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【証言で綴る日本のジャズ】大野俊三|渡米して50年─「今でも “早く帰って練習しなくちゃ” っていう気持ちになります」

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはトランペット奏者の大野俊三。10代でプロ活動を開始し、1974年に渡米。以来、現在に至るまでニューヨークを拠点に音楽活動を続ける巨匠は、いまも向上心に満ちていた。

大野俊三
おおの しゅんぞう/トランペット奏者。1949年3月22日、岐阜県岐阜市生まれ。中学のブラスバンド部でユーフォニアムを吹き始め、トロンボーンを経て、高校二年からトランペットに転向。高校時代に地元のキャバレーで演奏活動を開始し、卒業後、名古屋でプロ入り。19歳で東京に進出。猪俣猛(ds)のサウンド・リミテッドやザ・サード、稲垣次郎(ts)のソウル・メディアなどで評判を呼び、71年、ジョージ大塚(ds)クインテットに参加。翌年、初リーダー作『フォルター・アウト』録音(発売は73年)。74年、アート・ブレイキー(ds)の誘いで渡米。以後、現在までニューヨーク在住。76年には人気絶頂だったノーマン・コナーズ(ds)のダンス・オブ・マジックに参加。70年代末からは自身のグループを中心に活躍。83年からギル・エヴァンス・オーケストラに参加。起用された『マチート&ヒズ・サルサ・ビッグ・バンド 1982』と『バド・アンド・バード/ギル・エヴァンス&マンデイ・ナイト・オーケストラ・ライヴ・アット・スウィート・ベイジル』が「グラミー賞」獲得。88年には交通事故、96年にはステージ4の扁桃がん手術を経験。その都度不屈の精神で復活し、現在にいたる。

最初の楽器はユーフォニアム

──出身地と生年月日を教えてください。

出身地は岐阜県岐阜市。生年月日は1949年3月22日。

──子供のころに聴いた音楽でパッと思いつくのはどんな曲?

マントヴァーニ・オーケストラ。中学生から高校生にかけてのころです。うちは食べ物屋さんをやっていて、出前のミニバンがあるんです。その中に入って、ときどきラジオをつけて。そういう中に『日立ミュージック・イン・ハイフォニック』(注1)という番組があって、それでマントヴァーニ・オーケストラを聴いて、「なんかいいなぁ」と。これが最初に聴いた西洋の音楽。

中学校に入って、トランペットをやりたかったんだけど、席が空いてない。

注1:ニッポン放送で63年5月21日から86年4月4日まで放送されていた音楽番組。番組中はトークを挟まず、決められたテーマや「Billboard Hot 100」の年間ヒット曲、当時人気があったアーティストなどが選曲したセットリストを流し続ける構成。

──中学のブラスバンド部で?

はい。それで最初はユーフォニアム。それからトロンボーンに変わって、そのまま高校に。まだトランペットの席が空いてなくて、高校二年になったときに、三年生が出ていったのでやっとトランペットが空いて(笑)。なので、高校二年からトランペットを始めました。

──楽器をやりたいと思った理由は?

ぼくらが小学生のころは文部省推薦の映画を年に1回とか2回とか、学校で映画館に観に行ってたんですね。『宮本武蔵』とか『ベン・ハー』とかいろんなものがありまして、中のひとつに『トランペット少年』(注2)という映画があったんです。どこの配給かそこまでは覚えていませんけど、少年が山奥でトランペットを吹いてる映画。それを観て、「トランペットっていいなぁ」と。

注2:55年公開の日本映画。原作=田中研、監督=関川秀雄、音楽=草川啓、主演=内藤武敏

それで中学校に入ったときに、入部の勧誘で「ブラスバンドに入れ」といわれて、ブラスバンドの部室に行ったら、トランペットが空いていない。「トランペットができないなら別にやりたくないや」と思って、バスケットボール部と水泳部に入って。ところが足を痛めてしまってなんだかんだがあったんですけど、ブラスバンド部にやむなくというか。どこにも行くところがないしというんで入ったら、ユーフォニアムが空いていて。「それなら、これでもいいか」ということで入部したんです。

──そのあとがトロンボーン。これはいつから?

中学の二、三年あたりで変わったのかな? トロンボーンを始めたころに観たのが『グレン・ミラー物語』(注3)という映画。高校に入ってから観たかもしれません。それにすごく感動して、「ジャズっていいなぁ」。あの中にルイ・アームストロング(tp, vo)とかベニー・グッドマン(cl)とか、たくさんのミュージシャンが出てくるんです。これでジャズに興味を持ちました。

注3:グレン・ミラー(tb)の半生を、アンソニー・マンが監督、ジェームズ・ステュアートとジューン・アリソンが主演で描いた54年のアメリカ映画。

──この映画がジャズはいいなぁと思ったほぼ……

最初ですね。自分でもトロンボーンを吹いていたし。『グレン・ミラー物語』は6、7回観ました。

──このままトロンボーンで行こうとは思わなかった?

中学のときにけっこうトロンボーンで優秀になって、いくつかの高校から誘われたというか。で、ひとついい学校があったんです。そこは授業料もいらないし。けれど、両親がすごく反対して。うちは商売をやっているから、岐阜商業高校に入ってトロンボーンを続けていました。

──トロンボーン・プレイヤーとして優秀だった。

中学生とか高校生の中では優秀だったんじゃないですか?

トランぺッター大野俊三の誕生

──だけど、高校二年でトランペットに転向。ようやく念願の楽器になった。

嬉しかったですね。

──それまで、部にあるトランペットを吹くことはしていなかった?

中学校のころですが、部室に楽器がいっぱいあるから、たまに遊びで、みたいなことはやっていました。

──トランペットに変わった時点で少しは吹けるようになっていた?

中学校のブラスバンド部の顧問の先生がすごくうまいトランペッターだったんです。その先生がときどき見てくれて、吹いていました。

──トランペットとトロンボーンはマウスピースがある楽器じゃないですか? 吹き方で苦労は?

メイナード・ファーガソンがそうだけど、トランペットとトロンボーン、どちらも完璧ですよね。ギル・エヴァンス(arr, con, p)のところで一緒にやったトム・マローン、彼もトロンボーンがメインだけど、トランペットもバリトン・サックスも吹く。ハワード・ジョンソンはチューバ奏者なのに、トランペット、サックス、なんでもできる。中にはそういうひともいますが、ぼくはトランペットで精いっぱいです。

──でも、トロンボーンからトランペットに変わったときに、吹き方にそれほど違和感はなかった?

