さんにお目にかかったことがあるんです。そうしたら、「レコード会社なんて、会社としてちゃんとしたものではない。せいぜい店が大きくなったくらいのもので、大店(おおだな)っていう言葉があるでしょ、まあ、大店だよ。あんなところに行っても将来に安定はない」と、大反対されちゃった。そのことを覚えています。
──それでは、音楽の世界に入るきっかけはなんだったんですか?
たいへん漠然としているんですが、なにかものを書いてみたい希望というか欲求がありまして、それでどこかに売り込めないかと思って。来日演奏家のことも含めて、日本のジャズ界における動きというものがある程度わかったつもりになっていたから、そういうことを書きたいなぁと思っていたんです。
大学を卒業する前の年、昭和35年(1960年)ですが、たまたまツテがあって、いちばん初めに書いた媒体が『デイリースポーツ』紙。スポーツ紙というのは、ご存じのようにスポーツと芸能で成り立っています。『デイリースポーツ』は母体が神戸新聞社なんです。それが東京に出てきたから、スポーツ紙としてはいちばん弱かった。ひとも足りない。ぼくが「ジャズや軽音楽についての原稿を書きたいんだけど」と売り込んだら、ひとが足りないもんだから、「書いてみなよ。使える出来だったら載せてやるから」。まったくのしろうとの文章を載せてくれたんです。それがきっかけ。
──それは、さきほどおしゃったようなことを書かれた。
たとえば、日本のミュージシャンの動静。誰がいま人気があるとか、ですね。
──それ、いま、読みたいですね。
そう? けっこうフレッシュなことを書いていたと思うよ。要約すると、日本のジャズ・ミュージシャンに関しての動静とか、原稿にしてせいぜい400字で2枚か3枚。当時で原稿用紙1枚、400字で500円くれたかな?
──原稿料としてはいいんじゃないですか?
うん。500円くれましたから、いいお小遣い稼ぎになったの。それからコンサート評なんかも書かせてもらったりしました。なぜそういうことになったかっていうと、当時の新聞社には、一般紙、スポーツ紙を問わず、ジャズを中心にした軽音楽について書けるひとがいなかった。クラシックは大先生がいました。場合によっちゃ、クラシックの担当記者が片手間に歌謡曲のことを書いたりしてたけど。
スポーツ紙が盛んになってからは、スポーツ紙は歌謡曲については書く記者を置くようになった。歌謡曲は書くけれど、いわゆるポピュラー音楽系のものは、ジャズ、シャンソン、タンゴ、ぜんぜんわからないのか、書かなかった。ぼくだってきちんと勉強したわけじゃないけれど、学生時代から聴いていましたから。ジャズとシャンソンの違い、ジャズとタンゴの違いははっきりわかっていました。
当時の新聞記者はそれすらわかっていなかったかもね。ちょっと尊大ないい方になってしまいましたけれど。一方、レコード会社は日本語でアメリカのヒット曲を出すことを始めていた。そういうものに対して、新聞社の音楽記者たちは積極的でなかった。だから、たとえばぼくが『デイリースポーツ』紙に売り込むと、『デイリースポーツ』の記者はむしろ渡りに船だったかもしれません。
──いいタイミングで安倍さんが登場した。
グッド・タイミングでした。ポピュラー音楽の部分がポコッと空いていたという幸運。当時、レコード会社は音楽記者会に対して試聴会をやっていました。ただ極端ないい方をすれば、記者たちの関心は洋楽より邦楽、つまり歌謡曲に傾いていました。
たとえばペギー葉山はデッカ・レーベルで〈ドミノ〉と〈火の接吻〉をカップリングしてシングルで出しているんです。ぼくなんか好きだから調べて、〈ドミノ〉はもともとはシャンソンで、〈火の接吻〉はアルゼンチン・タンゴだし、それがアメリカに渡ってヒット・ソングになった。それを日本語に変えてレコードにして発売したなどと、いきさつを辿ってみるわけです。
