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フリューゲルホルンはトランペットとよく似た形状の管楽器だ。トランペットと管長は同じだが、管の太さや巻き方、ベルの形状が少し異なるので、サイズがやや大きめに感じる。この楽器の特色は、温かみや柔らかさを湛えた音。「甘美で深みのある音色」と形容されることも多い。
フリューゲル(Flugel)とはドイツ語で「翼」の意味。大規模な狩猟で陣形を組むとき、左右に広がるウイングのメンバーに指示を出したラッパに由来する。という説もあれば、この楽器の祖型となるビュークル(単純構造の管楽器)を演奏する際に、奏者2名が対になって吹くことが多く、その形にちなんでいるとする説も。
いずれにせよトランペットと共通する部分が多いので、トランペット奏者の持ち替え楽器として知られている。とりわけジャズの分野でこの楽器の特性に魅せられ、麗しい表現を披露してきたプレイヤーは数多。音楽家の三宅純もそのひとりだ「そんなテーマの記事に、私でいいのかな…」 と本人はためらうが、手腕は言うまでもなく、この楽器の魅力や性質を熟知した巧手である。
三宅がもっとも愛着を感じているフュリューゲルホルンは、ベンジ(Benge)社製の1本。かれこれ40年以上も愛用し、現在でもいちばん使用頻度が高い。この個体特有の音色とレスポンスが気に入っているという。
最初に自分で手に入れた “楽器らしきもの”
三宅純が「トランペッター」として活動を開始したのは高校時代。その起点になる出来事が、10代のはじめ頃にあった。当時を振り返りながら三宅が語り始める。
「小学校6年のときです。友人にジャズを聞かされて、電気に打たれたようになりました」
ジャズという音楽の存在感、そしてそれが即興で演奏されているということに衝撃を受けた。と同時に、鼓膜の焦点はトランペットの音を追っていたという。
「その曲の中で、トランペットの音がいちばん好きだった。この楽器が欲しい、と思いました。触ったこともないし、どうやって奏でるのかも知らない。でも、とにかく欲しかった」
まずは家族に相談するが、“音楽にはまったく興味がない”という父親の理解は得られず。そこで、もっとも手早く現実的な妥協案がこれだった。
「とりあえずマウスピースだけでも音は出るらしい、という話を聞いて、その分のお金を貯めてトランペットのマウスピースを買いました。それが最初に自分で手に入れた “楽器らしきもの” です。しばらくの間はそのマウスピースだけ吹きながら、また少しずつお金を貯めて、ニッカンというメーカーの超初級モデルを買いました。それが小学校6年の終わりくらい」
中学に進学し、まずはブラスバンド部を見学した。が、即座に “これは無理だな…” と感じたという。いわゆるブラスバンド部が演奏する音楽を、どうにも好きになれなかったのだ。しかし演奏の場は欲しい。ということで、またもや妥協の入部。ただ幸運だったのは、素晴らしい顧問教諭がいたことだ。
「顧問の先生はジャズの経験がある人でした。彼は僕の心情を汲み取ってくれて、そっと部室の鍵を貸してくれました。つまり『部活が終わったら、この部屋で君の好きなことを自由にやってもいいよ』ということです」
少年は本当に “やりたい放題“ をやった。
「僕にジャズを聞かせてくれた友人と二人で、延々と無茶苦茶なセッションをやっていました。それはセッションとも言えないような、我流の、本当にでたらめな演奏です」
そんな日々を送りつつ、相変わらず部活には非協力的な不良部員だった。と、三宅は苦笑しながら当時を振り返る。
「部に籍を置いている以上、コンクールなどに参加しなければならないこともありました。そんなときは先生が『お前のソロを用意しといたから、そこだけやれ』みたいな感じで促してくれて。うまく取り計らってくれていたのだと思います」
最初にジャズを聞かせてくれた友人の存在。そして中学教諭の慧眼が、三宅の未来を開いた。近年になって恩師が他界した事を知るも、同氏を偲ぶ出来事があった。
「その先生には娘さんがいました。吉川美代子さんといって、のちにTBSに入社し、アナウンサーとして大活躍する人です。じつは最近、彼女にお会いする機会がありまして。お父様に大変お世話になったという話をしたところ、とても喜んでくださいました」
あの “不真面目な部員” は、やがて国際的に活躍する音楽家になる。教諭にその予感はあったのか知る由もないが、中学卒業後もしばらく、三宅の “不良な” 振る舞いは続いていた。
怖いもの知らずの高校生プレイヤー
「生意気だったと思いますよ。高校時代、いろんな大学に出向いて “ジャズ研荒らし” みたいなことをやっていましたから。高校の同級生に天才的なギタリストがいて、彼と一緒に行くんです。学園祭に乗り込んで “1曲やらせろ” みたいな感じで」