あまり考えたことないです。ただもう嬉しくて、吹いていただけ。

──中学・高校のブラスバンドではジャズっぽい曲もやったんですか?

中学校のブラスバンドって序曲とかマーチとかが大半で、「こんなのばっかりやってもいやだなぁ」と思っていたんです。そんなときに『グレン・ミラー物語』を観て、ジャズがすごく好きになった。それでレコード屋さんに行って、いろいろ聴いて。そこからハリー・ジェームス(tp)が好きになりました。ハリー・ジェームスの〈チリビリビン〉なんか、ビッグ・バンドのぜんぶのセクションを覚えちゃって、ひとりでやってました(笑)。

──それが中学から高校にかけて。そうやって、ジャズを本格的にやりたいと思っていく?

高校時代にブラスバンドでマーチとか序曲とかばっかりやっていて、それが嫌になって、聴き覚えで、自分でブラスバンド用に〈聖者の行進〉とか、みんなが知ってるいろんな曲をアレンジしたんです。アニマルズの〈朝日のあたる家〉なんかも「すごくいいなぁ」と思って、ブラスバンド用に書いて。それで岐阜県のブラスバンドの発表会で、うちはぼくが編曲したそういうのをやったんです。審査員のひとに、「君たち、こういう楽譜はどこで手に入れるんだい?」「いや、ぜんぶ大野君が書いてます」(笑)。「そうか」っていう感じで。そのころから譜面も書くようになりました。

──譜面の勉強もしていたんですか?

したことはないです。うちに足で踏むオルガンがあって、それでコードとか、音の積み重ねを書いて、自分なりにやってました。

高校時代にキャバレーでジャズを学ぶ

──中学の先生にトランペットを習ったにしても、それほど本格的な勉強はしていない。音楽をどこかできちっと勉強したわけでもない。

ジャズが好きになったので、高校のころにはジャズ喫茶に行くようになりました。印象に残っているのはマイルス・デイヴィス(tp)とギル・エヴァンスの『スケッチ・オブ・スペイン』(コロムビア)とかアート・ブレイキーとザ・ジャズ・メッセンジャーズの〈危険な関係のブルース〉。「すごいな、これ」「いいなぁ」と思いながら聴いてました。

そこにはキャバレーで演奏しているミュージシャンが昼間に来るんです。彼らもジャズがやりたい。それで「なにやってるんだ?」となって、「トランペットやってます」「それなら楽器持って遊びにおいで」。そのキャバレーがぼくにとっての音楽学校というか。

音楽の理論やアドリブなんかもそこで覚えました。Cセヴンとか、コード・ネームが書いてあるじゃないですか。「これ、なんですか?」「Cセヴンはド・ミ・ソにシのフラットだよ」。その演奏を聴いていると、そのコードの中にない音が出てくる。だけど、なんか響きがいい。「あの音、なんだろう?」ってそのひとに聞いたら、「あのね、コードの中に入ってない音なんだ」。

いまでも覚えているけど、テナー・サックスのすごくうまいひとがCセヴンのところでレの音を吹いていたんです。「なんですか、あれは?」って聞いたら、「ナインスの音だ」。「ああそうか、ナインスの音ってああいう響きがしていいな」とかね。まあそういう感じで、響きのいい音とか、いろんなことを、自分のわからないことを聞いて。そういうふうにして音楽の理論を教えてもらったんです。ですから、キャバレーのそのバンドで楽譜の読み方を覚えました。

──それが高校二年ぐらい?

二、三年のときです。キャバレーに通い詰めて。

──キャバレーのバンドですから、ジャズだけではない。

あのころはジャズがけっこう演奏できたんです。だいたいの店にはビッグバンドとコンボが入っていて、ぼくは両方でやらせてもらって。ビッグバンドでは楽譜を読むのが練習になったし、コンボではインプロヴィゼーション(即興演奏)の練習というか勉強ができました。

──高校二、三年で、けっこうジャズの理論からテクニックから、そのキャバレーのバンドで身につけていって。高校を卒業してどうしたんですか?

高校のころにジャズについてある程度のことは教えてもらって。それでアレンジとかもできるようになった。そんなときに知り合ったのがぼくの師匠になる今井田健二さん。今井田さんは昔、東京で活躍されていて、このころは名古屋に住んでいたんです。いまは亡くなられてますけど、ほんとうにすごいトランぺッター。とにかくうまかった。

その方が、ぼくの出ていたキャバレーのビッグバンドのバンドマスターと友だちだったんです。それで、ぼく出ているときにたまたま来ていらした。ぼくの演奏を聴いて、終わってから、「名前と電話番号をメモしなさい」。

それがきっかけで、今井田さんに紹介されて名古屋の「ミカド」というキャバレーで演奏するようになりました。今井田さんがそこのバンドにいたんで、入れていただいて。でも、今井田さんはほかの店に引っ張られて。

ぼくはしばらくといってもそれほどでもないですけど、そのまま残りました。昔はあまり性格がよくなかったものですから(笑)、あるときバンマスになにかいわれて、ちょっと頭に来ちゃって、ステージの途中で楽器を片して帰っちゃった(笑)。そうしたら、名古屋は狭いところで、「とんでもない若いやつがいる」となって。それでぜんぜん仕事が来なくなった。でも今井田さんが可愛がってくれて。

名古屋に「グランド・キャニオン」というお店があって、そこにもビッグバンドとコンボが入っていたんです。今井田さんが出ていたので遊びに行ったら、「今度ここでバンドを作るから、お前も入れ」といわれて、その店でしばらく仕事をして。そうこうしているうちに、「そろそろ東京に行くか?」といわれて、「行けるなら行きたいです」。

今井田さんが東京でお世話になった師匠が恩田二郎(tp)さん。日野(皓正)(tp)さんの先生とも知り合いだったようです。日野さんがそう仰っていました。恩田さんは海老原啓一郎(as)さんのロブスターズにいて、赤坂にあった「ニューラテンクォーター」に出ていた。

今井田さんと一緒にそこを訪ねたら、「お前を(海老原さんに)紹介するにしても、一度聴いてみないといけないし、一回目のセットだけやってみろ」。それでトランペット・セクションに入って、吹いて。

それが終わって、せっかく東京に来たんだからと、今井田さんと近くにあるいろいろなお店、「月世界」とか「ミカド」とか、赤坂にありますよねぇ。そういうところのビッグバンドにもオーディションというか、行って。それで、バンド交代のときに「ニューラテンクォーター」に戻ったら、「お前、どこに行ってたんだ? 海老原さんが使いたいっていってるから入れ」。それでロブスターズに入ったんです。

東京で大活躍

──東京に出られたのはいくつのとき?

