投稿日 : 2025.02.07

【証言で綴る日本のジャズ】大野俊三|渡米して50年─「今でも “早く帰って練習しなくちゃ” っていう気持ちになります」

ザ・ジャズ・メッセンジャーズのメンバーに抜擢

──渡米して最初に入ったのがザ・ジャズ・メッセンジャーズ?

メッセンジャーズに参加したのは8月で、着いてすぐに加わったのが川崎燎のグループ。ブレイキーさんは48丁目のエイス・アヴェニュー(八番街)に住んでいたんです。あのころはアツコさんという日本の方と結婚していて。彼のおうちに行ったら、アツコさんが玄関に出てくれて。「トイレに入っているんでしばらく待ってくれませんか?」。しばらく待っても出てこない(笑)。15分か20分くらい。やっと出てきて、ぼくがカウチに座って、アート・ブレイキーが向こう。でも、なにも話さないんです。不思議な雰囲気でした(笑)。

──そのときのメンバーは?

ぼくが入ったときは、ジョージ・アダムス(ts)、ドン・プーレン(p)、スタッフォード・ジェームス(b)、それにぼくとアート・ブレイキー。最初の仕事が「トップ・オブ・ザ・ゲイト」(ニューヨークにあった有名クラブ)。

──トップ中のトップのグループに入った気分とか武者震いとかはありました?

いや、できることをひたすらやってたという、それだけですね。

──バンドにはすぐに馴染めました?

馴染んだ、馴染まないというか、そういうこと、ぜんぜん考えたことないです。ただその場を一生懸命にやっていたというか、ベストを尽くして。

──ヴィザはどうしたんですか?

アート・ブレイキーは海外にいろいろ演奏旅行に行くじゃないですか。ぼくのは3か月の観光ヴィザ。日本を出る前、「6か月ぐらいはいたいんですけど」と旅行会社のひとにいったら、「JFKでそういえばすぐに判を押してくれるから大丈夫」といわれて。

JFKに行ったら、ぜんぜん判なんか押してくれない。峰さんに話したところ、「ヴィザの申請をしなくてはいけない」。申請したらイミグレーション(出入国管理局)から返事が来て、「延長できないから3か月で帰れ」。

「峰さん、これ3か月で帰れとなっているけど、どうしたらいいですか?」「そうだな、村上寛(ds)とか笠井紀美子(vo)とか、みんな英語学校に行って、スチューデント・ヴィザを出してもらってる。俊三もそれやったらいいよ」。

寛さんか笠井紀美子か、誰に紹介してもらったかわからないけれど、51丁目のパーク・アヴェニューにあった英語学校に申し込みに行って、スチューデント・ヴィザをアプライして。そうしたらまた返事が来て、「日本にもいい英語学校がいっぱいあるから、3か月で帰れ」。また峰さんに相談したら、「グリーン・カードを取るしかないかなぁ」。

こっちに来るときに貞夫さんに紹介していただいた「ミタ・レストラン」のことを思い出したんです。貞夫さんがよく知っているジャパニーズ・レストランで、「なにかあったら彼に相談したらいい」。それで「ミタ・レストラン」の和田さんから紹介していただいた弁護士のところに行ったら、「2回もノーといわれたら、これはちょっと難しいですね」と。それでこれもダメ。

同じころ、別のひとからチャールズ・ゴールドスミスというイミグレーション専門の弁護士を紹介してもらい、今度はそこに行く。「ともかく推薦状がいる」となって、アート・ブレイキーとか、「ヴィレッジ・ヴァンガード」でメル・ルイス(ds)やサド・ジョーンズ(cor)に推薦状を書いてもらいました。アート・ブレイキーも朝から弁護士のところについて来てくれて、保証人になってくれた。それでもダメでした。

そのうちアート・ブレイキーのところを辞めて、今度はノーマン・コナーズのバンドで仕事を始めるようになったんです(76年)。ノーマン・コナーズから「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・ヨーロッパに行こう」といわれて、「チャンスなので、ぜひ行きたいなぁ」と。それで結局、観光ヴィザのままツアーに出ました。