忙しかったこともあるでしょうし、そういう経緯さえも音楽記者たちはあまり関心を持たなかった。でも、商品としては発売されるわけですよ。そうすると、発売したレコード会社のほうは扱ってもらいたい。ところが、新聞社には書き手がいない。そんな状況だったんじゃないでしょうか。
──実にいいポジションにいましたね。
そんなところから少しずつマーケットを広げていったんです。匿名、署名を含め、媒体はどんどん広がっていきました。共同通信、時事通信、『週刊新潮』、『週間東京』などですね。
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“音楽ライターと新聞記者” のはざまで
──大学を卒業して、就職する気はなかった。
卒業したんですけど(笑)、就職しなかったに等しいんで。映配株式会社っていう映画配給の会社があって、のちの松竹映配会社ですが、そこでアルバイトしていたことがあるんです。4月から正社員として勤めるはずになっていたけれど、原稿の注文がけっこう来たりしたので、行かなくなった(笑)。
──でもそういう会社でアルバイトしていたってことは……
芸能関係に興味があったんですね。普通の会社員にはなりたくなかった。映配もいちおう入社試験を受け、パスしていたんです。そういえば、学生時代にマネージャーみたいなことはしたことがあるんです。大学二年のときに雪村いづみがデビューして、超人気になった。そのときに関西方面を初めて巡業することになって。
細かいいきさつをぶっ飛ばしてお話しちゃうと、関西公演をプロデュースしたプロモーターが経費節約のため慶應の学生バンドを使いたいと相談に来て、紹介したことがあるんです。そこでバンドからマージンをもらったんだよね。「この商売もいいなぁ」とは思いました(笑)。そんなことをやったり、しろうとの物書きをやったりしていたんです。
──書くことは以前からしていたんですか?
いや、あまり書いてなかったんですけれどね。ぶっつけで書いていました。
──書くことは苦手じゃなかった。
ひねり出していました。そんなに得意でスラスラというほどではなかったです。
──安倍さんは音楽評論家というかライターというかでデビューされて、ジャンルはとくに限定せず、ポピュラー・ミュージック全般を書かれていた?
そうですね。ジャズに特化するというより、歌謡曲をのぞくポピュラー音楽全般を書くようにしたいなという希望はありました。最初はジャズがメインでした。ハワイアン、カントリー&ウエスタンも人気があったので書きました。日本のバンドの歌手やプレイヤーがどこからどこに移ったとか、そういうニュースをけっこう載せてくれました。
──フリーランスで新聞以外にも書かれていたと思いますが、安倍さんの中では、たとえば『デイリースポーツ』紙に原稿を書くときは、新聞記者みたいな意識なんですか? それとも評論家の意識ですか?
鋭い質問だなぁ(笑)。中間でしょうね。というのは、新聞記者にはなりたくないというかなぁ。新聞記者とは違うスタンスで書きたい。もう少し批評を加えた文章を書きたい。ですから、当時は『デイリースポーツ』を中心にして、いわゆるコンサート評も書いていました。コンサート評の中にはジャズもある。中村八大トリオとか、そういうもののコンサートがあれば批評も書きました。だから批評家になりたい意識はあったかもしれない。
──『デイリースポーツ』から「こういう取材をしてくれ」という依頼もありましたか? そういうときでもフリーの評論家的立場で行くんですか? それとも『デイリースポーツ』から派遣された気持ちで行く?
