投稿日 : 2024.09.11

【須永辰緒 インタビュー】DJカルチャーの最前線で40年「モンクベリーズでの経験は今の僕の原点かもしれない」


まだDJが「水商売のBGM係」だった頃から回し始め、今では日本を代表するDJ/プロデューサーとして活躍する須永辰緒。10月5日にはDJ歴40周年&還暦を祝うイベント『STE100』が開催される。その豪華なゲスト陣を見ただけでも須永の影響力や人望が伝わってくるが、日本のDJカルチャー黎明期から始まった須永のDJ人生とはどんなものだったのか。

当時の状況を振り返ってもらいながら、須永の仕事との向き合い方。そして、「レコード番長」と呼ばれるほどレコードに賭けた半生を聞いた。須永が取材場所に指定したのは、笹塚駅前にあるボウリング場「笹塚ボウル」。そのレストランエリアには驚くほど立派なDJブースがあった。

──ボウリング場にこんな豪華なDJブースがあるんですね。びっくりしました。

ここの社長が音楽好きで、コロナの間に大胆にリニューアルしたんです。彼の主催のダンス・ミュージックのイベントも毎週水曜日にあるし、僕もたまにジャズ喫茶をイメージしたDJをやらせてもらってます。メインのスピーカーはアルテック。アンプはマッキントッシュの真空管、ターンテーブルにはパイオニアのSLシリーズを作った人が定年前に作った幻のExclusiveという名機もあります。MONO盤をかけると強烈な音が鳴りますよ。

──ここ笹塚ボウルでは須永さん主催のチャリティ・イベント「吉田類と仲間たち」が開催されてきた場所でもありますね。

震災復興チャリティですね。吉田類さんの発案の元、いとうせいこうさん、渡辺佑さんを中心のトークショーやT字路s、ポカスカジャンといったミュージシャンのライヴ、著名DJによるプレイや協力企業による大酒飲みのための素敵な会です。コロナ禍で延期が続いてますがいつか復活したいです。

──10月5日に須永さんのDJ活動40周年と還暦を記念したイベント『STE100』が開催されます。野外イベントでステージが3つもあってフェスみたいな豪華なイベントですね。

そうですね。でも、僕は一切このイベントの企画には関わっていなくて、ただ祭られに行くだけです。でも話が出たときから「絶対やりたくない」って断ってたんです。

須永辰緒イベ

──どうしてやりたくなかったんですか?

還暦だからって、そんなことで人を呼び出して、DJやれ、ライブやれなんて、そんなド厚かましいことは、性格上無理です。

還暦だの40周年とか、そういうことはスルーして欲しかったんです。そんな風に大御所扱いされたらこの先、気軽にDJができなくなってしまう。でも、闇のプロデューサーみたいなのが出て来て周りから固めていくんです(笑)。それで気づいたときには手遅れになっていたという。野宮真貴さん、横山剣さん、DJ Noriさんといった歳上の方まで参加していただいて本当に申し訳ないです。

──須永さんと一緒に遊びたい、という仲間や後輩がたくさんいるんですね。

まあ、ネタにされている感じはありますよね。気のいい連中に恵まれてます。僕は後輩と飲むときには一切金を出させないんです。これまで何千万と飲み代を払ってて、その結果がこれなんです。因果応報。奢らなきゃよかった(苦笑)。

──いやいや、これは後輩から贈られた花輪みたいなものじゃないでしょうか。DJ活動40周年記念ということは、DJを始めたのは1984年?

そうです。ランDMCのデビューと同じです。

──その頃の須永さんは、どんな境遇だったのでしょうか。

横浜のディスコでDJの修行を始めた頃ですね。見習いなので給料ももらっていませんでした。当時のDJっていうのは店に雇われてたんです。いわば、水商売のBGM係みたいな感じですね。

──DJをしていない時は店の手伝いをするんですか?

いや、DJには専念させてもらえるんですけど、1日中、勉強していました。店にあるレコードを全部メモして、それぞれのBPMをとったり、先輩DJのセッティングとか身の回りの世話をしたり。

音楽知識と服飾センス、喧嘩の強さも必要でした…

──当時のDJは師弟制度だったそうですね。DJになるには弟子入りして修行を積まなければいけなかった。

そうです。高校生の時にツバキハウスで大貫憲章さんが主催しているDJイベントのLONDON NITEを体験して「DJになりたい!」と思いました。

当時、僕はパンクやパワー・ポップが好きだったんですけど、そういう音楽をかけて千人という人を踊らせている。その光景が衝撃でブースのあちら側に立ちたいと思いました。すぐにでもなりたかったけど、そう簡単にはいきませんでしたね。

──そこで須永さんが弟子入りしたのがビリー北村さん。

北村さんはツバキハウス専属だったので、毎日ツバキハウスにいたんですよ。選曲も人柄もよかったし、着こなしもカッコよかった。それで週5でツバキハウスに通って弟子入りさせてもらったんです。

店がオープンする夕方5時に行って朝4時までいました。飲食がフリーなので全く不自由がありませんでした。 300回、店に通ったらゴールドカードがもらえてフリーパスになるので、それ以降はタダで行ってました(笑)。

──DJになる前に、まずツバキハウスの常連になったわけですね。

当時、ツバキハウスの常連になるのってものすごいハードル高かったんですよ。 まずオシャレじゃなきゃダメなんです。それとケンカが強くなきゃダメ。

──ケンカですか?