ツアーの最後がスペイン。弁護士の指示で、「スペインに着いたらすぐアメリカ大使館に行け。そこにサインオフする書類を送るから。その書類を持ってアメリカに入国できるようにしておく」。着いて書類を取りに行ったら、「そんなの来てない」。チャールズに電話して、「来てないけど、どうなってるんだ」「あと一週間いろ」「スペインが終わったらすぐにパリ経由でニューヨークに帰って、そのままデトロイトに行く仕事がある」。パリの飛行場でもう一回チャールズに電話して、「書類を持って、JFKに必ず迎えに来てくれ」。

そんなやりとりをして、アメリカに戻ったんです。ところが着いたらいない。入管でパスポートは没収されたけれど、入国はさせてくれました。そのあともパスポートがなくて、ぼくはブラックリストに載ったまま。それでもなんとかやっていました。

そんな感じでヴィザがずうっと滞っていて。一度はノーマン・コナーズの知っている女の子と偽装結婚の話まで出たけれど、「それはいやだ」。それでノーマン・コナーズのバンドでボストンに行ったときに、いまのカミさんと出会ったんです。その後に彼女と結婚して、ヴィザの申請をして、グリーンカードがもらえたということですね。

──それまでロイヤーとやっていたことはなんにもならなかった。

ぜんぜん。書類も送っていないのに、あとでお金の請求は来るし。ほんとにとんでもない弁護士でした。

──これ、ヴィザに関してはよくある話かもしれないですね。ザ・ジャズ・メッセンジャーズにはどのくらいいたんですか?

外国に行けないしっていうことで数か月です。

──ザ・ジャズ・メッセンジャーズでチンさんと共演したことは?

ありました。よく覚えているのは、シカゴに行ったときに同じ部屋で。チンさんがベッドの間にあるナイト・テーブルのランプを持ち上げたら、その下に40ドルぐらいのお金があって。「チンさん、それぼくにも少しはくれないの?」なんて(笑)。

人気バンド、ダンス・オブ・マジックに参加

──そのあとがノーマン・コナーズのダンス・オブ・マジック。有名バンドばかりですね。

アート・ブレイキーの次にロイ・ヘインズ(ds)のグループに入ったんです。そこにときどき遊びに来ていたのがノーマン・コナーズ。ニューヨークでは「ハーフ・ノート」に出たこともあります。昔、「ミケールズ」っていうクラブがありましたよね。そこでやっていたときにノーマン・コナーズがロイ・ヘインズを聴きに来て、そのときにぼくの演奏を聴いて、「ノーマンが電話してくれ」と。

彼から、「今度いついつにおまえんちに迎えに行くから」。ストレッチ・リムジンでイースト・ヴィレッジ、そのころは11丁目のセカンドとサード(アヴェニュー)の間に住んでいたんだけれど、ピンポーン。それで見たら、ものすごいリムジンじゃないですか(笑)。それがノーマン・コナーズとの最初の仕事。

──それはいつごろ?

あれは『ユー・アー・マイ・スターシップ』(ブッダ)が出たときだから76年。

──そのシングル盤のB面が大野さん作曲の〈バブルス〉。

このレコードが100万枚売れてゴールド・ディスクになりました。アルバムも全米ジャズ・チャートの2位になり、おかげでぼくも有名になりました。

──当時、ノーマン・コナーズは大スターでした。

大スターですね。ノーマン・コナーズのバンドは待遇がよかったです。ツアーに出ると、毎週給料をくれる。それもいい給料を。

──会場も大きなところで。

ジャズ・クラブじゃなくてアリーナとか。共演するのがコモドアーズやクール&ザ・ギャング。ああいうビッグ・ネームと一緒。

──ジャズというよりソウルとかそっちのジャンルのグループということで。

そうですね。あとはドナルド・バード(tp)のブラックバーズともやりました。

──そういうバンドに入りつつ、いわゆるジャズのギグもやっていたんですか?