肩書なしの物書きとして行きました。こっちに任せてくれましたから。勝手に取材をしに行くという、ある意味でフリー・ハンドで。ですから、「スター物語」みたいなものも『デイリースポーツ』に書いていました。1回原稿用紙3枚くらいで、それを1週間書くとか。「越路吹雪物語」「ペギー葉山物語」なんてのを書きましたね。
それからもうひとつ重要だったのが、ジャズを中心にしたプロダクションが活躍し始めたことです。これもネタになったんですよ。いちばん目立ったのが渡辺プロ(注13)。その動静が大きなネタになりました。
注13:渡辺プロダクションのこと。渡辺美佐(1928~)と渡辺晋(1927~87年)が55年1月に設立。二人三脚で日本最大規模のプロダクションに育てあげる。
コンボでは、ビッグ・フォアは「国際劇場」を満員にできちゃうほどすごい人気があった。全国津々浦々、公演ができました。そういうものの批評や大騒ぎな様子も取り上げる。あと、ジャズだけじゃなくて、たとえば昭和33年(1958年)になるとポール・アンカ(vo)が来るとかね。ビッグ・スターが来日するようになりますから、そういう連中も取り上げることになった。彼やマンボのペレス・プラードのステージ評も書いた記憶がある。
──ポピュラー全般ですね。その後にロックが出てくる。
ロックはぼくの意識の中でいちばん占有率が低いんだなぁ。ぼくの感性の中で、ロックは結局この歳になるまで消化できていない。「日劇ウエスタン・カーニヴァル」(注14)の第1回のときには、初日に渡辺美佐さんと一緒に観ましたけど、すごいキャーキャーワーワーでした。「武道館」のビートルズもすごいキャーキャーワーワーだった。けれど、あのときにファンの一員のような一心同体にはなれなかった。
注14:58年2月~77年8月まで「日劇」で開催されていた音楽フェスティヴァル。 全57回公演。
──「ウエスタン・カーニヴァル」は平尾昌晃、山下敬二郎さん、ミッキー・カーチスさんとか、最初はそういうひとたちがスターで、歌謡曲とは違う、日本人が作った歌でも洋楽っぽいものをやるようになって。そのあと、グループサウンズが出てくる。
そういうのもぜんぶ観ています。たとえばジャズのひとたちもそちらに流れたんですよ。平尾昌晃の最初のマネージャーは永島達司(注15)さんです。キョードー東京の。戦後のジャズを含むショウ・ビジネスの歴史の中で重要な役割を果たしたのは、永島さんと渡辺晋・美佐夫妻かなぁ。永島さんの仕事ではナット・キング・コール(vo, p)が素晴らしかった。とくにトリオで演奏したジャズが……。
注15:永島達司(プロモーター 1926~99年)少年期をニューヨークとロンドンですごし、41年帰国。戦後進駐軍クラブのマネージャーを経て、57年協同企画(現キョードー東京)設立。66年ビートルズの日本公演を実現させるなど、外国人ミュージシャンの招聘に実績を残す。
──江利チエミさんがアメリカ公演を終えて帰ってきたときに(53年)、デルタ・リズム・ボーイズを伴ってくるんでしたね。そのときのアメリカ公演のマネージャーが永島さんで、デルタ・リズム・ボーイズを見つけて、日本でチエミさんとの共演を企画する(注16)。
注16:そのときに残されたのが61年2月20日、21日に東京・大手町「産経ホール」で実況録音された『江利チエミ/チエミ・アンド・ザ・デルタ・リズム・ボーイズ』(キングレコード)。伴奏は原信夫(ts)とシャープス&フラッツ。
羽田に着いて、江利チエミが飛行機から降りてきたときに花束を持って迎えたのが雪村いづみ。いづみがビクター、チエミがキングで。レコード会社が違うのに、後輩として花束を持って行って。
これ、有名な話ですが、チエミはそのときに〈ティル・アイ・ワルツ・アゲイン・ウィズ・ユー(思い出のワルツ)〉をレコーディングするはずだった。それをいづみが先に権利を取っちゃったっていうんで、チエミがつっけんどんに「この子、どこの子?」といったって。
守安祥太郎の評判
──安倍さんの出発点はジャズの原稿ですけど、のちのち比重が変わっていきます。最初の10年くらいはジャズの比重が大きくて。
そうですね。日本のジャズの動向を追いかけていたし、そういうことの取材先として渡辺晋さん、美佐さんは非常に大切な存在でした。
渡辺晋とシックス・ジョーズはね、テーマ曲がジョージ・シアリング(p)の〈セプテンバー・イン・ザ・レイン(九月の雨)〉。シックス・ジョーズはクール・ジャズ(注17)を目指していたんです。そこに、「少しブローもあったほうがいい」というんで、晋さんが松本英彦(ts)を連れてきた。そのあと、松本英彦はジョージ川口のビッグ・フォアに入る。
注17:当時クール・ジャズを代表するコンボがジョージ・シアリング・クインテットで、そのサウンドを手本にしたのが渡辺晋とシックス・ジョーズ。
──そういう動きを安倍さんは非常に近い場所で目撃されていた。
そういうことを知っているジャーナリストがほかにいなかったので、自分が書いたってことです。
──秋吉敏子(p)さんは聴かれている?