同様に、ライブハウスやジャズクラブでのセッションにも果敢に参加。高校生ながら、プロも一目置く存在になっていた…という話が漏れ伝わるが、本人はこう謙遜する。
「単に怖いもの知らずで、大人の現場に飛び込んで混ぜてもらっていただけです。大人たちも『なんか生意気なやつが来たなぁ』と、余裕を持って面白がってくれたのだと思います。つまり “お目こぼし” があっただけの話」
とは言え、プロの舞台で演奏するのは、それなりの重圧や緊張を強いられるのではないか。
「緊張を強いられる、そのスリリングな状況が楽しかった。たぶん刺激が欲しかったのでしょうね。感情の発露に飢えていたのだと思います」
若さゆえの荒ぶる衝動を抑えきれず、発散の場を求める。中学の部室で仲間とふたりセッションに興じることも、道場破りのように大学へ乗り込んだのも、同じ衝動なのだろう。が、そんな青年にも、思わず襟を正すような場面が訪れる。
「受験の時期が来て “さて、どうしようか…” と考えるわけです。このまま音楽をやりたいけれど、親は “音楽なんてとんでもない” という感じですから。そこで思い切って『本当に尊敬できる人に演奏を聞いてもらって、ダメなら諦めよう』と」
その “尊敬できる人” とは、日野皓正である。当時の日野は30代前半。すでに大活躍中のスーパースターだ。
「日野さんのライブにはしょっちゅう行っていましたが、 決心したその日、初めてご本人に声をかけました。詰襟を着たまま、まず自己紹介をして『いつか、僕の演奏を聞いてください』と頼んだ。するとその場で『吹いてみな』と言われて。えっ? 今ここで? と動揺しつつ、なんとか吹いたんですけど、その演奏がボロボロで。ああ、失敗した。自ら道を塞いでしまった…と落胆しました」
呆然と立ち尽くす学生服姿の三宅に対して、日野はこう言った。「ユー(you)、どうせ毎日、学校なんて行ってないんだろ? だって、しょっちゅう(ライブで)見かけるもんな」。そしてこう続けた。「明日、沼津の家に帰るから、そこに来い」。
日野皓正の薫陶と心遣い
「翌日の朝、日野さんは東京駅で新幹線の切符を買って待っていてくれました。そして沼津へ向かうのですが、新幹線に乗るなり聴音のテストが始まった。車内アナウンスで流れた音に対して『いま何の音だった?』とか、『いまジャーンと鳴ったけど、そのあと、どの音に解決したい?』とか」
沼津に着いたふたりは海岸へ向かった。眼前には広大な海。そこで日野が「ちょっと一緒に吹こう」と持ちかけた。海に向かってトランペットを吹きながら、三宅はあることに気づく。
「僕の音は海の方に吸収されて、自分にはほとんど返ってこない。ところが日野さんの音はなぜか、ふくよかに周囲に響くんですね。音の出方が僕とはまったく違う。そういうことを解らせるために、わざわざこんな機会を設けてくれたんだ…と悟りました」
続けて両者は、交互にソロを執り合うなど、テストの難度は上がっていく。
「奏法もいっぱい直されて、厳しいことをいろいろ言われました。僕は『いよいよダメか…』と落胆しつつも、その日はご自宅へ泊めてもらうことになって」
そんなこともあるだろう、と三宅は前日、母親へ宛てた置き手紙に「もしも明日帰宅しなかったら」と日野宅の電話番号を添えておいた。
「心配した母親が、どことも知らず電話をかけてきました。電話に出た日野さんは母にこう言いました。『お宅の息子さんはアメリカに行くことが決まりました』と」
横で聞いていた三宅は仰天。これから一体何が起きるのかもわからず、ただ当惑した。が、いまこの瞬間、自分が運命の岐路に立っていることは朧げに感じたという。こうして日野のサポートも受け、米バークリー音楽院への入学許可を得る。
じつは三宅に出会った段階で日野皓正はニューヨークに活動拠点を移すことを決めていて、1年先行して渡米した。翌年三宅がニューヨーク到着にすると、バークリーの授業が始まるまでの2か月間、三宅を自宅に住まわせて、日野の活動の現場に連れ回した。学校が始まってからも三宅はニューヨークの日野を頻繁に訪れたという。師弟の蜜月度が窺える。
「バークリー在学中に使っていた楽器は、オールズ(Olds)というブランドのトランペットでした。これは渡米する少し前にお世話になった小俣尚也さん(※1)というトランペット奏者に譲って頂いたものです。その後、日野さんに『これ使ってていいよ』と渡された楽器をメインで使ってました。じつはその “お借りした” トランペットは今も僕の手元にあります」
※1:白木秀雄クインテットのメンバーとして活躍したほか、小俣尚也とドライビングメン、小俣尚也と東芝オールスターズなどの名義で作品を残す。
そのトランペットはゲッツェン(Getzen)社製の「セバリンセン(Severinsen)モデル」で、日野皓正のアルバム『ベルリン・ジャズ・フェスティバルの日野皓正』のジャケット写真にも写っている、彫刻入りゴールドプレートの名器だ。日野から託された時には、金属製のピストンバルブが過剰な使用によって激しく磨耗していて、三宅は驚愕したという。
