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「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
オスカー・ピーターソンが生まれたのは1925年だから、来年で生誕100年ということになる。最近ドキュメンタリー映画『オスカー・ピーターソン』が日本で公開されたこともあって、新たなファンも増えているのではないだろうか。彼の代表作とされるアルバムは50年代から60年代半ばに集中していて、70年代以降のピーターソンに言及されることはあまりない。しかしその時代にも彼はパブロ・レコードを中心に数々の名作を残している。ライブで本来の力を発揮すると言われていたピーターソンの「陰の名作」の一枚と言えるのが、1977年のモントルー・ジャズ・フェスティバルの記録『オスカー・ピーターソン・アンド・ザ・ベーシスツ』である。
日本人が初めて目撃したモダン・ジャズ・ピアニスト
戦後の日本人が最初に生演奏に触れたモダン・ジャズのピアニストは、オスカー・ピーターソンであった。J.A.T.P.のメンバーとしてピーターソンが来日したのは1953年11月、日本の占領期が終わっておよそ半年後のことである。
ジャズ・プロデュサーのノーマン・グランツが、名の知られたジャズ・ミュージシャンを集めてセッション・コンサートを開催したのは1944年だった。ロサンゼルスのフィルハーモニック・オーディトリアムが会場であったことから、そのイベントはJ.A.T.P.(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)と名づけられた。以後、J.A.T.P.のコンサートは出演メンバーを変えながら断続的に行われ、海外にも巡業するようになった。日本公演もそのような巡業活動の一環であった。
小さなライブ・ハウスやジャズ・バーのアフターアワーズの薄暗がりの中で人知れず行われていたジャム・セッションを、コンサート・ホールという日の当たる場所で興行化したのがグランツの大きな功績で、さらに彼はそれをレコーディングして音源化することにも熱心だった。ライブ・アルバムというフォーマットが定着したのはJ.A.T.P.以降である。53年の来日公演も、2枚組のアルバムとして残されている。
来日時にたまたま秋吉敏子の演奏をライブ・ハウスで見たオスカー・ピーターソンが、ノーマン・グランツにレコーディングを勧めたことで、秋吉のファースト・アルバムが世に出ることになったというエピソードはよく知られている。戦後の日本のモダン・ジャズの先導役を担ったのがピーターソンであった。
デビュー時から17年続いたパートナーシップ
オスカー・ピーターソンとノーマン・グランツはある時期まで一蓮托生の関係にあって、カナダ出身のピーターソンをアメリカに紹介したのも、彼のデビュー・アルバムをプロデュースして自分のレーベル、クレフから発売したのも、その後のマネジメントを一手に引き受けたのもグランツである。
ピーターソンが1949年9月にニューヨークのカーネギー・ホールで開催されたJ.A.T.P.コンサートに出演してアメリカの聴衆に初めてプレイを聴かせたのは、ベーシストのレイ・ブラウンとのデュオ演奏だった。ドラムレスの演奏となったのは、アサインされていたバディ・リッチが共演を拒否したからである。すでに別のセッションで演奏していたリッチは、「疲れた」という理由で無名のピアニストのバックに入ることを嫌がったのである。
しかしその結果、ピーターソンとレイ・ブラウンの相性のよさがたいへんわかりやすい形で示されることになり、ピーターソンのデビュー・アルバム『テンダリー』(1950年)の12曲中9曲はブラウンとのデュオで録音されることになった。以後1966年まで、17年の長きにわたってブラウンはピーターソンのグループで演奏を続けた。今日オスカー・ピーターソンの名盤、人気盤とされているアルバムのほとんどがこの17年間の中にすっぽり収まる。250枚はあると言われているピーターソンのリーダー作ならびに参加作中、最も高い人気を誇る『ウィ・ゲット・リクエスツ』(日本では『プリーズ・リクエスト』というタイトルで発売された)は、ピーターソンとブラウンの長いタッグの最後期の記録である。