19歳です。

──そうすると、名古屋でやっていたのは?

1年ちょっとですね。

──なし崩し的にミュージシャンになった感じ?

今井田さんのバンドでプロの世界に入れていただいて、そのあと……、そうですね。

──プロのミュージシャンになりたいと意識したのは高校時代?

その気持ちはありました。教科書も持たずに、トランペットだけ持って学校に行って。学校に行ったら教室にいないで、近くに長良川があるんで、そこで朝から晩までずっと吹いていました。先生に呼ばれて、「お前、出席日数が足りないし、これじゃ駄目だよ」「ぼくは別に科学者になるわけじゃないし、自分の行く道は決まってますから」「どうするんだ?」「トランぺッターでずっとやっていきます」「そうか、しょうがないな」なんてわけで。

──それなりにやっていける自信はあった?

自信というか、夢中でした。

──ご両親は家を継がせたかったんでしょう?

継いでほしかったでしょうね。うちは飲食店をやっていて長男でしたから、両親はぼくが継ぐものと思っていました。ミュージシャンになるってこと自体にすごく反対でした。「ミュージシャンなんて酒と女とバクチだ」なんていわれて(笑)。「いや、ぼくはそうじゃない」といったんですけど。

──ご兄弟は?

妹がふたりいます。店はすぐ下の妹が継ぎました。

──大野さんは19で東京に出て、ロブスターズに入る。基本は毎日ロブスターズ?

そうですね、毎晩やってました。

──あそこは高級店ですから、海外から有名なアーティストが来るでしょ?

ぜんぶ外国のアーティストでした。オズモンド・ブラザーズ、トリニ・ロペスとか。ああいうひとの伴奏をしたことを覚えています。恩田二郎さんはコロムビア・レコード専属のスタジオ・ミュージシャンだったんです。昼間にぼくも恩田さんと一緒にスタジオ・ミュージシャンをよくやらせてもらいました。メインは歌謡曲です。

──基本はロブスターズ。たとえばピットインとかはオープンしていましたが、そういうところで演奏は?

海老原さんが今田勝(p)さんを紹介してくださって、「ピットイン」でやっているところに遊びに行ったことがあります。猪俣猛(ds)さんも海老原さんの紹介でヤマハでお会いして。あのころ、渡辺貞夫(as)さんがヤマハでリハーサル・オーケストラをやっていて、その中に入れていただいて。

その時期に猪俣さんがサウンド・リミテッドというバンドを作って。川崎燎(g)とかが入ったブラス・ロック・バンドで、ブラッド・スウェット&ティアーズをコピーしたようなスタイル。それをしばらくやってから、猪俣さんが今度はザ・サードというオーケストラを結成します。猪俣さんもスタジオの仕事が多いし、一緒にスタジオの仕事をやって、あとはTBSテレビの『ヤング720(セヴン ツー オー)』(注4)に出たりとか。

注4:66年10月31日から71年4月3日まで毎週月〜土曜日の7:20〜8:00(のちに7:30〜8:10→7:25〜8:05)に東京放送(TBS)(土曜のみ朝日放送=ABC)制作で放送された、トークと音楽中心の若者向け情報番組。全1373回放送。

猪俣さんとやっているうちに稲垣次郎(ts)さんとも知り合って、稲垣さんのソウル・メディアでご一緒させていただいて。まあ、猪俣さんの仕事がメインですけども。あのころ、稲垣さんはマイク真木といろいろな番組をやっていたんですよね。それにも入れていただいて。

ジョージ大塚クインテットで注目される

──そのころにはロブスターズを辞められて。

ロブスターズは自然消滅というか、店がビッグバンドを雇えなくなって、解散したんです。ぼくが21ぐらいのときですかね。それまではロブスターズがメインで、合間に今田勝さん、猪俣さんのバンド、そこで川崎燎と知り合って、一緒に渋谷の「オスカー」とかでやってました。

川崎燎のバンドで山口真文(sax)さんと知り合って、このバンドでやっているときに、ジョージ大塚さんの弟子の関根英雄(ds)さんから、「ジョージさんがトラ(エキストラ=代役)を頼みたいといってる」と。そのころジョージさんのバンドにはアメリカ軍のキャンプに来ている黒人トランぺッターがいたんです。「そのひとができないっていうから、代わりに大野君、ファースト・セットだけでも来てくれ」。それで行ったんです。

「ジャンク」で最初のステージをトラでやって、ジョージさんに「ありがとうございました」っていったら、「帰らなくていい」「どうしてですか?」「今日は帰らないからと川崎さんにいっといた」。それでジョージさんのバンドに入れられちゃった。それからジョージ大塚クインテットで。

──そのときのサックスは山口さん?

いや、植松孝夫さん。ベースが水橋ゴン(孝)さんでした。

──これでジョージさんのバンドのレギュラーになって。71年の話ですよね。

そうですが、そのまま猪俣さんのバンドでもやっていました。

──ぼくが大野さんの演奏を聴くようになったのがこのころでした。ジョージさんのバンドにすごいトランぺッターが入ったと話題になって。これで二十歳を少し出たばかり。

21か22ぐらいですね。

──大野さんが影響を受けたトランぺッターは?

最初はハリー・ジェイムス。それから、リー・モーガン、マイルス・デイヴィス。キャバレーでマイルスを真似て吹いていたら、「それじゃダメだ。フレディ・ハバードみたいに吹け」といわれて、フレディ・ハバードを聴いたら、「ああ、すごいなぁ」。それでフレディ・ハバードを聴くようになって、あとはドナルド・バードとかクリフォード・ブラウン。みなさん大好きです。

──ジョージさんのところにはしばらくいました。

アメリカに来るまではね。

──そのころ(73年)に最初のアルバム『フォルター・アウト』(日本ビクター)(注5)を出します。レコーディングしたいきさつは?

