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日本のジャズ・シーンに新たな才能が登場した。ピアニスト、壷阪健登は米バークリー音楽院を首席で卒業。帰国後に小曽根真に誘われ、才能ある若手を育成するプロジェクト「From OZONE till Dawn」に参加。小曽根の強い勧めでピアノのソロ演奏を始めた。
その一方で、ベーシストの石川紅奈と歌を中心にしたユニット、sorayaを結成して、先ごろファースト・アルバム『soraya』を発表したばかり。そんななか、ソロ・ピアノによるファースト・アルバム『When I Sing』をリリースした。
全曲オリジナルによる本作はクラシックホールでレコーディング。そのみずみずしい感性と鮮烈な演奏に引き込まれる。壷阪とジャズとの出会い、そして、アルバムについて話を訊いた。
巨匠たちに導かれて…
──デビュー・アルバム完成おめでとうございます。壷阪さんがピアノを始めたのはいつ頃ですか?
小学校1年生のときです。それまでもヤマハ音楽教室に通っていたのですが、物心つく前から音楽が好きだったんだと思います。最初に出会った先生がとてもいい先生で、おかげで大学まで続けることができました。
──そんななかで、ジャズとどんな風に出会われたのでしょう。
中学生の時、テレビ番組で山下洋輔さんが「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏するのを見てかっこいい! と思ったのがきっかけです。その直後に行われた「山下洋輔トリオ復活祭」というイベントを日比谷野外音楽堂に見にいって、日本のフリージャズの先駆者たちの演奏に衝撃を受けました。
高校に進学してから横浜で板橋文夫さんの演奏を聴いて強く惹かれて、板橋さんが教えるHOT MUSIC SCHOOLに通うようになりました。
──10代で山下さんや板橋さんに惹かれてジャズにのめり込むというものすごいですね!
振り返ってみると、お二人のフリーなスピリット、そして、音楽が持つ温かさに惹かれたのだと思います。ただ前衛的なだけではない、そこに音楽の良さが詰まっているような気がします。
壷阪健登|つぼさか けんとピアニスト/作曲家
神奈川県横浜市出身。慶應義塾大学を卒業後に渡米。2017年、オーディションを経て、ダニーロ・ペレスが音楽監督を務める音楽家育成コース〈Berklee Global Jazz Institute〉に選抜される。2019年にバークリー音楽院を首席で卒業。2022年、石川紅奈とユニット「soraya」を結成、同年4月に1st シングルをリリース。 その後全楽曲の作曲、サウンド・プロデュースを手掛ける。2022年より世界的ジャズ・ピアニスト小曽根真が主宰する若手アーティスト育成プロジェクト、 From Ozone till Dawn に参加。
Photo by 野村佐紀子
──板橋さんの授業はいかがでした?
板橋さんはオリジナリティの大切さをずっとおっしゃっていました。音楽理論含め、たくさんのことを教えてくれましたが、技術を学ぶというよりは、演奏することの楽しさを教えてもらった気がします。まるで野原を駆け回る少年のように、ただただピアノを弾くことを楽しんでいました。
そして、大学1年の時に大西順子さんのワークショップに参加して、自分があまりにもジャズのボキャブラリーを知らないということに気づいたんです。
──そこでジャズという音楽を意識した?
そうですね。音楽を人に伝える気持ちとかパッションのようなものは板橋さんから学んだと思うのですが、ジャズという音楽の歴史や演奏法については無視していたんです。それで順子さんのもとでいろんなミュージシャンのソロをトランスクライブしながら、ジャズの歴史や演奏スタイルについて学びました。その時期に高田馬場のイントロに出入りして、ジャム・セッションを通してたくさんの仲間に出会えたことも大きかったですね。
小曽根真との遭遇
──そして、大学を卒業してバークリー音楽院に留学。本格的に音楽を学ばれたわけですね。
バークリーというと日本ではジャズの学校というイメージが強いですが、世界中からいろんなバックグラウンドを持ったミュージシャンが集まってきてそれぞれの音楽を追求する、とんでもなく大きな音楽コミュニティなんです。
例えば僕が南米のミュージシャンのリハーサルに参加すると、「じゃあ、この曲はチャカレラで」と言われて「えっ、チャカレラって何?」ってことになる(笑)。そこでリズムを教えてもらって練習するんです。あるいは「オルガンを弾いて」と頼まれたら、弾いたことがない僕は授業をとって弾けるように練習したり。
──そうやっていろんな音楽と出会ったことは、壷阪さんにどんな影響を与えましたか?
