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菊池武夫インタビュー|最初のジャズ体験は「進駐軍の将校が聴かせてくれたレコード」─若き日の衝動を凝縮したコンピレーション盤を制作

菊池武夫

ファッションデザイナーの菊池武夫は、映画や音楽、クルマ好きとしても知られる趣味人だ。そんな同氏が若き日に没頭したのがジャズである。ファッションデザイナーとしての創作意欲も「ジャズで仕上がった」と本人は語る。

モダンジャズ黄金時代の、しかも自分と同世代のジャズマンたちの表現をリアルタイムで体感した菊池武夫は、当時のジャズから強烈なインスピレーションを得つつ、ファッションの大舞台へと羽ばたいていった。

新しいカルチャーが生まれる実感

──初めてジャズに触れたのは終戦の直後だったそうですね。

そうです。戦後すぐだから、僕が小学校に入った頃かな。うちの敷地内の離れに米軍の将校夫婦が暮らしていまして、その人が持っているレコードが全部ジャズだった。僕はよくそれを聴かせてもらっていて。彼は1年後に帰国してしまうのですが、レコードは全部置いていってくれました。

その後、本格的にジャズにのめり込んだのは10代の終わり頃です。17歳か18歳くらいのとき。

──何かきっかけがあったのですか?

いくつかあって、まず、レコードジャケットに載ってるジャズマンの写真。そのかっこよさに惹きつけられた。もちろん、サウンドも刺激的だったし演奏者の姿勢みたいなものにも、感覚的に惹きつけられました。

──スイングジャズ以降の、いわば “新しいスタイルのジャズ” が刺激的だった。

まさにそう、自分と同世代の音楽家が新しい表現をしている。その親近感と臨場感がすごかった。これまで聴いてきた音楽とは違う生々しさというかね。現代的であり、なおかつ知性的でもあり、新しいカルチャーが生まれている実感がありました。

──当時のジャズを取り巻くカルチャー全体に魅力を感じていたわけですね。

当時の僕は、絵画を学んでいたり、文学にも興味があったり、そういういろんなものとリンクしていたからね。そういう意味では、アートに近かったし、同じムーブメントに感じたんですよ。

“あの頃” を詰め込んだコンピレーション制作

──そのムーブメントの重要拠点がジャズ喫茶ですよね。

毎日、4〜5時間はジャズ喫茶で過ごしていました。よく通っていたのが、東京駅の八重洲口にあった「ママ」という店。今回のこのアルバムに入れた曲のほとんどが、その店で聴いて知ったものです。

菊池武夫監修のジャズ・コンピレーション

QUARTERLY – A TAKEO KIKUCHI JAZZ COMPILATION』(ユニバーサルミュージック)

モダンジャズ勃興時にリアルタイムでジャズに傾倒した菊池武夫が監修するコンピレーション・アルバム。ソニー・ロリンズやセロニアス・モンク、ソニー・クラーク、チェット・ベイカーなど数々の名演を選出。ボーナストラックとして、以前に〈TAKEO KIKUCHI〉が衣装提供したバンド、 J-Squad によるハービー・ハンコックのカヴァー「処女航海」を収録。ライナーノーツでは各楽曲やミュージシャンに対する思いが詳述されている。

──当時、日本のジャズミュージシャンとも交流があったのですか?

何かの折に、大橋巨泉さんと知り合って、彼がサポートしていたメトロトーンズ(※)というクインテットのファンになりました。バンドの追っかけみたいな感じでね、ライブのお客を集めるのを手伝ったり、ライブ終わりに一緒に玉突き屋(ビリヤード場)に行ったり。

※ドラム奏者の松下彰孝が率いたバンド。沢田駿吾(ギター)や五十嵐明要(サックス)らが所属した。

当時の僕は、彼らの演奏を観るのも好きだったけど、彼らが喋ってるのを聞いているだけで楽しかったというか……刺激的だった。ミュージシャン特有の言葉づかいとかね。日本で新しい文化を作ろうと一生懸命に闘ってるようにも見えたし、何かにチャレンジしているのがわかって、そこにワクワクしました。

“ジャズマンの創意” をデザインに昇華

──その後、ご自身はファッション業界で活躍するわけですが、当時すでにそういう活動をなさっていたのですか?

