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これから楽器をはじめる初心者から、ふたたび楽器を手にした再始動プレイヤー、さらには現役バンドマンまで、「もっと上手に、もっと楽しく」演奏したい皆さんに贈るジャムセッション講座シリーズ。
前回の「サックス入門編」に引き続き、今回も管楽器について学びたい。ということで、トランペット奏者の岡崎好朗さんに話を聞いた。プロ奏者として国内外のさまざまな現場を経験してきた岡崎さんが語る、音楽家人生と演奏者の心得。
【本日のゲスト】
岡崎好朗(おかざき よしろう)
ジャズ・トランペット奏者。1971年4月27日生まれ、東京都出身。12歳からトランペットを始め、17歳で五十嵐一生、村田浩に師事。1991年にバークリー音楽大学に留学。卒業後に自身のバンドQuintet “OKAZAKI BROTHERS”を率いて作品を発表。2005年、活動拠点をニューヨークに移し、ミンガス・ビッグバンド、ヴァレリー・ポノマレフ・ビッグバンド、小曽根真「No Name Horses」など、さまざまなプロジェクトで活躍。帰国後はライブ、コンサート、レコーディングなどに勤しむほか、昭和音楽大学と国立音楽大学で講師も務める。
【担当記者】
千駄木雄大(せんだぎ ゆうだい)
ライター。30歳。大学時代に軽音楽サークルに所属。基本的なコードとパワーコードしか弾けない。ジャムセッションに参加して立派に演奏できるようになるまで、この連載を終えることができないという苦行を課せられ執筆中。最近、『東洋経済オンライン』で書いた「ストロング系缶チューハイを毎日10缶飲んでた私に起きた異変」というエッセイがかなり読まれたのに、ヤフトピには載らなくて落胆。まあ、冷静に考えると自分の自堕落な生活がデカデカとピックアップされるのも恥ずかしいので取り上げられなくてよかった。
人生最初のオーディションは「1音」で合格
本日お話を伺う岡崎好朗さんは、ジャズを中心にポピュラー音楽や映画の劇伴など、多彩なシーンで活躍するトラペット奏者。自身の作品はもちろん、多くの客演でも知られるトッププレイヤーのひとりだ。しかも音大で教鞭を執る教育者でもある。そんな岡崎さんに教えてほしいことが山ほどある。もちろんこの連載のテーマである「ジャムセッション」についていろいろ聞きたいのだが、その前に…。
*
──どうすればプロのトランペット奏者になれるのか? 実際にはどんな人がプロになっていくのか? みたいなことに興味がありまして。まずは岡崎さんのプロフィールを伺いたいのですが、そもそもどんな経緯でトランペット奏者の道を歩むことになったのですか?
岡崎 最初に興味を持って触った楽器がトランペットでした。そこが始まりです。
──それはご家族の影響で?
岡崎 いえ、父は建設業を営んでいて、ジャズとは接点がなかったです。ただ、父が演歌でも弾きたかったのか、家にギターはありましたね。
──そのギターを弾いてみようとは思わなかった?
岡崎 家のギターには一切触らず(笑)、最初に手にした楽器がトランペットでした。きっかけは小学校5年生のとき。学校の「音楽委員会」というのがあって、その金管バンドのオーディションに呼ばれたんです。
──音楽委員? 放送委員とか図書委員みたいな感じの。
岡崎 そうですね。学校行事の時にマーチングしたり、朝礼で演奏したり。その担当の先生がかなり熱心な人で、音楽の成績が良さそうな生徒を集めてオーディションをやるんです。そこに僕も呼ばれて。
──どんなオーディションなんですか?
岡崎 マウスピースを手渡されて、順番に吹く。僕はそのとき初めてマウスピースを吹いたのですが、たまたま「プー」という音が出たんです。
──かわいい!!
岡崎 それでメンバー入りして(笑)、毎朝みっちり練習する日々が始まりました。
“最初から音が出た人” がプロになる
──適性がある、という理由だけで音楽委員に任命されて毎日練習……辛くなかったですか?
岡崎 楽しかったですよ。吹けることが嬉しかったし、上手くなることに喜びも感じていた。 卒業までの1年間続けていたのですが、音はずっと鳴っていました。
初めて吹いた時に、ちゃんと音が出た。それは「たまたま出ただけ」かもしれないけど、じつは重要なポイントなんです。プロのトランペット奏者って、僕と同じように「最初から音が出た」人たちなんですよ。
──えっ!? そういうものなんですか?