たまにやっていたんじゃないかと思うけど、それほど自分の中で記憶はないです。ノーマンのバンドは1枚アルバムを出すとずうっとツアーなんです。それが終わると次のアルバム、それでまたツアー。最初のころはカーター・ジェファーソン(sax)がいて、一緒に回ってました。

──カーター・ジェファーソンとは個人的にもやっていたでしょ。

NHKでアート・ブレイキーとやったときのサックスがカーター・ジェファーソンでした。それで友だちになって、ニューヨークに行ってからコンタクトを取って。

──ノーマン・コナーズのところにはどのくらいいたんですか?

はっきり覚えてないけれど、アルバムでいうと『ユー・アー・マイ・スターシップ』と『ジス・イズ・ユア・ライフ』(アリスタ)をやって、3枚目の『ロマンティック・ジャーニー』(ブッダ)まで、2年ちょっといたんじゃないかな?

──そのころにイースト・ウィンドから『サムシングズ・カミング』(注10)と『バブルス』(注11)を出される。

伊藤潔さんと伊藤八十八さんのプロデュースで。

注10:メンバー=大野俊三(tp)、レジー・ルーカス(g)、セドリック・ロウソン(elp, clavinet, org)、菊地雅章(org)、ドン・ペイト(elb)、ロイ・ヘインズ(ds) 75年2月20日、21日、3月6日 ニューヨークで録音

注11:メンバー=大野俊三(tp, melodica, syn)、レジー・ルーカス(g)、ドナルド・ブロケット・ジュニア(clavinet, p)、サム・ジョンソン(elp, org, p, syn)、ロイ・ヘインズ(ds)、ニール・クラーク(per) 75年7月13日、15日 ニューヨークで録音

──プーさん(ピアノの菊地雅章)も絡んでいましたね。

プーさんには『サムシングズ・カミング』のときに、1曲だけ〈アイ・リメンバー・ザット・イット・ハプンド〉でオルガンを弾いてもらいました。「プーさん、これ、オルガンでやってもらえませんか?」「あんな電気楽器みたいなもの、オレはできない」っていわれて。そのあと電気ばっかりやるのにね(笑)。「いや、そんなこといわないでやってくださいよ」。それで一生懸命勉強してきてくれたんです。レコーディングは、ぼくとふたりのデュエット。ハモンドのB3を弾いて、すごいオーケストレーションでした。

──あのレコードはエレクトリック・サウンド。そのころはノーマン・コナーズのバンドでもエレクトリック・サウンドで。

ノーマン・コナーズのバンドではリヴァーブとかディレイとかワウワウを使って、エレクトリック・サウンドでやってました。

──やはりマイルスに通じるサウンド。

そうです。あのころのバンドには、マイケル・ヘンダーソン(elb)、フィリス・ハイマン(vo)、ゲイリー・バーツ(as)とかがいて、すごくよかったです。

──ノーマン・コナーズの音楽自体がマイルスをもう少しソウルっぽくした感じ。

それがひと通り終わって、次にファラオ・サンダース(ts)みたいな音楽になって。ノーマン・コナーズはファラオ・サンダースが大好きで、ああいう系統の音楽をやってました。

──このころになると、大野さんは日本に帰る気はまったくなかった?

帰ることは頭の中になかったです。結婚もしていたし、なんとなく流れの中で生活をしていたというか。

本格的に自身の音楽をクリエイト

──そのあと、自分のグループで本格的な活動を始める。ぼくは82年から83年にかけてセヴンス・アヴェニュー・サウスで大野さんが結成していたクォーター・ムーンを何度か観ています。

結成したのは81年か82年ですかね。レコーディング(注12)と連動して、自分のバンドを作ろうと。あのころ友だちだった、マーカス・ミラー(elb)、ケニー・カークランド(key)、ヴィクター・ルイス(ds)とかね、彼らに参加してもらって。T.M. スティーヴンスっていうベースもいて。

注12:『クォーター・ムーン』(エレクトリック・バード) メンバー=大野俊三(tp, syn)、カーター・ジェファーソン(sax)、ジェフ・レイトン(g)、オナジェ・アラン・ガムス(elp, p, clavinet, syn)、ケニー・カークランド(elp, p, syn)、T.M. スティーヴンス(elb, g)、マーカス・ミラー(elb)、ヴィクター・ルイス(ds)、スー・エヴァンス(per)、ユランダ・マクロウ(cho)、ヴィヴィアン・チェリー(cho)、イヴォンヌ・ルイス(cho) 79年5月20日〜29日 ニューヨークで録音