聴いていますし、JATPが来日した際、TBS(当時はラジオ東京)でレコーディング(注18)するときのいきさつにも興味があってウォッチしていました。巷間伝えられているところによると、オスカー・ピーターソン(p)が昼間、西銀座のジャズ喫茶「テネシー」に来て、その晩は銀座の七丁目か八丁目、松坂屋の並びにあった「銀馬車」(注19)に。彼女は、昼夜かけ持ちで、昼は「テネシー」、夜は「銀馬車」に出ていた。それでとんとん拍子にラジオ東京のスタジオで録音する話になるんです。
注18:それがアメリカで発売された『Toshiko’s Piano』(Norgran)。邦題は『アメイジング・トシコ・アキヨシ』(ヴァーヴ)。これがアメリカで評判を呼んだことから、55年、ボストンのバークリー音楽院留学に繋がる。メンバー=秋吉敏子(p) ハーブ・エリス(g) レイ・ブラウン(b) J.C.ハード(ds) 53年11月 東京で録音
注19:筆者が秋吉に行なったインタヴューでは「銀馬車」だったが、2021年の『読売新聞』紙オンラインの記事ではクラブ「ニュー銀座」となっている。
のちに、秋吉さんはぼくに、「オスカー・ピーターソン以外で誰が来たかは明確に憶えていない」とおしゃっていましたけれどね(関係者がフリップ・フィリップスとオスカー・ピーターソンを連れてきた)。ラジオ東京のひとが絡んでいるんだよね。有名なジャズのプロデューサーで、ジャズ番組をやっていたひと。
──石原康行さん?
そう、石原さんでした。しかし、やっぱり秋吉さんが出来事です。あそこで認められてアメリカに行くチャンスを掴んだことは、日本のジャズにとって大きいねぇ。その後の影響に。だって渡辺貞夫(as)さんがのちにバークリーに行ったのも秋吉さんの推薦があったからだし。
──当時の秋吉さんはピアニストとして傑出していたんですか?
最初、ぼくが聴いたころはシックス・レモンズ(注20)にいました。シックス・レモンズはフランキー堺がタイコ、平野快次がベースで、リーダーが与田輝雄。それから、トランペットが松本文男。秋吉さんはシックス・レモンズを抜けてコージー・カルテットを作る。このバンドも「テネシー」でよく聴きました。そんなに尖ったモダン・ジャズじゃなくて。これは、店の方針だったのかもしれない。
注20:与田輝雄(ts)が51年10月に結成。初代メンバーは、渡辺辰郎(as)、松本文男(tp)、秋吉敏子(p)、平野快次(b)、フランキー堺(ds)。当時はこのグループとジョージ川口のビック・フォアに渡辺晋のシックス・ジョーズが3大人気コンボだった。
──守安祥太郎(p)さんは?
聴いたことがないんです。伝説的なジャム・セッションとかに出ていたのは知っていましたが。
──噂にはなっていたんですか?
すごくなっていました。ジャム・セッションに参加したジャズメンたちからなんとなく聞いていましたから、「聴いてみたいな」とは思っていました。
──渡辺貞夫さんがデビューしたころは聴かれました?
秋吉さんのところに貞夫さんもいたんだよね、聴いてますけど、それほど熱心には聴いていなかった。スタンドプレイのない、やや地味目、控えめな印象でした。そんなに前衛的ではないけれど低俗でもない。
当時の印象とすれば、非常にバランスの取れた、どちらかといえばマイルドなプレイヤー。秋吉さんとやると、秋吉さんがブローは抑え気味のひとだったから。そういうプレイを心がけていたんでしょう。ただ、ときには火を噴くような、なかなか激しいプレイもありました。それよりは松本英彦さんのほうがブローしてましたね。
──松本さんはブローを売り物にしていたんですよね。そうなると、彼がいたビッグ・フォアはバンドとしてかなりのインパクトがあった?