モントルーから生まれた数々の「パブロ盤」
モントルー・ジャズ・フェスティバルでは、特定のレーベルに所属するミュージシャンを集めた企画が催されることがあって、1975年、77年、79年には、パブロ・レコード所属のミュージシャンたちが演奏する「パブロ・ナイト」が開催された。パブロは、クレフ、ノーグラン、ヴァーヴに続いてノーマン・グランツが1973年に創設した4つめのレコード会社で、1961年にヴァーヴを売却して音楽界から身を引いていたグランツは、このレーベルを擁して12年ぶりにジャズ界の前線に復帰したのだった。レーベル名は、当時彼がコレクションしていたパブロ・ピカソにちなんだものである。
グランツが目指したのは50年代におけるヴァーヴのようなモダン・ジャズの王道を行くレーベルで、J.A.T.P.やヴァーヴで縁のあったミュージシャンがまとめてパブロに招聘された。もちろん、オスカー・ピーターソンもそのうちの1人であり、かつこの新興レーベルにおける最も重要なタレントであった。
興行と音源発売によって二重の利益獲得を目指すグランツの戦略はJ.A.T.P.から一貫していて、モントルーにおいても「パブロ・ナイト」からかなりの数の演奏がライブ・アルバム化された。ピーターソンが参加したものに限っても、75年には4枚、77年には6枚、79年には1枚のライブ盤が発売されている。ピーターソンが演奏していないアルバムを加えたら、おそらくこの倍くらいの数にはなるだろう。
カウント・ベイシー、ディジー・ガレスピー、クラーク・テリー、ロイ・エルドリッジ、ミルト・ジャクソンといった大物が参加して繰り広げられたジャム・セッションの記録もあるが、オスカー・ピーターソンのリーダー・セッションから1枚を選ぶなら、77年の『オスカー・ピーターソン・アンド・ザ・ベーシスツ』になろうかと思う。
ピアノと2本のベースによる変則トリオ
「The Bassists」と定冠詞がつき、かつ複数となっているのは、ベースが2人いて、それぞれがピーターソンにとって特別な存在だったからである。1人がデビュー以来の盟友であったレイ・ブラウン、もう1人が70年代に入ってからのピーターソンのバンド・メンバーであり、当時ブラウン以来の名パートナーと目されていたニールス・ペデルセンである。長いキャリアの中でピーターソンが最も大きな影響を受けたと言われる2人の新旧のパートナーとの変則トリオで、ピーターソンは7曲を演奏した。『オスカー・ピーターソン・アンド・ザ・ベーシスツ』には、その全曲が演奏順に収録されている。
トリオといっても、3人が同時に演奏する場面はほとんどなく、ブラウンがバッキングをする際にはペデルセンがプレイをやめ、ペデルセンがソロをとるところではブラウンは弦に触れない。だから、このライブ盤はほぼピアノとベースのデュオ作であるとも言える。ピーターソンのデビュー作はベースとのデュオ・アルバムであり、それをプロデュースしたのはノーマン・グランツであった。それから27年の時を経て、再びグランツ・プロデュースによって原点に返った作品。それが『オスカー・ピーターソン・アンド・ザ・ベーシスツ』であった。
ステージでぶつかり合った2つの個性
録音は、右チャネルにニールス・ペデルセン、左チャネルにレイ・ブラウン、中央にオスカー・ピーターソンとくっきり分かれているので、2人のベーシストがどこで弾いているかははっきりわかる。また、CDのライナーノーツには、どこで誰が何コーラスぶんリズムを弾いて、どこでソロをどのくらいとっているかがかなり詳細に記されているので(一部、誤りがあるが)、それをガイドにすれば2人のベーシストのプレイをはっきり聴き比べることができる。
しかし、そのようなガイドがなくても2人の演奏を聴き分けるのが容易なのは、それぞれの音やタッチやフレーズがはっきり異なるからである。オスカー・ピーターソンの音楽や歩みをコンパクトにまとめた好著『オスカー・ピーターソン』(音楽之友社)の著者リチャード・パーマーは、ブラウンについては「旺盛で生命力に溢れた豊かな音」、ペデルセンのベースについては「弾力ゴムのようで、ヘビのようなレガート」と表現している。重厚な安定感とスウィング感を特徴とするブラウンと、柔かな音でギターのようなソロを繰り出す技巧派のペデルセン。そんなふうに表現することも可能だろう。