T.M.スティーヴンスが2、3曲どうしても雰囲気に合わないので、それらの曲ではマーカスに入ってもらいました。ノーマンのバンドが「エイヴリー・フィッシャー・ホール」でコンサートをやったときのベースがマーカスだったんです。帰りにイースト・ヴィレッジのアパートまで彼が車に乗せてくれて、仲よくなりました。だからマーカスに頼んで、という形ですね。

レコーディングは8丁目の「エレクトリック・レディ」(注13)というスタジオ。録音しているときに、ケニーがトイレで「これ、誰にもいっちゃいけないよ」といって、「この前、マーカスがマイルスから電話をもらって。たぶんマイルスとやることになる」という話をしてくれたのを覚えています。

注13:Electric Lady Studios(52 West 8th Street, NYC)。70年にジミ・ヘンドリックスが建て、ヘンドリックスはこのスタジオに10週間しか入らなかったが、以降、多くの著名アーティストがここを使用。

──大野さんにとって、マイルスはずうっとアイドルというか目標というか、そういう存在?

そうですね。やっぱりあのひとはすごい。着る服を変えるとかはするけど、本質はなにも変わっていない。

──大野さんがアメリカに行って、しばらくしてマイルスは活動を休止する。75年の終わりから81年まで空白期間があった。それで、マーカス・ミラーなんかを入れたバンドで復活するじゃないですか。活動休止の期間があって、シーンに戻ってきた。そのときに感じたものってありますか?

マイルス・バンドのメンバーでは、ノーマンとやっていたときにアル・フォスター(ds)(注14)やレジー・ルーカス(g)(注15)がよく遊びに来て。セドリック・ロウソン(key)(注16)はロイ・ヘインズのところで一緒だったけれど、イースト・ウィンドのアルバムでも、レジー・ルーカスとセドリック・ロウソンに入ってもらって。

注14:アル・フォスター(ds 1943年~)72年ジャック・デジョネット(ds)の後任としてマイルス・バンドに参加。マイルスの活動休止期間を挟み、84年末まで在籍。

注15:レジー・ルーカス(g 1953~2018年)72年から75年までマイルス・バンドに在席。76年から数年間エムトゥーメ(congas, per)とロバータ・フラック(vo)のバンドに参加。83年マドンナ(vo)のデビュー作『バーニング・アップ』(サイアー)の大半をプロデュース。

注16:セドリック・ロウソン(org, syn, key)72年マイルスが録音した〈レイテッドX〉と『マイルス・デイヴィス・イン・コンサート』(コロムビア)に参加。

マイルスがやらなくなってからも、ノーマンのところにみんな遊びに来てて、それでアル・フォスターが「今度マイルスのアパートに行くけど、オレに聞いてほしいことあるか?」なんていわれたこともありました。

事故と大病を乗り越えて

──そうやって、最初のうちは有名バンドに入って、その後に自分のグループを活動のメインにする。その間にもハービー・ハンコック(p, key)なんかとのセッションがあり、現在にいたる。大野さんはけがと病気、すごいものを二回経験されて。最初は交通事故?

88年に交通事故に巻き込まれ、前歯を折って、唇も切りました。

──トランぺッターとしては命取りになるような怪我でしたが、それを乗り越え、バスター・ウィリアムス(b)のクインテットで活動を再開する。

そのときはギル・エヴァンスのバンドで毎週月曜の「スウィート・ベイジル」に出ていたんです。そのあと、ギルが亡くなっちゃいましたから(88年3月20日に死去)、その週の月曜が最後になっちゃった。

──ギルのオーケストラではレコーディングにも参加されて、それが「グラミー賞」を獲ります。

84年に録音した『バド・アンド・バード/ギル・エヴァンス&マンデイ・ナイト・オーケストラ・ライヴ・アット・スウィート・ベイジル』(エレクトリック・バード)(注17)です。