ビッグ・フォアは興行的にすごかった。人気歌手が「日劇」や「国際」を1日3回満員にするような、バンドでありながらそれができた。そういうグループはほかになかったですね。「国際劇場」で「国際最大のジャズ・ショウ」という公演が何度も行なわれるんだけれど、これのプロデューサーはぜんぶ永島達司さんです。出たいひとはみんな永島さんに売り込んでいました。
──「国際最大のジャズ・ショウ」は相当な人気で?
人気でした。それが、たとえばジャズじゃないけれど、ペレス・プラードとかの興行に繋がっていく。ポール・アンカを呼ぶとか。
──当時はこういうパッケージ・ショウみたいなものが多かった。
そうですね。いくつかのバンドが出てくるんです。歌手も、ナンシー梅木、江利チエミ、笈田敏夫、ビンボー・ダナオなど。SKD(松竹歌劇団)のダンス場面もありました。
──その流れを作ったのが「日劇」だったり、「国際劇場」だったり。
そういうことです。「国際」は永島達司さん。「日劇」は東宝の社員でジャズにとても熱心なひとがいて。伊藤康介さんという、東宝の社員プロデューサーで、ジャズが大好きで、ジャズ界に対する「日劇」の窓口になっていたようなひとです。渡辺美佐さんも、「伊藤さんのことは忘れられているけれど、彼がいたから日劇でジャズができたんだ」とおしゃっていました。
──やっぱり、ちゃんとした方がいるから成立したんでしょうね。
好きで、ジャズを盛り上げたい。ジャズという新しい音楽を、日本人に知られていない音楽を紹介したいという意欲があったんでしょう。
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ミュージカルを追いかけた理由
──たとえば昭和35年まで、1950年代の10年くらいの間、安倍さんはいろいろなジャズを聴かれていると思いますが、順位はいいんですけれど、インパクトが強かったアーティスト、バンドを内外問わずで挙げるとしたら。
そうですねぇ。いま思い出すと、ジーン・クルーパのような派手な音楽はむしろ記憶の彼方に薄れていって。JATPのような、ブローもあったけれど、音楽的になにか新しいことを試みようとしている、そういうグループというかコンサートというか、聴いたときには一見地味だったかなとは思いますけれど、そちらのほうが記憶に残っています。やっぱりオスカー・ピーターソンは残っているなぁ。ピーターソンとエラ・フィッツジェラルドはインパクトがありました。それでいくと、悪いけれど派手なジーン・クルーパはちょっと。
──安倍さんは60年代以降になると徐々にジャズから離れていく。というか、ほかの音楽の比率が高くなったんでしょう。50年生まれのぼくにとって、安倍さんはテレビの音楽番組なんかで拝見した方。これは60年代に入ってからのことで、そのときはもうジャズではなく、どちらかといえばポピュラー・ミュージックにおけるオーソリティのイメージ。そうなってきたのは、安倍さんの中で好みが変わったのか、音楽の仕事が占める比重が変わったのか。どういうことなんでしょう?