ピーターソンの素晴らしさは言うまでもなく、ときに持ち味のテクニックを駆使した高速フレーズを畳みかけ、ベーシストがソロをとる際には、チェスの達人が静かに駒を動かすような優雅さでごく控えめに伴奏をする。ベーシストのソロを引き取り、左手でベースのフレーズでソロをとる場面もある。
「3人が同時に演奏する場面はほとんどなく」と書いたのは、たった一カ所例外があるからで、ピーターソンがテーマを演奏し、ペデルセンがベース・ラインを弾き、ブラウンがオブリガードを被せる場面がそれだ。曲はミルト・ジャクソンの「リユニオン・ブルース」である。ピーターソンとブラウンの再会(リユニオン)を意味する選曲であったのは明らかである。
ライナーノーツの記載によれば、最後の「ソフト・ウインズ」を演奏する前にペデルセンのベースに不調が生じて(not functioning)、ブラウンのベースを2人で交互に弾いているとの由である。ジャズのライブならではの愉しいハプニングと言うべきだろう。
最もジャズマンらしからぬジャズマン
ジャズメンとして成功する条件として、変人であること、テクニックが足りないこと(テクはないがソウルはあるといういいわけは必要)、麻薬常習などの反社会的行為、水曜のマチネーに木曜の深夜になって現れるといった奇行が要求されるとしたら、オスカー・ピーターソンは最も成功から程遠いミュージシャンの本命であった。
先に挙げた『オスカー・ピーターソン』の中で、著者はジャズ評論家レナード・フェザーのこんな言葉を紹介している。練習の鬼であり、ドラッグとは無縁で、深酒による失敗もなく、警察の厄介になることもない。ピーターソンは、あの時代のジャズ界にあって極めて逸話に乏しいミュージシャンであったから、最近日本でも公開されたドキュメンタリー映画『オスカー・ピーターソン』でも、話は彼の音楽の素晴らしさを巡ることに終始していた。逸話と呼べるのは、何度かの離婚歴と、名曲「自由への賛歌」を作曲して黒人公民権運動にコミットしたこと、加えて晩年の病くらいのもので、制作者はストーリーを構成するのにかなり苦労したのではなかったか。
しかし、逸話とは要するに本筋を逸れた話のことなので、真摯な音楽家に世間を面白がらせる逸話がないことを嘆く理由はない。ジャズに殉じ、ピアノに身を捧げた男が残した膨大な作品を一つ一つ丁寧に味わうことができればそれで十分である。
ジャズ・ピアノというものを知らず、しかしジャズ・ピアノというものに触れてみたいという人が周りにいたら、まず紹介すべきはバド・パウエルでも、セロニアス・モンクでも、ビル・エヴァンスでも、もちろんセシル・テイラーでもなく、オスカー・ピーターソンだと思う。しなやかで、エネルギッシュで、スウィンギーで、ブルージーで、メロディアスで、そして何より親しみやすい。
「僕はオスカー・ピーターソンのレコードをとくに熱心に買い集めたわけでもないのだが、うちにあるピーターソンのリーダー・アルバムを数えてみたら、なんと五十枚以上あった」と村上春樹は書いている(『ポートレイト・イン・ジャズ』)。知らぬ間に自然とその魅力の虜になってしまう。オスカー・ピーターソンとは、そんなミュージシャンである。
〈参考文献〉『ジャズ・マスターズ・シリーズ・2 オスカー・ピーターソン』リチャード・パーマー著/油井正一監修/中川燿訳(音楽之友社)、「ジャズ批評 No.84 オスカー・ピーターソン大特集』(ジャズ批評社)
文/二階堂 尚
『Oscar Peterson and the Bassists』
オスカー・ピーターソン
■1. There Is No Greater Love 2.You Look Good to Me 3.People 4.Reunion Blues 5.Teach Me Tonight 6.Sweet Georgia Brown 7.Soft Winds
■オスカー・ピーターソン(p)、レイ・ブラウン(b)、ニールス・ペデルセン(b)
■第11回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1977年7月15日