注17:メンバー=ギル・エヴァンス(p, elp, arr, con)、ジョージ・アダムス(ts)、クリス・ハンター(as)、ハワード・ジョンソン(tuba, bcl, bs)、マイルス・エヴァンス(tp)、大野俊三(tp)、ハンニヴァル・マーヴィン・ピーターソン(tp)、ルー・ソロフ(tp)、トム・マローン(tb)、ハイラム・ブロック(g)、ピート・レヴィン(syn)、マーク・イーガン(elb)、アダム・ナスバウム(ds)、ミノ・シネル(per) 1984年8月20日、27日 ニューヨーク「スウィート・ベイジル」で実況録音。同日録音の『Vol.2』もある。

──「グラミー賞」(受賞は89年)はこのときが二度目。

はい。最初は『マチート&ヒズ・サルサ・ビッグ・バンド 1982』(タイムレス)(注18)で。

注18:メンバー=マチート(per)、ケン・ヒッチコック(ts)、エド・コヴィ(as)、マーク・フリードマン(as)、ピート・ミランダ(bs)、アルフレード・アルメンテロス(tp)、ジェフ・デイヴィス(tp)、大野俊三(tp)、トニー・コフレージ(tp)、ウィリアム・ロドリゲス(p)、ネルソン・ゴンザレス(b)、レイ・ロメロ(bongos)、T.C. ラモス(congas)、マリオ・グリロ(timbales)、ポーラ・グリロ(vo) 1982年オランダで実況録音

──マチートはハバナ出身のパーカッション奏者。大野さんはツアー・メンバーだった。

81年12月に、マチートに「1月からヨーロッパのツアーに行くから参加してくれ」といわれて、入りました。そのときにオランダのハーグでそのアルバムをライヴ録音しました。それが83年に「グラミー賞」を受賞したんです。

──その後に大けがをしたけれど、ミュージシャンとして復活して、今度は……

95年の11月に扁桃がんがわかるんです。放射線治療をぜんぶで38回やって。右側の頬から顎、肩にかけての筋肉組織が手術でえぐり取られちゃった。今回も、日本に来る10日くらい前から頬とか歯茎とかがすごく腫れてきて、痛くて、トランペットも吹けない。空気が洩れちゃうし。「なんなんだろう、これ?」。

それで医者のところに2回ほど行って、「これは前に治療したときの放射線がいまになって放散してきていて、その放散している放射線が歯茎とかに影響をおよぼして、腫れている」といわれて。「メモリアル・スローン・ケタリングがんセンター」というがん専門の病院で治療を受けたから、そこでもう一度診てもらって、抗生物質を、ワン・クールが7回なんですけど、それ効かなくて、もうワン・クールやってきました。それでなんとか収まったんですけどね。

だけど1週間くらい前からまた症状が出てきた。抗生物質を2クールぶんくらい予備にもらってきていたんで、それでなんとか腫れが引いてきたところです。

──そうすると、吹くのがたいへんそうですね。

ほんと、たいへん。でもやるしかないから。なんとかこなしているというか、こなすしかないものね。

──見る限りではお元気そう。

気持ちだけは元気です。

──アメリカに50年くらい。

48年ですね。

──ニューヨークに住んで。ミュージシャンはもちろんですけど、普通に生活するだけでもたいへんだと思うけれど。そういう街に半世紀近く住んで、活動されてきた。

さっき「日本に帰る気持ちはなかったか?」といわれましたけど、『クォーター・ムーン』を出したときに日本でツアーしたんです。そうすると、環境がすごく楽なんです。ニューヨークにいるとトップ・クラスのうまいひとがいっぱいいるじゃないですか。最近は、日本でもそうだけれど。誰かを聴きにいくと、「ああ、やばいなぁ。早くうちに帰って練習しなくちゃ」っていう気持ちになるというか、ならざるをえない。