注5:メンバー=大野俊三(tp, fgh)、益田幹夫(p, elp)、古野光昭(b)、倉田在秀(ds) 72年8月28日 東京で録音

あれは「ジャンク」にいつも来ていた女の子のボーイフレンドがビクターのディレクターだったんです(笑)。彼女がぼくの演奏をよく聴きに来ていて、「大野俊三、やりなさいよ」。それで録音させていただいたんです。

──このアルバムは全曲(3曲)オリジナル。曲もこのころには作っていたんですか?

ジョージさんのバンドで書くようになりました。あのバンドでいくつか演奏もしました。

──大野さんが東京で活動を始めたのが70年前後。そのころの日本のジャズ・シーンは、はたから見ていると渡辺貞夫さんが頂点で、その次に日野皓正さんとかジョージさんとかのバンドがすごい人気になって、日本のジャズがブームになった時期です。さまざまなジャズ・ミュージシャンがそれまでになくテレビに出るようになったし、フェスティヴァルもあちらこちらで開催されるようになった。その中に大野さんもいたと思いますが、ブームが来たなという実感はありました?

自分はその中にいたから、はたから見たそういう意識はまったくなかったです。

──ロックのひとたちとの共演は?

なかったですね。猪俣さんのバンドに入っていたころはブラッド・スウェット&ティアーズとかああいうロック系の音楽をやっていましたから、真ん中にロック系のギターのひとが入っていたことはありました。そういう接点はありましたけど、これといって自分から進んでロックのひとたちと演奏することはなかったです。マイルスがエレクトリックを始めたというのはレコードで知ってたけど。

──日本にいた時代も、トランペットにマイクをつけて電化していましたよね。

やってました。

──それはマイルスの影響?

マイルスの影響です。いまだにやってますけど(笑)。

──扱いは難しい?

難しくもないです。ジョージさんとの最後のアルバム、「厚生年金」(「東京厚生年金会館大ホール」)でやったライヴ・アルバム(注6)ではワウワウ・ペダルとかを使っていたんじゃないかな?

注6:『イン・コンサート!』(スリー・ブラインド・マイス)のこと。メンバー=ジョージ大塚(ds)、大野俊三(tp, fgh)、山口真文(ts, ss)、大徳俊幸(p, elp)、古野光昭(b) 73年10月11日 東京「新宿厚生年金会館大ホール」で実況録音

──音の変化やサウンドの違いを求めてということ?

そうですね。

──米軍の基地で演奏したことは?

ないです。ぼくの世代では行っていたひともいますが、ぼくはぜんぜん経験ないです。

ニューヨークに移住

──アメリカに行こうと思ったのはどうして?

行こうと思ったわけではなく、偶然の結果というか。きっかけはアート・ブレイキーとザ・ジャズ・メッセンジャーズ。彼らが73年(注7)に来日したんです。それにウディ・ショウ(tp)が入るはずだったけれど、来なかった。

注7:この年は2月から3月にかけて来日。メンバーはアート・ブレイキー(ds)、カーター・ジェファーソン(ts, ss)、シダー・ウォルトン(p)、ミッキー・ベース(b)、トニー・ウォーターズ(congas)、レイモンド・マントリア(congas)で、ツアー途中からオル・ダラ(tp)が合流。

毎週日曜の夜7時からNHKテレビで『世界の音楽』(注8)という番組があって、ザ・ジャズ・メッセンジャーズがそれに出るんです。そのときに、アート・ブレイキーが「どうしてもトランぺッターがほしい」となって、プロモーターのひとがぼくの友人のトランぺッターに「ぜひ、来てくれ」と電話したんです。

注8:68年1月10日から74年3月31日まで NHK総合テレビで放送された音楽番組。司会は立川澄人。

その友人から電話がかかってきて、「アート・ブレイキーとNHKのテレビでやるっていうけど、これちょっと、オレ、ヤバイよ」「そんな、いいチャンスだからやればいいじゃない」「いや、これはちょっとマズイ」。それでぼくが行って、終わったらアート・ブレイキーから「お前、ニューヨークに来い」。

でも、そのときは行かなかった。というのは、益田幹夫(p)とバンドを組む話が進んでいたから。彼は、あのころ日野さんのバンドでやっていたんです。その益田幹夫がしょっちゅう電話をかけてきて、「俊ちゃん、自分でそろそろなにか始めなよ」。「始めるといったって、どうするの、誰とやるの?」「オレ、一緒にやるよ」「だったらやろうか」。

そのころ渡辺貞夫さんの事務所でマネージャーをやっていた平床さんというひとがいて。彼もよく知っていたので、平床さんが「じゃあ、ぼくがスケジュール組むから」。73年の12月ごろです。

ぼくはジョージさんに、益田幹夫は日野さんに「辞めさせてください」、そういうことにして。ある日のお昼に渋谷のヤマハでジョージさんのバンドのリハーサルがあったので、「12月いっぱいで辞めさせていただきます」「どうするんだ?」「自分でちょっとやりたいと思いまして」「ああそうか、そりゃあしょうがないな」。

お互いに辞めたことを確認しようということで(笑)、「ミスティ」で益田幹夫と落ち合って。で、「ミスティ」で待っていたら、ミッキー(益田幹夫)が入ってきて、「俊ちゃん、ごめん」っていうんです。「なにをごめんだよ」「辞められないんだよ」「自分で辞めるっていったんじゃないの?」「いったんだけど……」「裏切者!」(笑)。

ミッキーとできないんだったら魅力がない。気持ちが宙に浮いていたところにアート・ブレイキーがまた来た(注9)。そのときにも「ニューヨークに来い」といわれて。「ミッキーとできないなら3か月、長くても6か月くらい行こうか」。それで、ニューヨークに行ったんです。それが74年の3月13日。

注9:74年1月から2月にかけて来日。メンバーはブレイキーのほか、カーター・ジェファーソン(ts, ss)、オル・ダラ(tp)、セドリック・ロウソン(p)、スタッフォード・ジェームス(b)。

──峰厚介(sax)さんに聞いた話ですが(本連載の12回目、大野さんからいまJFK(ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港)にいるんだけどと電話がかかってきた。