岡崎 たとえばトランペットと比べて、ギターやピアノは裾野が広いですよね。なぜならピアノは鍵盤を押せば音が出るし、ギターもコードを弾けば「それっぽくなる」から。ところがトランペットの場合は、まず音が出ないと先には進めない。そうなると続けるのも困難です。だから結局のところ、プロのトランペット奏者というのは「初めて吹いたときから苦労せずに音を出せた」という人がほとんどです。
──なるほど…それを「才能」と呼ぶのかもしれませんが、ただ、それだけではプロにはなれませんよね。
岡崎 もちろんです。当たり前のことですが、「音が出た」っていうのは第一関門を突破しただけ。その後もいろんな関門があるだろうし、練習や演奏の過程ではたくさんの努力や苦労を重ねるわけです。
──で、生き残った者だけがプロになれて、プロになってからもそこで生き残る努力をしなければならない…。
岡崎 それは音楽に限らず、スポーツでも芸能でも、どんな分野のプロも同じですよね。きっとライターさんもそうでしょ?
──(耳が痛い)…おっしゃる通りでございます。
ジャズ映画が人生の転機に
──そんな岡崎さんがジャズに傾倒したのは、どんなきっかけで?
岡崎 中学校には吹奏楽部やブラスバンド部がなかったので水泳部に所属していたのですが、たまにトランペットも吹いていました。そんなある日、テレビで放映された『ベニイ・グッドマン物語』を観て、そこに登場するトランペット奏者に衝撃を受けまして。
──クラリネット奏者、ベニー・グッドマンの伝記映画(1956年公開)ですね。1986年にベニー・グッドマンが亡くなって、そのタイミングで放映された。
岡崎 そうだと思います。映画の中では、彼のバンドでトランペットを担当していたハリー・ジェームス自身が本人役で出演して、演奏シーンはあて振りですが、音はちゃんと彼自身の演奏が使われていました。そのトランペットの音がなんともカッコいい……。
岡崎 それを機に、当時は地上波でもかなりジャズの番組が放送されていたので、そういった番組を熱心に見るようになり、なけなしの小遣いとアルバイト代でジャズのCDを買うようになりました。
──すでにトランペットの経験もあったから、すんなりフィットしたし、夢中になることもできた。
岡崎 そうですね。あと、ジャズという音楽は “トランペットの存在感が映える”ということにも魅力を感じたのだと思います。で、高校に入るとブラスバンド部があったので、そこに入部します。ただ、面白いことにコンクールには一切出ないんですよ。
──えっ? 普通はみんな吹奏楽の甲子園こと「普門館」を目指すのでは?
岡崎 何というか、独特の活動方針でしたね。そこは日本大学の附属高校だったので、日大芸術学部の講師が顧問として教えていました。普段はクラシックの非常に難しい曲を演奏するんですが、その一方で、体育会系の試合に駆り出されてポピュラー系の音楽もたくさん演奏する。そんな環境の中で、徐々に音楽の面白さや奥深さを知っていきます。実際に、OBでプロになっている人も多くいますよ。
ジャムセッションに通う高校生
──その部活では、ビッグバンドの一員として、ジャズやさまざまな音楽を演奏していたわけですよね。
岡崎 そうです。
──いわゆるモダンジャズというか、少数編成の演奏もやりたかったのでは?
岡崎 その欲求を満たすのがジャムセッションでした。都内で各所でやってるセッション・イベントにもぐり込んでいましたね。
──出ました! この連載のテーマでございます。…っていうか、高校生で夜な夜なジャムセッションに挑むなんて、なかなかの不良ですね。
岡崎 当時、僕以外にもジャムセッションに参加している高校生はいましたよ。
──そこはやはり意識し合うんですか? 各校の番長たちの対決みたいな感じで。
岡崎 いや、人数もたかが知れているので、“みんな知り合い” という感じで。和やかなムードでしたね(笑)。ただ、ジャムセッションのイベント自体は、今よりも殺伐とした雰囲気で(笑)、独特の緊張感があった。高校生にはちょっと怖い場所でしたね。
──ちなみに、当時の岡崎さんはどういったお店に通っていたのでしょうか?
岡崎 今もあるお店だと、新宿の「サムデイ」や「ピットイン」。あと、もう閉店しましたが、新宿の「JAZZ SPOT J」とか、目黒にあった「SONOKA」とか……、いろんな店に行ってましたね。
──たとえば現在の東京のジャムセッション・シーンと比較して、大きな違いがあるとしたら何ですか?