いや、その頃はまだ考えていなかったです。ただ、子供の頃から洋服が好きでした。先ほどの米軍将校の話もそうですけど、僕の父親がそういう立場にあったので、うちは着る物や食べるものまでアメリカの物資が入ってきた。アメリカの子供が着てた服をそのまま僕も着て育ちました。だから洋服の文化は、周囲の日本人とは少し違っていたと思います。

新しい “かっこよさの感覚” とでも言うのかな、そういうものを自分で作りたいという欲求は、なんとなくありました。それが、当時のジャズで仕上がった感じです。なにしろ、実験的な演奏をする人がたくさんいましたから。彼らのチャレンジをファッションに置き換えると、どんなことができるのだろう? と考えてみたり。

──そして実際に新しいもの、かっこいいものを創り出す人になり、海外にも進出します。

向こうでも仕事をしてきましたけど、初めてショーをやったとき、フランスの新聞に「初めてメンズのデザインをやったアジアの小男が〜」って書かれてね。別に気にしないけど、そんな言い方しなくてもいいじゃん(笑)、とは思った。

──向こうとしてはファッションは欧州が支配しているというプライドもあるのでしょうね。

だからこそ僕は “日本の伝統的な文化” を糧に外国で何かするのは絶対やりたくないと思った。たとえば僕は江戸時代の文化が大好きなんです。だからと言って、それを背景にした何かを作ろうとは思わない。それは当時の人たちがあの時代に創り上げたものだから。

いまの日本人が備えた “日本的” 感覚

──古くから伝わる日本の伝統いかにも日本的なものを、わざわざ打ち出す必要はない、と。

そう。僕はいま自分が生きてるその世代から、さらにその先にどんな服が求められているかっていう意識の方が強かったので。

日本人の普段着が和服から洋服になってまだ100年くらいしか経っていませんが、100年なりの歴史があって、洋服に対する高度な感覚や文化がきちんと育まれてきた。だから西洋のものに対して、何も恐れる理由はないです。自分が思う洋服感覚で服を作ればいい。

外国人の作り上げてきた洋服文化で、外国人が気づかない洋服の魅力がたくさんあるんですよ。それは、彼らとは骨格も文化も違う日本人だからこそ、気づける部分なんですね。そんな日本人の体型がカッコよく見えるデザインって何だろう? と考える。その結果が、日本人の特色になる。それが僕にとっての “日本的” なことなのです。僕は最初からそのつもりで服を作ってきたし、そう信じています。

──今のお話、そっくりそのままかつての日本人ジャズミュージシャンの心情を代弁しているかもしれません。

確かにそうですね。西洋の音楽にどう対峙するか。僕なんかよりずっと深く、強く、考え続けてきたはずです。

──そんな日本人ミュージシャンの演奏も、この作品には収録されています。

J-Squadですね。彼らはまさに “いまの世代” のジャズミュージシャン。本当にすばらしい音楽家たちだと思います。

『QUARTERLY – A TAKEO KIKUCHI JAZZ COMPILATION』(ユニバーサルミュージック)

菊池武夫がジャズシーンにもたらしたもの

──そんな J-Squad が体現するように、いまもジャズは変わり続けています。さらに、過去の音源に対する評価や解釈も、新たなアングルが生まれている。そこも含めてジャズの面白さだと思います。ちなみに、1986年に東京で行われたTAKEO KIKUCHIのファッションショーも、そうした新しい ジャズのアングルにおいて大きなインパクトをもたらしました。

バッファロー(※)と一緒にやったときですね。あのときはジャズ・ディフェクターズやネナ・チェリーも呼んで、DJやダンサーも参加したんだ。DJのドン・レッツもいたかな。

※英スタイリストのレイ・ペトリが率いるクリエイティブ集団。写真家やミュージシャン、モデル、スタイリストなどで構成され、音楽やファッション、アートの分野に新風を巻き起こす。

──ポール・マーフィー(DJ)や、ワイルドバンチ(メンバーはのちにマッシヴ・アタックや Soul Ⅱ Soulとして活躍)も参加したそうですね。その後、日本でもクラブミュージックやダンスミュージックの文脈でジャズを再考するムーブメントがありましたが、その起点になる出来事として86年のTAKEO KIKUCHIのショー(およびライブ)」語り草になっています。

当時は全然そんなこと考えていませんでしたけどね(笑)。僕はただ、新しいもの、なおかつ自分が面白いと思えるものを提示しただけ。ロンドンの連中も、そんなことをするのは初めてだったそうで。“新しかった” のは確かです。ちなみに、そうしたスタイルの僕のショーを、たまたま来日中のゴルチエが見て、自分のショーにも取り入れていました。

──やはりあれは音楽業界的にもファッション業界的にも、圧倒的に新しかったのですね。

しかし音楽ってすごいですよね。100年前の作品でも新鮮な感動がありますから。このアルバムに入っている楽曲もほぼすべて半世紀以上も昔の曲で、しかも僕の大好きな曲。名曲として知られていますけど、形を決めないで聴いてほしいと思います。それから、僕の気持ちが反映されたこのアルバムを窓口に、皆さん自分の好きなジャズをどんどん探求してもらいたいですね。

取材・文/楠元伸哉
撮影/山下直輝

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