それがこのときです。ニューヨークに行くちょっと前に貞夫さんのところ、西麻布に貞夫さんのアパートがあって、そこを訪ねて、「今度ニューヨークに行きます」「ああ、そうか。お前、どこ泊まるんだ?」といわれて、「泊まるところ教えてください」。ぼくにぜんぜん計画性がないので、貞夫さんが峰さんに電話してくれたんです。「馬鹿野郎が行くから、お前、JFKに迎えに行ってくれ」。

峰さんがJFKに来なかったらどうなっていたか。日本語しかわからないですから。そんなわけで、最初は峰さんのアパートでお世話になって。4月1日からチンさん(ベースの鈴木良雄)が「しばらくスタン・ゲッツ(ts)のバンドでツアーに行くから、オレのアパートに泊まっていていいよ」。で、チンさんのアパートに移ったんです。2、3週間ですかね。チンさんのアパートにいる間に自分でイースト・ヴィレッジに部屋を見つけて。6丁目のファーストとセカンド(アヴェニュー)の間です。

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ザ・ジャズ・メッセンジャーズのメンバーに抜擢

──渡米して最初に入ったのがザ・ジャズ・メッセンジャーズ?

メッセンジャーズに参加したのは8月で、着いてすぐに加わったのが川崎燎のグループ。ブレイキーさんは48丁目のエイス・アヴェニュー(八番街)に住んでいたんです。あのころはアツコさんという日本の方と結婚していて。彼のおうちに行ったら、アツコさんが玄関に出てくれて。「トイレに入っているんでしばらく待ってくれませんか?」。しばらく待っても出てこない(笑)。15分か20分くらい。やっと出てきて、ぼくがカウチに座って、アート・ブレイキーが向こう。でも、なにも話さないんです。不思議な雰囲気でした(笑)。

──そのときのメンバーは?

ぼくが入ったときは、ジョージ・アダムス(ts)、ドン・プーレン(p)、スタッフォード・ジェームス(b)、それにぼくとアート・ブレイキー。最初の仕事が「トップ・オブ・ザ・ゲイト」(ニューヨークにあった有名クラブ)。

──トップ中のトップのグループに入った気分とか武者震いとかはありました?

いや、できることをひたすらやってたという、それだけですね。

──バンドにはすぐに馴染めました?

馴染んだ、馴染まないというか、そういうこと、ぜんぜん考えたことないです。ただその場を一生懸命にやっていたというか、ベストを尽くして。

──ヴィザはどうしたんですか?

アート・ブレイキーは海外にいろいろ演奏旅行に行くじゃないですか。ぼくのは3か月の観光ヴィザ。日本を出る前、「6か月ぐらいはいたいんですけど」と旅行会社のひとにいったら、「JFKでそういえばすぐに判を押してくれるから大丈夫」といわれて。

JFKに行ったら、ぜんぜん判なんか押してくれない。峰さんに話したところ、「ヴィザの申請をしなくてはいけない」。申請したらイミグレーション(出入国管理局)から返事が来て、「延長できないから3か月で帰れ」。

「峰さん、これ3か月で帰れとなっているけど、どうしたらいいですか?」「そうだな、村上寛(ds)とか笠井紀美子(vo)とか、みんな英語学校に行って、スチューデント・ヴィザを出してもらってる。俊三もそれやったらいいよ」。

寛さんか笠井紀美子か、誰に紹介してもらったかわからないけれど、51丁目のパーク・アヴェニューにあった英語学校に申し込みに行って、スチューデント・ヴィザをアプライして。そうしたらまた返事が来て、「日本にもいい英語学校がいっぱいあるから、3か月で帰れ」。また峰さんに相談したら、「グリーン・カードを取るしかないかなぁ」。

こっちに来るときに貞夫さんに紹介していただいた「ミタ・レストラン」のことを思い出したんです。貞夫さんがよく知っているジャパニーズ・レストランで、「なにかあったら彼に相談したらいい」。それで「ミタ・レストラン」の和田さんから紹介していただいた弁護士のところに行ったら、「2回もノーといわれたら、これはちょっと難しいですね」と。それでこれもダメ。

同じころ、別のひとからチャールズ・ゴールドスミスというイミグレーション専門の弁護士を紹介してもらい、今度はそこに行く。「ともかく推薦状がいる」となって、アート・ブレイキーとか、「ヴィレッジ・ヴァンガード」でメル・ルイス(ds)やサド・ジョーンズ(cor)に推薦状を書いてもらいました。アート・ブレイキーも朝から弁護士のところについて来てくれて、保証人になってくれた。それでもダメでした。

そのうちアート・ブレイキーのところを辞めて、今度はノーマン・コナーズのバンドで仕事を始めるようになったんです(76年)。ノーマン・コナーズから「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・ヨーロッパに行こう」といわれて、「チャンスなので、ぜひ行きたいなぁ」と。それで結局、観光ヴィザのままツアーに出ました。

ツアーの最後がスペイン。弁護士の指示で、「スペインに着いたらすぐアメリカ大使館に行け。そこにサインオフする書類を送るから。その書類を持ってアメリカに入国できるようにしておく」。着いて書類を取りに行ったら、「そんなの来てない」。チャールズに電話して、「来てないけど、どうなってるんだ」「あと一週間いろ」「スペインが終わったらすぐにパリ経由でニューヨークに帰って、そのままデトロイトに行く仕事がある」。パリの飛行場でもう一回チャールズに電話して、「書類を持って、JFKに必ず迎えに来てくれ」。

そんなやりとりをして、アメリカに戻ったんです。ところが着いたらいない。入管でパスポートは没収されたけれど、入国はさせてくれました。そのあともパスポートがなくて、ぼくはブラックリストに載ったまま。それでもなんとかやっていました。

そんな感じでヴィザがずうっと滞っていて。一度はノーマン・コナーズの知っている女の子と偽装結婚の話まで出たけれど、「それはいやだ」。それでノーマン・コナーズのバンドでボストンに行ったときに、いまのカミさんと出会ったんです。その後に彼女と結婚して、ヴィザの申請をして、グリーンカードがもらえたということですね。

──それまでロイヤーとやっていたことはなんにもならなかった。

ぜんぜん。書類も送っていないのに、あとでお金の請求は来るし。ほんとにとんでもない弁護士でした。

──これ、ヴィザに関してはよくある話かもしれないですね。ザ・ジャズ・メッセンジャーズにはどのくらいいたんですか?