のちに三宅はフリューゲルホルンを愛用することになるが、これもきっかけは “日野の貸与品” だったという。
「バークリーに入って2年目だから、20歳の時です。ニューヨークの日野さんの家に行ったらフリューゲルが置いてあって。それはヤマハのフリューゲル第一号試作品で、メーカーが日野さんに提供したものでした。僕が羨ましげに眺めていたら、日野さんが『吹きたいんだろ?』と貸してくれた」
これを機にフリューゲルの魅力を実感した三宅は、「絶対に手に入れなくては」と決心。そして最初に手に入れたのが、これなんです。と指差したのは、本稿の冒頭で触れた「いちばん愛用し、なおかつ最も長く使っている」というベンジであった。
「いろんなものを使ってきましたが、やはりこれが今でも一番好きな楽器ですね」
トランペッターとしての個性
小学生の頃にトランペットに魅了され、その後も求道的とも言えるほどトランペットの演奏に打ち込んだ三宅だが、じつはトランペットやフリューゲルとはまた別の楽器に、強く惹かれていた。
「サックス特有のフレージングに取り憑かれていて、サックス奏者のようなスタイルで吹きたいと思っていました。だからコルトレーンとかよくコピーしたし、スティーヴ・グロスマンやデイヴ・リーブマンなど、ハーモニーのアウトサイドを吹くサックス奏者ばかり聴いていました」
この趣向が、トランペット奏者としての三宅純の個性を生み出した。
「ハーモニーに対して角度を持ったフレーズを繰り出す。あるいはハーモニーのインとアウトがちゃんとわかって出入りできる。そういうジャズ・トランペッターって意外と少ないです。僕が知るところだと、エディ・ヘンダーソンやウディ・ショウ、フレディ・ハバードとか、日野さんとか…。そもそもトランペットという楽器自体、そういう役割を担うことがあまりないのだと思いますが、自分としてはそこをもっと追求したいと思いました」
若き日の三宅のプレイを耳にした同業者の中には、そのユニークなアプローチに気づく者もいた。
「バークリーから帰った時に、佐藤允彦さんや鈴木良雄さんはそこを察知して『普通のラッパを聴いて育っていないね』といった感想を語ってくださいました」
そうした “演奏家としての個性” をまといながら、一方で三宅はトランペット(やフリューゲル)の演奏に固執する窮屈さも感じていた。
「自分は “ラッパ吹き” ではあるけれど、ライブなどで『全曲にトランペットって要らないよな…』とも感じていました。あと、トランペッターって意外と暇だな…と思うこともあった。たとえばトランペットがメロディーを吹いて、サックス、ピアノ、ベース、ドラムがそれぞれソロやって…という流れの中で、待ちの時間が結構あるわけです。だったら、トータルにサウンドに関わった方が楽しいだろうな、という思いはずっと持っていました」
現在の三宅はまさに “トータルにサウンドに関わる” 音楽家として活躍しているわけだが、その契機が訪れたのは帰国後。1980年代の好景気のなか、CM音楽の制作に携わることになる。
当時の潤沢な制作費もさることながら、創造的な広告制作の現場が、三宅にハイブリッドな音楽を生み出す機会を与え、同時に三宅自身も鋭敏な感覚を培っていった。
「帰国してもできることはラッパ吹くことだけなのだろうか?…と案じていましたが、たまたまCM音楽を制作する機会を頂いて。そこで作曲の喜びも覚えたし、創作に対する考え方も変化しました。楽曲の中でトランペットを活かせるならもちろん使いますけど、必ずしも自分で吹かなくてもいい、そう考えるようになった」
プレイヤーとしての自分を解体し、ジャズの定型からも解放し、音楽家としての自己を再構築していった様子が見てとれる。が、それでも本人は「自分はただずっとジャズをやっているだけ」と語る。
「僕はジャズの語法とか様式に魅力を感じていたのではなく、そのクリエイティビティーとキャパシティーが好きだったんですね。たとえば日進月歩でありえない組み合わせのものが出てきたり、昨日まで当たり前だったことがガラリと変わっても受け入れる。そういった “新しい創造の受け皿としてのジャズ ” が好きでした。そういう意味では、僕はただずっとジャズをやり続けているのだと思います」
ジャズの「様式」ではなく「異種交配」に惹かれた。と語るとおり、三宅は一貫して自身の持つジャズ的なマインドやスピリッツで創作に臨んできた。その音楽が「ジャズ」にカテゴライズされるか否かについては、本人にとって “どうでもいいこと” なのかもしれない。
これまで長くパリを本拠に活動してきた三宅だが、今年、新たな創作の場をニューヨークに構え、東京との二拠点生活をスタートさせる。この取材現場に並べられた楽器の一部も、先日パリから届き、束の間の東京滞在中にこうして撮影が叶った。
三宅の新章とともに、ふたたびニューヨークへ送られるこの楽器たちに、これからどんなドラマが待ち受けているのか。
撮影/加藤雄太