テレビに誘われたことがひとつ。それと、昭和30年代後半ぐらいからミュージカルに興味を持ち、ブロードウェイにもよく行くようになりました。なんでそういうことになったかというと、野川香文さんのこの本『ジャズ楽曲の解説』(千代田書房刊)なんですよ。
学生時代に読んだんだけれど、この本には「アメリカのヒット・ソングはショウから生まれた」と書かれている。それから、そのヒット・ソングがジャズのスタンダード・ナンバーになっていく。ショウとスタンダード・ナンバーの関係がここに書かれているわけですね。それとアメリカ映画、たとえばジョージ・ガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』(45年)、あるいはコール・ポーターの伝記映画『夜も昼も』(46年)。こういうものを観ると、ショウが生み出すショウ・チューンとスタンダード・ナンバーの関係が明らかになってきた。そこに興味を持ったんです。
──ジャズの原点ということですね。
そうです。とくに野川さんの本は、どのショウからどういう曲が生まれて、それを誰が歌って、あるいは演奏物では誰が演奏して、それがスタンダード・ナンバーになったっていう、そういう過程が細かく書かれている。それで、ショウと曲というふたつのものに対する興味が湧いたんです。もとは野川さんのこの本なんです。
──それは安倍さんがもともとジャズに興味があったから。
そういうことです。しかもそのジャズをですね、あるいはジャズのスタンダード・ナンバーを「日劇」の生で聴いていたんです。〈インディアン・ラヴ・コール〉とか〈ラヴァー・カム・バック・トゥ・ミー〉とかをね。この本にはそういう曲について細かく書かれている。それを「日劇」のショウで、生で聴いたり、観たりした。
「そうか、日本でもその楽曲がショウの中でこういうふうに扱われて、それをわれわれが楽しんで、そういう経過をたどってわれわれの胸にまで伝わってくるんだな」ということがだんだんわかってきた。アメリカのショウと楽曲の関係、さらに日本のステージでのショウと楽曲の関係を、生のステージを観ることで、改めて納得がいったんです。
──安倍さんが観られてきたものの知識がそこに、ミュージカルにぜんぶ繋がっていた。ですから、ミュージカルにのめり込んでいくのは自然の流れで。60年代半ばっていうと、ぼくの記憶が確かかどうかわからないですけれど、日本でも向こうのミュージカルの上演が……
始まったころです。
──それにも安倍さんのご尽力があった。
いえいえとんでもない。すべて東宝の演劇担当重役だった菊田一夫さんの努力の賜物です。日本で最初に上演されたブロードウェイ・ミュージカルは『マイ・フェア・レディ』。主演が江利チエミと高島忠夫。昭和38年、1963年のことです。
どうして丸ごとブロードウェイ・ミュージカルを日本語でやろうという発想が生まれたかというと、菊田一夫さんがそう考えたからです。まずは、「欧米でミュージカルというものがいろいろ噂になっているから日本でも上演したいな、作りたいな」という色気があって、いろいろやってみた。しかしなかなかうまくいかない。
それで菊田さんが最後に考えた手は、丸ごと向こうの作品をやってしまえという、そういう発想だったんです。日本の商業演劇にはもともと丸ごと外国のものをやろうという発想はなかった。それを菊田さんは実行しちゃったわけ。それで『マイ・フェア・レディ』をきっかけにして、ド〜ッと日本にミュージカルが入ってきた。
もうひとつ、同じ昭和38年に「日生劇場」がオープンするんです。そこに石原慎太郎と浅利慶太という、ぼくと同年輩の若者が関わることになった。ぼくのところにもいろいろ相談が来るものですから、向こうも若造だしぼくも若造でしたけれど、若造なりにいろいろアイディアを出したりしたんです。アドヴァイザー役を務めたということです。
その中で、「日生劇場」を舞台にしてミュージカルをやったらどうか、そういうプッシュはしました。具体的には、越路吹雪を浅利に紹介した経緯があります。ほかにはジャニーズ最初のミュージカル(注21)かな。「日生劇場」の制作で行なわれました。あの立派な劇場とジャニーズの子供っぽさとが、なんかバランスは悪いんだけれど。ですから、ジャニーズのミュージカル・デビューは「日生」なんです。そういうジャニーズの動きにも多少だけれどぼくが関わっているとはいえるかもしれない。
注21:作=石原慎太郎、音楽=中村八大で65年4月に上演された『焔(ほのお)のカーブ』。