外国に行けないしっていうことで数か月です。

──ザ・ジャズ・メッセンジャーズでチンさんと共演したことは?

ありました。よく覚えているのは、シカゴに行ったときに同じ部屋で。チンさんがベッドの間にあるナイト・テーブルのランプを持ち上げたら、その下に40ドルぐらいのお金があって。「チンさん、それぼくにも少しはくれないの?」なんて(笑)。

人気バンド、ダンス・オブ・マジックに参加

──そのあとがノーマン・コナーズのダンス・オブ・マジック。有名バンドばかりですね。

アート・ブレイキーの次にロイ・ヘインズ(ds)のグループに入ったんです。そこにときどき遊びに来ていたのがノーマン・コナーズ。ニューヨークでは「ハーフ・ノート」に出たこともあります。昔、「ミケールズ」っていうクラブがありましたよね。そこでやっていたときにノーマン・コナーズがロイ・ヘインズを聴きに来て、そのときにぼくの演奏を聴いて、「ノーマンが電話してくれ」と。

彼から、「今度いついつにおまえんちに迎えに行くから」。ストレッチ・リムジンでイースト・ヴィレッジ、そのころは11丁目のセカンドとサード(アヴェニュー)の間に住んでいたんだけれど、ピンポーン。それで見たら、ものすごいリムジンじゃないですか(笑)。それがノーマン・コナーズとの最初の仕事。

──それはいつごろ?

あれは『ユー・アー・マイ・スターシップ』(ブッダ)が出たときだから76年。

──そのシングル盤のB面が大野さん作曲の〈バブルス〉。

このレコードが100万枚売れてゴールド・ディスクになりました。アルバムも全米ジャズ・チャートの2位になり、おかげでぼくも有名になりました。

──当時、ノーマン・コナーズは大スターでした。

大スターですね。ノーマン・コナーズのバンドは待遇がよかったです。ツアーに出ると、毎週給料をくれる。それもいい給料を。

──会場も大きなところで。

ジャズ・クラブじゃなくてアリーナとか。共演するのがコモドアーズやクール&ザ・ギャング。ああいうビッグ・ネームと一緒。

──ジャズというよりソウルとかそっちのジャンルのグループということで。

そうですね。あとはドナルド・バード(tp)のブラックバーズともやりました。

──そういうバンドに入りつつ、いわゆるジャズのギグもやっていたんですか?

たまにやっていたんじゃないかと思うけど、それほど自分の中で記憶はないです。ノーマンのバンドは1枚アルバムを出すとずうっとツアーなんです。それが終わると次のアルバム、それでまたツアー。最初のころはカーター・ジェファーソン(sax)がいて、一緒に回ってました。

──カーター・ジェファーソンとは個人的にもやっていたでしょ。

NHKでアート・ブレイキーとやったときのサックスがカーター・ジェファーソンでした。それで友だちになって、ニューヨークに行ってからコンタクトを取って。

──ノーマン・コナーズのところにはどのくらいいたんですか?

はっきり覚えてないけれど、アルバムでいうと『ユー・アー・マイ・スターシップ』と『ジス・イズ・ユア・ライフ』(アリスタ)をやって、3枚目の『ロマンティック・ジャーニー』(ブッダ)まで、2年ちょっといたんじゃないかな?

──そのころにイースト・ウィンドから『サムシングズ・カミング』(注10)と『バブルス』(注11)を出される。

伊藤潔さんと伊藤八十八さんのプロデュースで。

注10:メンバー=大野俊三(tp)、レジー・ルーカス(g)、セドリック・ロウソン(elp, clavinet, org)、菊地雅章(org)、ドン・ペイト(elb)、ロイ・ヘインズ(ds) 75年2月20日、21日、3月6日 ニューヨークで録音

注11:メンバー=大野俊三(tp, melodica, syn)、レジー・ルーカス(g)、ドナルド・ブロケット・ジュニア(clavinet, p)、サム・ジョンソン(elp, org, p, syn)、ロイ・ヘインズ(ds)、ニール・クラーク(per) 75年7月13日、15日 ニューヨークで録音

──プーさん(ピアノの菊地雅章)も絡んでいましたね。

プーさんには『サムシングズ・カミング』のときに、1曲だけ〈アイ・リメンバー・ザット・イット・ハプンド〉でオルガンを弾いてもらいました。「プーさん、これ、オルガンでやってもらえませんか?」「あんな電気楽器みたいなもの、オレはできない」っていわれて。そのあと電気ばっかりやるのにね(笑)。「いや、そんなこといわないでやってくださいよ」。それで一生懸命勉強してきてくれたんです。レコーディングは、ぼくとふたりのデュエット。ハモンドのB3を弾いて、すごいオーケストレーションでした。

──あのレコードはエレクトリック・サウンド。そのころはノーマン・コナーズのバンドでもエレクトリック・サウンドで。

ノーマン・コナーズのバンドではリヴァーブとかディレイとかワウワウを使って、エレクトリック・サウンドでやってました。

──やはりマイルスに通じるサウンド。

そうです。あのころのバンドには、マイケル・ヘンダーソン(elb)、フィリス・ハイマン(vo)、ゲイリー・バーツ(as)とかがいて、すごくよかったです。

──ノーマン・コナーズの音楽自体がマイルスをもう少しソウルっぽくした感じ。

それがひと通り終わって、次にファラオ・サンダース(ts)みたいな音楽になって。ノーマン・コナーズはファラオ・サンダースが大好きで、ああいう系統の音楽をやってました。

──このころになると、大野さんは日本に帰る気はまったくなかった?