日本にいると「いいね、いいね」っていわれるし、すごく楽なんです。それで、そのときの1、2週間ですけど、「日本に帰ったほうがいいかな?」なんて思っていたんですよ。でも、友人が「まだ30歳前半だし、いま日本に帰ってきたら必ず悔いが残ると思うよ」といって。「あと数年頑張って、それから考えたほうがいい」。いわれてみればそうだねと。で、いまにいたっている。そのころは、いまでもニューヨークはそうだけど、どこに聴きに行っても、「やばいな、練習しなきゃ」って気持ちになりますね。

名古屋の「ジャズ・イン・ラブリー」の40周年記念(70年創業)で貞夫さんのグループにゲスト参加したことがあるんです。ちょうどその前に、貞夫さんがニューヨークの「ジャズ・アット・リンカーン・センター」でやったんで、ちょっと会いに行ったんです。

あそこは若いミュージシャンのバンドが深夜にやる。楽器を片しながら貞夫さんがそれを聴いて、「あれで普通なのか?」「だいたいこんなもんじゃないですか」っていったら、「やばいなぁ、ちょっと帰って練習しなきゃなぁ」って。

──そういう気になる街なんでしょうね。厳しいけれど、創造的なミュージシャンにとってはそこにいることが刺激になる。

そうですね。

──振り返ってみると、ニューヨークにいて、住んで、よかったですか?

やっぱりよかったと思います。いい環境というか、教えてもらえるひとがいっぱいいるし。

──いまだに勉強ですか?

一生というか。いまになって、自分がこんなに知らないのかって思います。ぜんぜん吹けないし。ボビー・シュー(tp)が好きだったんです。ボビー・シューには、昔、ときどき習いに行って。この(手元のトランペットを指して)ヤマハのトランペット、これもボビー・シューのモデル。彼はなんでもできるひとで、今回も来る前に「これ、埒が明かないし、どうしたらいいんだろう? 空気も洩れてきちゃうし、どうしたらいいかわからない」。それでボビーに電話して、Zoomで「なら、これとこれ、こういうことをやったらいいんじゃない?」といわれて、それを忠実にやっています。

──いまだに練習とかトライをしているんですね。そういう大野さんもすごい。いまはどちらにお住まいですか?

ウエストチェスター(注19)に住んでます。

注19:ニューヨーク州ニューヨーク市の北郊外にある郡のひとつで、マンハッタンのベッドタウンとして知られる。

──環境もいいでしょう。

そうですね。練習も24時間できるし。

──これからやりたいことは?

ここ2、3年、大きな曲を書こうと思って、書き始めたらどんどんスケールが大きくなって、シンフォニーになっちゃった。4楽章のうち92パーセントまで出来上がっているんです。

娘がクラシックのチェロをやってるんです。それでぼくもクラシックの影響を受けるようになったし、チェロのことも少しわかるようになってきた。娘はストリング・カルテットを持ってるんです。それと、ぼくのジャズのクインテットと一緒に、こちらに来る前に「ジョーズ・パブ」と「ザ・カッティング・ルーム」(注20)でやってきました。

注20:どちらもマンハッタンにある、比較的先進的・創造的な音楽をブッキングしているクラブ。

曲は四楽章の中から。モチーフがいろいろあるので、それを持ち出して2時間分、5、6曲作って。それが「新しい音楽」ということで、いい批評を頂いて。そういう路線もいいなぁと。

スタンダード・ジャズもやるけど、それほど曲をいっぱい知っているわけじゃない。いわゆるビバップも、ほんとにやってやってやりまくらないと絶対にできないものだし。だから、開き直ってでも自分は自分のできる路線で。いまは自分のジャズ・クインテットとストリング・カルテットで、まあ自分の聴こえる音の範囲の中で音楽を作ってやってます。

──それで、いずれシンフォニーを完成させる。

来年にはシンフォニーを完成させて、どこかでメジャーなシンフォニーと、まあどこでもいいけど、できたらいいなぁという感じです。

──そのシンフォニーの完成を楽しみにして、今日のインタヴューは終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。久々に大野さんとお会いできて嬉しかったです。

ニューヨークか東京か、それともどこか別の場所でまたお会いできたらいいです。こちらこそどうもありがとうございました。

取材・文/小川隆夫

2022.11.24 Interview with 大野俊三@ 新宿「新宿ダイカンプラザ A館412号室」

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