──その時代に、日本の音楽業界の評論家なりライターなり、そのころのことはよくわからないですけれど、個人的な印象としては、安倍さんがとにかく本場のミュージカルにいちばん詳しい方だと、そういう認識でずっと来ているんですけれど。
ありがとうございます。それはですね、お金を貯めてはこまめにブロードウェイに通ったと。貧乏旅行をしたと。それがみなさんにそういう印象を与えたのかもしれません。
「ショウと楽曲と聴衆」の理想的関係
──安倍さんがこれほど深くジャズに関わっていたとは知らなかった。「安倍さんはもともとがジャズのひとだった」という驚きとでもいえばいいでしょうか。
若いときにJATPやルイ・アームストロングを生で聴いたことが大きいですね。ここで音楽著作権の話をちょっとしたいのですが。
アメリカで著作権のお金が上がってくるのは、ラジオ、テレビ、レコード、生のコンサート、そういうところからのものが圧倒的に多い。ミュージカルから上がるロイヤリティはそれらに比べればずっと少ないはずなのに、いまでもショウをメインと考えるような、そういう伝統的意識がある。ショウの上演権をグランド・ライツ、他の使用権をスモール・ライツと呼んでいるのはその表れです。
いまの著作権は圧倒的にショウから上がってくるものが少ないはずなのに、相変わらずそっちのほうの伝統をなんとなく重んじる。そういう意識がある。最近はサブスクリプションなんかから上がってくるもののほうが多いかもしれないけれど、そっちじゃない、「オリジンはショウだ」という考え方。
そういう意味では、若いときに野川先生の本を読んだのは大きかった。くどいようだけれど、ショウと楽曲……その関係がいまだに気になるというか。たとえば『クレイジー・フォー・ユー』(注22)というミュージカルがありますが、これはガーシュウィンのスタンダード・ナンバーを網羅したものです。アメリカのお客さんも作り手もガーシュウィン作品のような伝統的なメロディの宝庫というか、そういうものをいまでも大事にしている。スタンダード・ナンバーというのはいまでもそういう形で甦っている。新しい形でショウが作られて、上演されて。
注22:過去のミュージカル作品『Girl Crazy』を基にした92年制作のタップ・ダンス・ミュージカル・コメディ。ジョージ・ガーシュウィンの楽曲にスーザン・ストローマンが振りつけをし、トニー賞で「最優秀作品」「衣装」「振りつけ」部門受賞。日本でも劇団四季で上演中。
──ガーシュウィンとかコール・ポーターとかの曲は永遠不滅で、いまだに若いひとも聴いているし、レコーディングするシンガーもいるし、ミュージシャンもいる。ですから、1920年代とか30年代とか、そういう時代に作られた楽曲は、アメリカのポピュラー・ミュージックの原点であり、宝庫でありみたいな意識が、いつの時代になっても残っているんでしょう。
おっしゃる通りです。ぼく、「グラミー賞」って二度しか現場で観たことがないんだけれど、86年、ロサンジェルスで観たときに、ジョージ・ガーシュウィンが「特別功労理事会賞」をもらうことになり、司会者がガーシュウィンのことを延々と称えるんですよ。だけどジョージはもちろん、兄で作詞家のアイラも亡くなっているのに、誰に賞を渡すんだろう? と、司会者の紹介を聞きながら不思議に思っていたら、アイラ・ガーシュウィンの夫人が出てきたの。笑っちゃうでしょ。いや、笑っちゃいけないか。そこにアメリカのよき伝統があるんじゃないかなと思ったんです。リスペクトがあるのかなという気がしますね。思わず拍手しちゃいました。
感動したのは、若いひとを含め、観客が全員立って拍手するんです。お客さんと音楽、お客さんとショウといってもいいけれど、そういうものが理想的な関係にあるのかなぁと思います。ほかならぬ音楽の伝統に対するリスペクトです。
──こういっては失礼かもしれませんが、ぼくの中に勝手な安倍さんのイメージがあったんですけれど、今日のお話を聞いてよーくわかりました。イメージと実像がぜんぶ繋がりました。
ジャズから派生した戦後日本の音楽
戦後の日本における音楽シーンで見すごせないことがもうひとつあるんです。それが、東芝音楽工業(60年設立)やCBS・ソニー(同68年)といった新しいレコード会社ができてきたこと。そういうところは、専属作詞家、作曲家、歌手は持たなかったわけです。ぜんぶ新人というか、しろうとといっちゃ失礼かもしれないけれど、いわゆる歌謡曲を作るのに未経験のひとたちから、作詞家、作曲家、歌い手を探さなきゃいけなくなった。それを埋めたのが渡辺プロダクションをはじめとする各プロダクションに所属するジャズとかカントリーのひとたちなんです。