帰ることは頭の中になかったです。結婚もしていたし、なんとなく流れの中で生活をしていたというか。

本格的に自身の音楽をクリエイト

──そのあと、自分のグループで本格的な活動を始める。ぼくは82年から83年にかけてセヴンス・アヴェニュー・サウスで大野さんが結成していたクォーター・ムーンを何度か観ています。

結成したのは81年か82年ですかね。レコーディング(注12)と連動して、自分のバンドを作ろうと。あのころ友だちだった、マーカス・ミラー(elb)、ケニー・カークランド(key)、ヴィクター・ルイス(ds)とかね、彼らに参加してもらって。T.M. スティーヴンスっていうベースもいて。

注12:『クォーター・ムーン』(エレクトリック・バード) メンバー=大野俊三(tp, syn)、カーター・ジェファーソン(sax)、ジェフ・レイトン(g)、オナジェ・アラン・ガムス(elp, p, clavinet, syn)、ケニー・カークランド(elp, p, syn)、T.M. スティーヴンス(elb, g)、マーカス・ミラー(elb)、ヴィクター・ルイス(ds)、スー・エヴァンス(per)、ユランダ・マクロウ(cho)、ヴィヴィアン・チェリー(cho)、イヴォンヌ・ルイス(cho) 79年5月20日〜29日 ニューヨークで録音

T.M.スティーヴンスが2、3曲どうしても雰囲気に合わないので、それらの曲ではマーカスに入ってもらいました。ノーマンのバンドが「エイヴリー・フィッシャー・ホール」でコンサートをやったときのベースがマーカスだったんです。帰りにイースト・ヴィレッジのアパートまで彼が車に乗せてくれて、仲よくなりました。だからマーカスに頼んで、という形ですね。

レコーディングは8丁目の「エレクトリック・レディ」(注13)というスタジオ。録音しているときに、ケニーがトイレで「これ、誰にもいっちゃいけないよ」といって、「この前、マーカスがマイルスから電話をもらって。たぶんマイルスとやることになる」という話をしてくれたのを覚えています。

注13:Electric Lady Studios(52 West 8th Street, NYC)。70年にジミ・ヘンドリックスが建て、ヘンドリックスはこのスタジオに10週間しか入らなかったが、以降、多くの著名アーティストがここを使用。

──大野さんにとって、マイルスはずうっとアイドルというか目標というか、そういう存在?

そうですね。やっぱりあのひとはすごい。着る服を変えるとかはするけど、本質はなにも変わっていない。

──大野さんがアメリカに行って、しばらくしてマイルスは活動を休止する。75年の終わりから81年まで空白期間があった。それで、マーカス・ミラーなんかを入れたバンドで復活するじゃないですか。活動休止の期間があって、シーンに戻ってきた。そのときに感じたものってありますか?

マイルス・バンドのメンバーでは、ノーマンとやっていたときにアル・フォスター(ds)(注14)やレジー・ルーカス(g)(注15)がよく遊びに来て。セドリック・ロウソン(key)(注16)はロイ・ヘインズのところで一緒だったけれど、イースト・ウィンドのアルバムでも、レジー・ルーカスとセドリック・ロウソンに入ってもらって。

注14:アル・フォスター(ds 1943年~)72年ジャック・デジョネット(ds)の後任としてマイルス・バンドに参加。マイルスの活動休止期間を挟み、84年末まで在籍。

注15:レジー・ルーカス(g 1953~2018年)72年から75年までマイルス・バンドに在席。76年から数年間エムトゥーメ(congas, per)とロバータ・フラック(vo)のバンドに参加。83年マドンナ(vo)のデビュー作『バーニング・アップ』(サイアー)の大半をプロデュース。

注16:セドリック・ロウソン(org, syn, key)72年マイルスが録音した〈レイテッドX〉と『マイルス・デイヴィス・イン・コンサート』(コロムビア)に参加。

マイルスがやらなくなってからも、ノーマンのところにみんな遊びに来てて、それでアル・フォスターが「今度マイルスのアパートに行くけど、オレに聞いてほしいことあるか?」なんていわれたこともありました。

事故と大病を乗り越えて

──そうやって、最初のうちは有名バンドに入って、その後に自分のグループを活動のメインにする。その間にもハービー・ハンコック(p, key)なんかとのセッションがあり、現在にいたる。大野さんはけがと病気、すごいものを二回経験されて。最初は交通事故?

88年に交通事故に巻き込まれ、前歯を折って、唇も切りました。

──トランぺッターとしては命取りになるような怪我でしたが、それを乗り越え、バスター・ウィリアムス(b)のクインテットで活動を再開する。

そのときはギル・エヴァンスのバンドで毎週月曜の「スウィート・ベイジル」に出ていたんです。そのあと、ギルが亡くなっちゃいましたから(88年3月20日に死去)、その週の月曜が最後になっちゃった。

──ギルのオーケストラではレコーディングにも参加されて、それが「グラミー賞」を獲ります。

84年に録音した『バド・アンド・バード/ギル・エヴァンス&マンデイ・ナイト・オーケストラ・ライヴ・アット・スウィート・ベイジル』(エレクトリック・バード)(注17)です。

注17:メンバー=ギル・エヴァンス(p, elp, arr, con)、ジョージ・アダムス(ts)、クリス・ハンター(as)、ハワード・ジョンソン(tuba, bcl, bs)、マイルス・エヴァンス(tp)、大野俊三(tp)、ハンニヴァル・マーヴィン・ピーターソン(tp)、ルー・ソロフ(tp)、トム・マローン(tb)、ハイラム・ブロック(g)、ピート・レヴィン(syn)、マーク・イーガン(elb)、アダム・ナスバウム(ds)、ミノ・シネル(per) 1984年8月20日、27日 ニューヨーク「スウィート・ベイジル」で実況録音。同日録音の『Vol.2』もある。

──「グラミー賞」(受賞は89年)はこのときが二度目。

はい。最初は『マチート&ヒズ・サルサ・ビッグ・バンド 1982』(タイムレス)(注18)で。

注18:メンバー=マチート(per)、ケン・ヒッチコック(ts)、エド・コヴィ(as)、マーク・フリードマン(as)、ピート・ミランダ(bs)、アルフレード・アルメンテロス(tp)、ジェフ・デイヴィス(tp)、大野俊三(tp)、トニー・コフレージ(tp)、ウィリアム・ロドリゲス(p)、ネルソン・ゴンザレス(b)、レイ・ロメロ(bongos)、T.C. ラモス(congas)、マリオ・グリロ(timbales)、ポーラ・グリロ(vo) 1982年オランダで実況録音

──マチートはハバナ出身のパーカッション奏者。大野さんはツアー・メンバーだった。

81年12月に、マチートに「1月からヨーロッパのツアーに行くから参加してくれ」といわれて、入りました。そのときにオランダのハーグでそのアルバムをライヴ録音しました。それが83年に「グラミー賞」を受賞したんです。