一日のスケジュールで、まずブラジル音楽を演奏して、次はジャズ、その次はポップス、ということもあるわけです。その都度、ラジオのチューニングを合わせるように、自分の中にあるセンサーを音楽に合わせて演奏するように心がけていました。
それぞれの音楽をリスペクトを持って学び、練習して、ステージに上がったら自分に正直に演奏をする。そういったサイクルを学ぶことができたことは、自分にとって大きな糧になりました。
──音楽家としてのアイデンティティを追求する日々だったんですね。そして、帰国されて小曽根真さんと出会われる。
2021年に六本木のアルフィーで、トリオで演奏している時にカウンターを見たら小曽根さんと俳優の神野三鈴さんが座ってらしたんです。僕は小曽根さんの大ファンだったので、「これは大変だぞ」と思って(笑)。その後、お二人が主宰されているFrom OZONE till Dawn というプロジェクトに誘って頂きました。
──壷阪さんがソロ・ピアノをやるきっかけは小曽根さんの提案だったとか。
小曽根さんからは、最初にライブを観た時から、僕のソロ・ピアノを弾く姿が見えたと言われました。でもやったことがなかったし最初はお断りしたんです。それでも、その後も何度も背中を押してくれました。
小曽根さんはステージ上で、音楽のまだ見ぬ世界に向けて恐れず飛び込んでいく、それはジャズの現場でも、オーケストラと一緒でも。From OZONE till Dawnで活動していく中で、そんな彼の姿を何度も観ているうちに自分の中でも気持ちの変化がありました。
やったことがないからこそ、そこに自分が向き合うべき課題があるんじゃないかと思うようになったんです。
ステージ上の不思議な経験
──そして、2002年に3曲入りのシングル「KENTO」を配信リリースされます。作品を制作するに当たって、どんな準備をされたのでしょうか。
とにかく形にしなければいけない、というプレッシャーの中で、それまでコンボ用に作っていた曲の中でベストのものをピアノ・ソロ用にアレンジして録音しました。ただ、まだソロ演奏には乗り気ではなくて、このシングルを出したあとも続ける予定はなかったんです。
──ところが、こうしてソロ・ピアノによるデビュー・アルバム『When I Sing』をリリースすることになった。この2年で心境の変化があったわけですね。
まず、スペインのサン・セバスチャン国際ジャズフェスティヴァルやブルーノート・プレイス、そしてヤマハホールでの公演など機会を続けていただいたことは大きかったです。
ピアノという素晴らしい楽器と向き合う中での気づきも、この音楽にとても影響しました。ソロ・ピアノは、一人で完結するものだとばかり思っていましたが、実際にステージを重ねるごとに違う景色を見るようになります。
ピアノを鳴らした時の、空間の「響き」に自分自身が触発されて、そこから導かれるように次の音を演奏する。音楽に没頭することで、今まで出会ったことのない自分に出会う不思議な経験をステージの上ですることになる。これは実際にステージの上で即興を試みなければ見えなかったことでした。
──『When I Sing』は所沢市のミューズマーキーホールでレコーディングされていて、響きが重要な要素になっていますね。
素晴らしいホールとピアノ、調律の外山洋司さん、エンジニアの三浦瑞生さんたちによって、自分の音楽が形になったとき、本当に嬉しい気持ちになりました。譜面に書かれていた音楽が自分の手から離れて飛んでいくような感覚があって、それは喜びに満ちた体験でした。
──収録曲の「With Time」は『KENTO』に収録されていた曲の再演ですね。
シングルの時はスタジオ・レコーディングでした。そこから2年間、さまざまな編成や場所で演奏を続ける中で、“時間とともに” この曲への向き合い方にも変化がありました。同じ曲でも、自分が新しい気持ちで演奏しつづけると、曲も生き物のように成長していく、とても面白い経験でした。
「作曲するように即興し、即興するように作曲を」
──その他の曲はアルバムのため書き下ろした曲ですか?
