MENU
これから楽器をはじめる初心者から、ふたたび楽器を手にした再始動プレイヤー、さらには現役バンドマンまで、「もっと上手に、もっと楽しく」演奏したい皆さんに贈るジャムセッション講座シリーズ。
今回は名店中の名店、御茶の水「NARU」のジャムセッションをレポート。大勢の若者が集まる学生街の目抜き通り。その地下にひっそりと佇む、上品でエキサイティングなジャズベニュー。一体どんな演奏者たちが集うのか…。
【今回の現場】
NARU お茶の水店(ナル)
1969年にオープンした老舗のジャズクラブ。マッコイ・タイナー、渡辺香津美、山下洋輔などのミュージシャンたちもこの店で演奏してきた。月・火曜日の11:30〜14:00 はランチタイム、バータイムは18:00〜22:00、ミュージックチャージは3500円+ワンドリンク。ジャムセッションは月に1回だけで、参加者は3500円で2ドリンク付いてくる。オーディエンスは1500円。東京都千代田区神田駿河台2-1/℡ 03-3291-2321
【担当記者】
千駄木雄大(せんだぎ ゆうだい)
ライター。31歳。大学時代に軽音楽サークルに所属。基本的なコードとパワーコードしか弾けない。セッションに参加して立派に演奏できるようになるまで、この連載を終えることができないという苦行を課せられ執筆中。真剣にジャズを聴くようになって、お気に入りの楽曲があると、その背景を調べるのだが、だいたい子どもの頃に見た『トムとジェリー』のBGMに使用されていた。
激動の時代に誕生した名店
JR御茶ノ水駅の御茶の水橋口改札から、交差点を渡ってわずか数秒。楽器店がひしめく明大通りの地下に「NARU」はある。
50〜70人のキャパシティを誇る同店は、筆者の想像する「ジャズバー」のイメージとぴったり合致する洗練された雰囲気。席はバーカウンター前の一人席、カップル席、ソファの団体席。さらにステージ前にはグランドピアノの曲線美が綺麗に収まるように設計された“かぶりつき”とでもいうべきカウンター席もある。
これまでにテレビや雑誌で幾度も紹介されてきた老舗の名店。本連載でもさまざまなジャムセッションの現場を紹介してきたが、もしかしたら同店は「最古参」になるかもしれない。
「うちは今年でちょうど55年目。オープンしたのは1969年という “ジャズが一番熱かった年” です」
そう語るのは、2代目オーナーの成田広喜氏。
同氏の言うように、この年はピアニストの佐藤允彦が、ベーシストの荒川康男、ドラマーの富樫雅彦とのトリオ編成でリーダーアルバム『パラジウム』を発表。さらに富樫、サックス奏者の高木元輝、トランペット奏者の沖至と共に「実験的音響空間集団ESSG」を結成するなど、フリージャズが注目されるタイミングでもあった。
「父(先代・成田勝男氏)は知り合いに連れられて訪れたジャズ喫茶で、『ひとつの音楽に老若男女が熱中している』現象に興味を持ったのです。そこから、ジャズにのめり込んでいき、飯田橋で営業していた喫茶店を畳んでまでジャズ喫茶をオープンさせました」(成田氏)
店のシャッターが何度も壊される
じつは、ここ御茶の水は2店舗目。NARUの第1号店は代々木で1966年にオープンしたジャズ喫茶だった。
「当時は東京理科大学のジャズ研の学生たちが、お客さんとしてよく遊びに来ていたようです。そこで『アップライトピアノを入れてもいいか?』と言われたのが、転機になります。父はそれを承諾して、営業が終了した時間帯も学生たちの溜まり場としてにぎわってにいたそうです」(同)
やがて、さらに面白い状況が生まれた。
「あるときからプーさん(菊地雅章)や本田竹広さんなど、プロのピアニストたちも参加するようになったんです。特にプーさんとは家族ぐるみで仲良くなって、よく家に泊まったり、私は幼稚園に連れて行ってもらったり。そんなプーさんのために、父は“演奏できる場所”として、この(お茶の水)店を作ったのです」(同)
ちなみに60年代後半はジャズだけでなく「東大紛争」や「全学共闘会議」など学生運動が盛り上がった時期でもある。御茶の水でもNARUのオープン前年に「神田カルチェ・ラタン闘争」で、中央大学・明治大学・日本大学の学生たちによって駿河台にバリケードが築かれ、機動隊との熾烈な攻防が繰り広げられた。このとき、学生たちは歩道を破壊して投石するなど、まさに戦場の様相だった。
「目の前の明大通りは学生と機動隊が衝突した解放区。そのため、何度も店のシャッターが壊されてしまい、修復する必要がありました。それでも、父は御茶の水のような『若者たちの熱気を帯びている土地』で店を開きたかったのです。もともと代々木にジャズ喫茶を開いたのも、当時学生運動が盛んな場所だったからなんですよね」(同)