岡崎 あの頃は『黒本』(※セッションでよく使用される楽譜集)みたいなものがなかったので、自分で採譜してました。小さなメモ帳にメロディとコードを書いて、持ち歩いていましたね。
──採譜、つまり耳コピに注力していた。ってことは「脳と耳」が徹底的に鍛えられますよね。
岡崎 その通りです。本当はそのほうがいいと思うんですよ。譜面という「視覚」から入るよりも、音楽という「聴覚」から入ったほうが曲も覚えやすい。
岡崎 それに、同じ曲でも「コードチェンジ」のバリエーションはたくさんあります。僕が高校生の頃に参加していたジャムセッションでは、そのバリエーションも話し合っていましたが、今は『黒本』である程度統一されているので事故る危険性もない。昔はいざ演奏してみると「ぜんぜん違うコードチェンジだった」なんてこともよくありました。
──事故る危険が減るのは良いことですが、同時に、クリエイティブが減衰している可能性もありますよね。
岡崎 ちなみに僕よりも上の世代は、覚えている曲のメモリーがすごいですよ。今の70代のプロのミュージシャンたちが覚えている曲数が膨大なのは、苦労して採譜したからでしょう。やはり、そのほうが曲を多く覚えられます。
米国留学のタイミング
──高校卒業後は日大法学部に進みますが、その1年後にバークリー音楽大学(米マサチューセッツ州ボストン)に留学。これはどんな経緯で?
岡崎 80年代の終わり頃に4年間ほど、静岡県浜松市で「バークリー・イン・ジャパン・セミナー」という、バークリーの講師陣によるクリニックが行われていました。5日くらいのプログラムで学生を募集して、優秀であれば奨学金を獲得してバークリーに留学できるというものです。
──ずいぶん豪華なクリニックですね。
岡崎 僕はそのクリニックが最後に行われた91年に参加したのですが、なぜかそのときだけ浜松ではなく、東京での開催だったんです。しかも全額無料。そこで、たまたま奨学金をもらえることになったので、1年生の途中で大学を辞めて、バークリーに留学することにしました。
──すごい! 奨学金というかスカラーシップですよね(奨学金に関する本を出しているため、つい余計な深掘りをしてしまう筆者)。
岡崎 学費全額免除ではありませんが、8割は負担してもらえました。当時は円高で、しかもアメリカも物価が安かったため、学費も1年間で2学期分のセメスターを履修して6000ドル程度だったんですよ。当時の国内の音大は1年間で150万円 はかかったのですが、1ドル=80円台だったため、半額以下で通えたわけです。
──単純計算で当時のレートで計算すると、6000ドルは48万円になります。大昔の日本の国立大学と同じような学費だったんですね(奨学金に関する本を出しているため、まだ食いつく筆者)。
岡崎 アパートも650ドル(当時のレートで5万2000円)の家賃を同居人と2人でシェアしていたため、300ドル(当時のレートで2万4000円)ちょっとですよね。3万円もしないわけです。当時は本当に恵まれていましたね。
──そんなバークリーへ入学してみて、最初に感じた “驚き” って何でした?
岡崎 これは当たり前の感想かもしれないけど、まず「みんな上手」ということですかね。
──その状況に、気持ちは萎縮しなかった?
岡崎 それはなかった。同じ人間だけど、とんでもなく上手な人が大勢いる。その現実を目の当たりにして、「あの人がこれくらいできる、ってことは自分にもできるはず」と思えた。その人に負けないくらい、しっかりと過程を踏んで練習しよう。そんな気持ちになれましたね。
──すごい……。超ポジティブ思考。音楽に限らず、この考え方は何事にも通用しますね。
岡崎 だから、ショックを受けるというよりも、とても前向きな刺激として受け入れていました。バークリーって、世界中から学生が集まるという面もありますが、 年齢の幅も広いんですよ。日本の大学のように18〜23、24歳という感じではなく、「下は18歳、上は50歳」という感じで、すでにプロとして活躍している人が、もう一度学びに来たりしている。
──なるほど。自分と同じ年齢の日本人プレイヤーに、実力の差を見せつけられたら焦るかもしれないけど、世代や国籍を越えてハイレベルなものに接すると、逆に前向きになれるのかもしれない。ちなみに、同級生に日本人はいたんですか?
岡崎 いっぱいいました。全体の学生のうち1割は日本人です。当時はバブル大絶頂期で、円高だったため、僕ともう少し上の世代で、バークリーに留学していた日本人は本当に多い。僕よりも下の世代になると、今度は少数精鋭になるため、本当に上手なプレイヤーしかいないんですね。ちなみに学校以外でも、ジャムセッションができる店に通って、いろんなスタイルのプレイヤーと共演したり。とにかく多くのことを学びましたね。
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こうしてプロの道に入り、日米の両国を拠点に活躍を繰り広げていく岡崎好朗。今回のインタビューではその半生を足早に語ってもらったが、続きは次回。渡米中に得たノウハウや、プロ奏者として積み上げた経験をもとに、さらに実践的な話もいろいろと聞くことができた。その詳細は翌月公開の「後編」にて。
取材・文/千駄木雄大
撮影/鈴木信之介
ライター千駄木が今回の取材で学んだこと
① 初トランペットで「音が出た」は大成の可能性あり
② 譜面を読む力も重要だが耳コピ・トレーニングも有用
③ 円高&バブルの時代が羨まし過ぎる……
④ 「同じ人間なのだから、自分にもできる」この気持ち大事!