「With Time」と「Kirari」はバークリー時代に書いた曲で、「こどもの樹」「暮らす喜び」は帰国後にインプロヴィゼーションを主体にして書いた曲です。他の曲はアルバムのために書き下ろしました。
──今回初めてソロ・ピアノ用に曲を書かれたわけですが、何か意識されたことはありました?
ソロ・ピアノは、逃げも隠れもできない。僕自身、「自分の頭の中では何が聴こえているのか」自分のイマジネーションと向き合い、ピアノの前で時間をかけてそれを見つける必要がありました。
真摯に自分自身と音楽に向き合った結果、生まれた曲に関しては、潔く受け入れることができるだろう、たとえそこに何かのリファレンスが感じられたとしても、必要以上にジャッジせずに送り出せるだろうという思いから制作しました。
──『When I Sing』はストレートなジャズではなく、様々な音楽性を垣間見せながら次々と風景が変化していく。エモーショナルで知的で表情豊かなアルバムです。
バークリーでヴァディム・ネセロフスキーに作曲を教わったのですが、「作曲するように即興して、即興するように作曲をしなさい」という彼の言葉は今でもよく覚えています。ソロを演奏してテーマに帰ってくるような構成ではなく、ひとつの流れがあり、それがストーリーになっているような曲の書き方はこのアルバムの大事な要素です。
まど・みちお の詩に共感
──小曽根さんがプロデュースを担当されていますが、レコーディングにはどんな風に関わられたのでしょうか。
作曲に関しては何も言われませんでした。現場で曲を演奏してみて、なんか空回りしているな、とか、力んでいるように聞こえるな、とか感じている時に小曽根さんが「こうしてみたら」と提案してくれる。そしたらうまくいくんですよね。
ホールの響きやピアノの性質、そして、音楽を熟知している小曽根さんの視点が入ることで曲が立体的になる。自分が書いた曲が新鮮に聴こえることで、書いてある譜面も即興のようにいきいきと演奏できる。それも大きな発見でした。
──収録曲「When I Sing」がアルバムのタイトルになっていますが。ピアノ・ソロの作品で「Sing」というのもユニークです。
この曲はsorayaでカーペンターズの「sing」のカヴァーをした時のアイデアを使っているのですが、レコーディングが終わった日の晩、まど・みちおさんの『うたをうたうとき』という詩集を読んだんです。それを読んだ時、僕がレコーディングで感じた喜びが書かれていると感じました。それで小曽根さんに「When I Sing」という曲名にしようと思います、と言ったら「それ、アルバム・タイトルにもいいかもね」とおっしゃられて。
──sorayaは「歌」を大切にされているユニットですが、ピアノ・ソロにも「歌」が息づいているんですね。
これが今の僕のジャズの形。もしくは音楽の形です、というステートメントとしてアルバムを出す時、「歌う」という表現があっているような気がしました。
──「うたをうたうとき わたしはからだをぬぎすてます からだをぬぎすてて こころひとつになります こころひとつになって かるがるととんでいくのです」。まどさんの詩を読むと、ピアノを演奏している時の壷阪さんが目に浮かびようですね。
大切なのは、音楽に没頭する、ということなんだと思います。準備してきたものをやるのではなく、その場で音楽に向き合う。そして、音楽に没頭することでエゴを忘れることができるんじゃないか。それは本当に難しいことで、一生かけてやっていかないといけないと思うのですが、今回そのことに気づいたことは大きいと思います。まだピアニストとしては入り口に立ったところで、これからやらなくてはいけないことはいっぱいある。でも、それだけ成長する余地があると思うと、すごく嬉しいし楽しみですね。
取材・文/村尾泰郎