先代が代々木やお茶の水に出店したのは、自身の “政治的な思想” に従ったわけではなく、ただ「火の起きそうな場所」で店をやりたかったのだ。ちなみに現在も代々木店は営業しており、ボーカルセッションがよく開催されている。
バブル期は流行のカフェバーに
そんな激動の60年代を経て、70年代、80年代もNARUは熱心なジャズファンと名プレイヤーたちを惹きつけた。ところが90年代初頭のバブル絶頂期に、店の雰囲気が少し変化する。ジャズのライブをやめて、当時もてはやされていたカフェバーとして盛況を博すのだ。ビジネスとしては大正解のシフトチェンジであった。が、これでいいのか? という思いもあった。成田氏は当時を振り返る。
「あの当時、夕方頃になると肩パッドの入った流行りのスーツに身を包んだお客さんでいっぱい。いい機材でレコードをかけていたので、店内での演奏もやめていました。そんな満員のお客さんを前にして、再び父に『ジャズやりたい』という気持ちが芽生えたようです」
そして90年代が終わりを迎える頃、アメリカでのレコーディングから戻ってきたドラマーの大坂昌彦が先代に「いまニューヨークのジャムセッションがおもしろい」と土産話を語る。これをきっかけに、NARUのジャムセッションの歴史が始まった。
「大坂さんのライブは最先端で、立ち見が当たり前。そんなトッププレイヤーと一緒に演奏ができる。これは斬新でした」(同)
当時の大坂昌彦は若手プレイヤーの中でも最注目株の一人として、脚光を浴び始めた時期。リーダーアルバム『BLACK BOX』を発表するなど、メディアでの露出も増えてきた。そんな人物とジャムセッションができるというのであれば、話題と人を呼ぶのは想像に容易い。大坂氏本人は、次のように述懐する。
「今でこそいろんな場所でジャムセッションができるけど、当時は新宿ピットインで月に1回行われていたくらいで、それ以外で定期的にやっている店はなかった。そもそも、ジャムセッションは “メイン” になるようなコンテンツでもない。だけど、ニューヨークでは毎晩のように、いろんなライブハウスやバーでジャムセッションは行われていて、そこは研鑽の場であり、きっかけを作る場になっている。そんな文化を日本で作れるといいな…と、先代と話してNARUでも月に2回、ジャムセッションをやるようになったんです」
「ジャムセッション=怖い」はどの国も同じ
当時としては革新的だった夜間のジャムセッション。プロのミュージシャンがアマチュアと交わる場だが、成田氏いわく「高い演奏水準を保てた」そうだ。
「というのも、一定のレベルに達していない演奏者には大坂さんが『まだ足りない』と直接言っていたからです。時には、演奏を止めることもありました」
やっぱり、昔のジャズ界って怖い…。大坂氏は笑いながら、こう補足する。
「今はみんな上手なんだけど、当時は “わきまえない演奏者” が多かったんだよね(笑)。もしかしたら、これがジャズの敷居が高くなった要因かもしれないんだけど、それはニューヨークで当たり前のこと。ちょっとでも『コイツ、ヤバいな』という参加者がいたら、セッションホストがテーマに戻ってすぐに曲を終わらせる。『出直してこい』という意味だよね。そして、その日、その者に順番が回ってくることはない」
どうやら、日本人の抱く「ジャズ=怖い」というのはアメリカから輸入されたようだ。というよりも、大坂氏によるとニューヨークのほうがより厳しいという。
「“外国人はおおらかでフレンドリー” というイメージを持っている人も多いけど、実際は軍隊並みの上下関係。僕も何度無視されたことか。むしろ、『そんなもんだ』と思わないとやっていけないだろうね」(同)
逆にいえば、かのマイルス・デイヴィスの「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇う」という言葉通り、演奏力さえあれば人種は関係ない……と、考えてしまうものだが、現実はそうでもないらしい。
「たとえばアフリカ系アメリカ人たちが集まる “ブラザー” 同士のセッションの場に、いきなり日本人が参加したところで、優先的に呼ばれることはない。だけど、そこで食い下がっていくと認められるんだ。そうなると、今度は逆転現象だよね。ブラザーであろうと演奏力がなければ、とことん蔑ろにされる。実際に『アイツ、トロいからお前が代わりに叩いてくれ』と言われたこともあった」(同)
この内容でこの価格…安すぎる!