簡単にいうと、ジャズのクラリネット奏者、萩原哲晶(ひろあき)が〈スーダラ節〉を書く。ビッグ・フォアの中村八大が〈上を向いて歩こう〉を書く。そういう新しいフィールドで、ジャズのひとたちが果たした功績は大きいですね。ジャズのアーティストというかミュージシャンが、メジャー・レコード会社が持っている作家陣を持たなかった新興レーベルで、その穴を埋めたといえるし。
──彼らがいわゆる歌謡曲からちょっとはみ出たような新しい音楽を作りましたよね。
新しいトレンドを作ったんです。ビジネス的なことをいえば、そのときに日本では音楽出版というものを一生懸命にやろうとしたひとたちがいた。それが渡辺美佐さんと晋さん、それと永島さんなんです。永島さんは語学もできたし、アメリカのショウ・ビジネスのこともよくわかっていた。美佐さんがアメリカで音楽出版社を研究して日本に戻ってきたときに、自分たちは国内著作権をやる、国際的な著作権は永島さん。ふたりで持ち場をわけて、これから音楽の著作権ビジネスをやろうよと話し合っているんですね。
──その住み分けもよかった。
それが渡辺音楽出版になって、もう一方が大洋音楽。加山雄三だってそうした新しい動きがなかったらデビューできたかどうか。日本のレコード会社は見向きもしなかったでしょうから。彼の著作権をぜんぶ渡辺音楽出版が押さえ、制作・広報・宣伝に乗り出したのですから。加山雄三、つまり弾厚作(加山雄三のペンネーム)という名前の作曲家、それと作詞をした岩谷時子も当時のレコード産業とは関係ないところから出て来た。そのひとたちが革命を起こしたんです。
──新しいレコード会社ができたことによって既存のレコード会社の専属契約制が……
崩れた。そういうことです。新しいレコード会社ができなければ、そのままだったかもしれない。
──時代の流れみたいなものがあって、シンガー&ソングライターのように自作自演をするひとが増えてきたし、そういうところで新しい音楽出版とか、そういう需要もあったでしょうし。
レコード会社、とくに東芝なんかは専属作曲家がひとりもいないところから始めて。そのギャップをなんとか埋めたい。それで作曲に中村八大を起用するとか、作詞だと永六輔を連れてくる。歌謡曲を書く前の岩谷時子は、マネージャーを務めていた越路吹雪が歌うシャンソンしか訳詞したことがなかった。あのひとはフランス語ができたわけじゃないから、ひとが訳した直訳を基に意訳を作っていった。才能があったんでしょう。いま申し上げたことを含めて、新しい潮流が生まれたころに、幸いぼくが居合わせた。
──音楽もいい時代だったんですね。
そうです。「日本レコード大賞」(注23)の審査委員・実行委員を約30年やりました。
注23:59年に創設された、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する音楽に関する賞。主催は公益社団法人日本作曲家協会、後援はTBS。年末にTBSテレビ・TBSラジオとその系列局が放送し、番組名は『輝く!日本レコード大賞』。
──いやないい方をすると、音楽がお金になった時代というか。音楽産業周辺の景気がよかったのかな?
そうなんです。時代はもう少しあとになりますが、TBSの『ザ・ベストテン』(注24)など、テレビの音楽番組が大ヒットしてたし。芸能界全体を左右するような力が音楽にありましたから。
注24:毎週木曜日の生放送で、独自の邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表した。放送時間は21時からの55分。放送期間は78年1月19日 – 82年9月30日。
──昔は各局に音楽番組がありました。
そういう意味じゃ『紅白歌合戦』(注25)も「日本レコード大賞」も大きな力がありました。
注25:NHKが51年から放送(52年まではラジオ)している男女対抗形式の音楽番組。大晦日の夜に公開生放送される。
──ところで話は尽きないのですが、今回のインタヴューは60年代までのことがメインですから、ここまでにしたいと思います。今日はほんとうにありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。また、小川さんとはまたお話をしましょう。
取材・文/小川隆夫
撮影/高瀬竜弥