──その後に大けがをしたけれど、ミュージシャンとして復活して、今度は……

95年の11月に扁桃がんがわかるんです。放射線治療をぜんぶで38回やって。右側の頬から顎、肩にかけての筋肉組織が手術でえぐり取られちゃった。今回も、日本に来る10日くらい前から頬とか歯茎とかがすごく腫れてきて、痛くて、トランペットも吹けない。空気が洩れちゃうし。「なんなんだろう、これ?」。

それで医者のところに2回ほど行って、「これは前に治療したときの放射線がいまになって放散してきていて、その放散している放射線が歯茎とかに影響をおよぼして、腫れている」といわれて。「メモリアル・スローン・ケタリングがんセンター」というがん専門の病院で治療を受けたから、そこでもう一度診てもらって、抗生物質を、ワン・クールが7回なんですけど、それ効かなくて、もうワン・クールやってきました。それでなんとか収まったんですけどね。

だけど1週間くらい前からまた症状が出てきた。抗生物質を2クールぶんくらい予備にもらってきていたんで、それでなんとか腫れが引いてきたところです。

──そうすると、吹くのがたいへんそうですね。

ほんと、たいへん。でもやるしかないから。なんとかこなしているというか、こなすしかないものね。

──見る限りではお元気そう。

気持ちだけは元気です。

──アメリカに50年くらい。

48年ですね。

──ニューヨークに住んで。ミュージシャンはもちろんですけど、普通に生活するだけでもたいへんだと思うけれど。そういう街に半世紀近く住んで、活動されてきた。

さっき「日本に帰る気持ちはなかったか?」といわれましたけど、『クォーター・ムーン』を出したときに日本でツアーしたんです。そうすると、環境がすごく楽なんです。ニューヨークにいるとトップ・クラスのうまいひとがいっぱいいるじゃないですか。最近は、日本でもそうだけれど。誰かを聴きにいくと、「ああ、やばいなぁ。早くうちに帰って練習しなくちゃ」っていう気持ちになるというか、ならざるをえない。

日本にいると「いいね、いいね」っていわれるし、すごく楽なんです。それで、そのときの1、2週間ですけど、「日本に帰ったほうがいいかな?」なんて思っていたんですよ。でも、友人が「まだ30歳前半だし、いま日本に帰ってきたら必ず悔いが残ると思うよ」といって。「あと数年頑張って、それから考えたほうがいい」。いわれてみればそうだねと。で、いまにいたっている。そのころは、いまでもニューヨークはそうだけど、どこに聴きに行っても、「やばいな、練習しなきゃ」って気持ちになりますね。

名古屋の「ジャズ・イン・ラブリー」の40周年記念(70年創業)で貞夫さんのグループにゲスト参加したことがあるんです。ちょうどその前に、貞夫さんがニューヨークの「ジャズ・アット・リンカーン・センター」でやったんで、ちょっと会いに行ったんです。

あそこは若いミュージシャンのバンドが深夜にやる。楽器を片しながら貞夫さんがそれを聴いて、「あれで普通なのか?」「だいたいこんなもんじゃないですか」っていったら、「やばいなぁ、ちょっと帰って練習しなきゃなぁ」って。

──そういう気になる街なんでしょうね。厳しいけれど、創造的なミュージシャンにとってはそこにいることが刺激になる。

そうですね。

──振り返ってみると、ニューヨークにいて、住んで、よかったですか?

やっぱりよかったと思います。いい環境というか、教えてもらえるひとがいっぱいいるし。

──いまだに勉強ですか?

一生というか。いまになって、自分がこんなに知らないのかって思います。ぜんぜん吹けないし。ボビー・シュー(tp)が好きだったんです。ボビー・シューには、昔、ときどき習いに行って。この(手元のトランペットを指して)ヤマハのトランペット、これもボビー・シューのモデル。彼はなんでもできるひとで、今回も来る前に「これ、埒が明かないし、どうしたらいいんだろう? 空気も洩れてきちゃうし、どうしたらいいかわからない」。それでボビーに電話して、Zoomで「なら、これとこれ、こういうことをやったらいいんじゃない?」といわれて、それを忠実にやっています。

──いまだに練習とかトライをしているんですね。そういう大野さんもすごい。いまはどちらにお住まいですか?

ウエストチェスター(注19)に住んでます。

注19:ニューヨーク州ニューヨーク市の北郊外にある郡のひとつで、マンハッタンのベッドタウンとして知られる。

──環境もいいでしょう。

そうですね。練習も24時間できるし。

──これからやりたいことは?

ここ2、3年、大きな曲を書こうと思って、書き始めたらどんどんスケールが大きくなって、シンフォニーになっちゃった。4楽章のうち92パーセントまで出来上がっているんです。

娘がクラシックのチェロをやってるんです。それでぼくもクラシックの影響を受けるようになったし、チェロのことも少しわかるようになってきた。娘はストリング・カルテットを持ってるんです。それと、ぼくのジャズのクインテットと一緒に、こちらに来る前に「ジョーズ・パブ」と「ザ・カッティング・ルーム」(注20)でやってきました。

注20:どちらもマンハッタンにある、比較的先進的・創造的な音楽をブッキングしているクラブ。

曲は四楽章の中から。モチーフがいろいろあるので、それを持ち出して2時間分、5、6曲作って。それが「新しい音楽」ということで、いい批評を頂いて。そういう路線もいいなぁと。

スタンダード・ジャズもやるけど、それほど曲をいっぱい知っているわけじゃない。いわゆるビバップも、ほんとにやってやってやりまくらないと絶対にできないものだし。だから、開き直ってでも自分は自分のできる路線で。いまは自分のジャズ・クインテットとストリング・カルテットで、まあ自分の聴こえる音の範囲の中で音楽を作ってやってます。

──それで、いずれシンフォニーを完成させる。

来年にはシンフォニーを完成させて、どこかでメジャーなシンフォニーと、まあどこでもいいけど、できたらいいなぁという感じです。

──そのシンフォニーの完成を楽しみにして、今日のインタヴューは終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。久々に大野さんとお会いできて嬉しかったです。

ニューヨークか東京か、それともどこか別の場所でまたお会いできたらいいです。こちらこそどうもありがとうございました。

取材・文/小川隆夫

2022.11.24 Interview with 大野俊三@ 新宿「新宿ダイカンプラザ A館412号室」

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