ジャムセッション百戦錬磨の大坂氏。彼のような日本を代表するジャズミュージシャンたちとの関わりも強かった現オーナーの広喜氏が、先代の逝去(2001年)後に店を継ぐのは必然だった。
2代目に受け継がれて20年以上が経ち、現在NARUでは若手からベテランまでもが出演するライブを中心に、月に1回、大坂氏をホストに据えたジャムセッションが行われている。
筆者が取材に訪れた日のハウスバンドは大坂昌彦(ドラムス)、紅野智彦(ピアノ)、手島甫(ベース)の3人だ。オーナーの成田氏はお客さんを席に案内したり、お酒を作ったりと忙しそう。同氏が過去に「KOBEjazz.jp」というサイトで応えたインタビュー記事『歴史を引き継ぎ、ジャズの「今」を体現し続ける:ジャズ探訪記』を読んでみると、次のような記述がある。
〈音楽に関心を持ち始めた中学生時代、友人から借りたベースを家で練習していたら『お前は楽器はやるな』と父に言われました。つまり、楽器を演奏するようになるとミュージシャン目線になってしまうから、ということだったらしい〉
「オーナーとしての責務を全うしてほしい」という、先代の願いが込められていたのかもしれない。
この日は18時スタートで開始からしばらくは客足もパラパラという具合だったが、20時前になると、あっという間に20人近くに膨れ上がった。成田氏はひとりでその人数のオーダーを取ったり、受付をしなければならないのだ。大変である。
なお、この日は楽器参加のみのインストゥルメンタルのジャムセッション。開演時間になるとハウスバンドによるコール・ポーターの「アイ・ラブ・ユー」の演奏でライブはスタートした。
ジャムセッションに参加しなくても、チャージ代1500円で日本トップクラスの演奏を間近で見られるわけである。この国のジャズのライブの相場はいったいどうなっているのだろうか……。
目指すは最盛期の現場の熱気
そして、3曲目からジャムセッションが始まる。この日は週末ということもあり参加者も多数。成田氏が記録した参加者リストを大坂氏に渡し、ひとり、ふたりとメンバーを読み上げる。
「フロントプレイヤーに入ってもらいましょう。ジム!」
早々に海外からのサックスプレイヤーが登場。演奏したのはチェット・ベイカーの「レディ・バード」だ。当然だが、みんな演奏は上手い。前回もそうなのだが、これだけハイレベルな演奏を見せつけられてしまうと、「一体いつになれば自分はジャムセッションに参加できる腕前に上達するのだろうか?」と、ため息が出てしまう。
そんな筆者の憂鬱な気分とは裏腹に、お客さんたちはお酒を片手に演奏を楽しんでいる。劇場型のため、みんながステージを真剣な眼差しで見ることができるのだ。
そして、「昔と比べてリズムセクションの参加者が多くなった。特にドラマーが多い」と大坂氏は言ったのだが、途中で一気に若者の団体客が襲来……。というか、大坂氏の教え子たちらしい。当然ながら、全員ドラマーである。
そうなると、なかなか順番は回ってくることはない。どの現場でもいえることだが、ジャムセッションは先に予約していた者が優先的に演奏できるため、早めに来るにこしたことはない。
しかし、ほかと被らない楽器であれば話は別だ。この日はトロンボーン奏者が参加、当連載の取材でこの楽器の演奏を見るのは初めてだ。演奏したのはチャーリー・パーカーの「ビリーズ・バウンス」。トロンボーンがメロディを吹くのも初めて見る。
それにしても、大坂氏の演奏はリムショットを駆使して、ドラムセットに備え付けられていないはずの、さまざまなパーカッションの音が鳴っているような気がする。時に軽やかで、時にパワフル。そんなプレイヤーと演奏するのはさぞかし、楽しいのだろう。もっと、練習していずれ大坂氏と演奏してみたいものだ(90年代の話をまだ怖がっている)。
そして、あっという間に4時間の熱狂は幕を閉じた。終盤に差し掛かるに連れてお客さんはますます増えていき、文字通り店内は満席になった。
それでも、オーナーの成田氏は「まだ足りない」という。
「やはりコロナ前と比較すると、客足は完全に戻っていません。同時にその間、ジャムセッションができるお店もかなり増えました。だから今は、かつての熱気を取り返そうとしているところです。と言っても、それは “コロナ禍以前” ということではありません。90年代後半、父がオーナーで僕がアルバイトとして店に立ち、大坂さんたちとジャムセッションを始めた頃の勢いのことです」
歴史の長い名門だが、決してあぐらをかかず、常に新たな道を模索する……。ジャムセッションの現場はいつの時代も熱気にあふれているのだ。
取材・文/千駄木雄大
撮影/加藤雄太
ライター千駄木が今回の取材で学んだこと
① 日本のジャズ史と学生運動はかなり密接
② つまり“若者のエネルギー”が溜まる土地とジャズは相性がいい?
③「ジャズ(セッション)=怖い」というイメージは海外も同じ
④ ほかにいない楽器だと優先的に呼ばれやすい
⑤ 「NARU」ってこんな洒脱で洗練された店だったのか…と驚き