パンクタイムにモッシュがありますからね。あと音楽知識も必要。そういうポイントを押さえて、全国から勝ち上がって来た “客のプロたち” がしのぎを削っていたんです。

お客さんは、文化服装学院やバンタン(デザイン研究所)といったファッション系や美容師系。早稲田のロック研究会とか大学生も多かったですね。そして、客のプロを尻目にVIPルームにいるのが、藤原ヒロシ先輩、高木完先輩ですよ。遠目に2人を見ながら、どうやったらVIPルームに入れるんだろう…って思っていました。

──ビリーさんに弟子入りをしてからも修行の日々が続くのですか?

ツバキハウスをやっているの運営会社から「新宿にBoogie Boyっていうバーを出すから、そこでDJとバーテンをやってくれ」と言われたんです。そこは藤井悟さんとか DJ EMMA君がデビューした店でもあるんですけど初代のDJは僕でした。

そのあと人事異動?で横浜のディスコに出向。そこはブラック・ミュージック専門で店員はアフロ。みんな深夜の3時になるとウェットスーツに着替えるんですよ。朝からサーフィンに行くから。

──パンクDJにとっては完全にアウェイな世界ですね。

それまで見たことがない世界でした。早い時間だったらいいかな、と思ってロックをかけると店員に怒られるんですよ、「DJ、黒いのかけろ!」って。当時、ブラック・ミュージックは全然聴いていなかったので店にあるレコードを全部聴いて覚えました。

毎日がブラック・ミュージック地獄でしたけど、そこで唯一の救いがランDMCとの出会いだったんです。彼らの音楽を聴いた時、「これは絶対ロックだ!」と思いましたね。横浜でDJをやっていた時の唯一の救いがランDMCだったんですけど、あんまりかけると店員に「黒いのをかけろ」って言われる。十分、黒いんですけどね(笑)。

原宿「モンクベリーズ」の洗礼

──当時、ヒップホップはブラック・ミュージック好きのなかではイロモノ扱いされていましたね。

ブラック・ミュージックが好きな人はランDMCを受け入れなかったですね。たまにメインの時間をやらせてもらってたんですけど、ランDMCをかけるとお客さんがぱーっと散りました。

──でも、須永さんはヒップホップを聴き込んでいった。

ヒップホップに新しいロックを見たんです。デフジャム(レーベル)の一連の作品、デ・ラ・ソウルとかネイティヴ・タン一派とかウルトラマグネティックMCズとか。90年代初頭ぐらいまでのオールドスクールにロックを感じました。サンプリングという形で他人の曲を使って勝手に曲にしちゃう。そんなカッコいいことある? みたいな(笑)。

──ヒップホップはメンバーにDJがいるという編成も画期的でした。

そうですね。僕は最初からDJという職業に可能性を感じていて、いつか職業として評価される日が来ると信じていました。だから、横浜の苦しい時代も乗り越えられたんです。いつまでも “ただの BGM係の兄ちゃん” じゃないぞ、って。

──そうやっていろんな店でDJ修行を積んで、フリーランスになったのはいつ頃ですか?

横浜から戻って来て、青山や六本木などを経て原宿のモンクベリーズという店を紹介してもらえました。とても開放的な店で音楽IQも高いお客さんに溢れる良いお店にようやく出会えた。

当時はDub Master X(宮崎泉)さんがチーフDJ的にみんなをまとめていたんですけど、宮崎さんやお店に「いろんなところでDJをやりたいんです」って相談したら、「じゃあ、モンクベリーズから給料もらいながらフリーになっちゃえばいいじゃん」と言われ、「いいんですか? じゃあ、フリーになります!」って宣言しました(笑)。それでモンクベリーズをメインにしながら、フリーランスとして西麻布のTOOL’S BARとか、なんかいろんなとこに出させてもらうようになったんです。

──当時、フリーのDJというのは珍しかったのでは?

大貫さんと、藤原ヒロシ先輩と、完ちゃんはDJやってかな? 正確じゃないかもしれないですけど、フリー宣言をしたのは僕が5番目ぐらいだったと思います。

──需要はありました?

大きなハコには専属のDJがいるから声はかからないけど、当時、ワン・オフ・クラブが流行り出したところで、「こういうイベントがあるだけどちょっとやってくれない?」って、平日にイベントの仕事が入るようになりました。ギャラはチャージバックだったり、ごついギャラが出て3~4人で回したりしていました。素人が突然DJに変身するのもこの頃から。90年代のはじめくらいかな。

──モンクベリーズは伝説的な店ですが、須永さんから見てどんな場所でした?

大抵、MUTE BEATのこだま (和文)さんが酔っ払ってました(笑)。MAJOR FORCEの方々に挨拶したのも、いとうせいこうさん、ヤン富田さんと出会ったのもモンクベリーズで、文化人サロンみたいな側面もある。そんな場所でした。

モンクベリーズを通じて、僕のDJ人生にようやくサブカル文化的な要素が加わりました。同時に音楽の無限の自由さも知る。それまで歌舞伎町でケンカばかりしてたのに(笑)。モンクベリーズでの経験は今の僕の原点と言えるかもしれない。ツバキハウスで開眼して、モンクベリーズでは目から鱗が落ちるような毎日を過ごせました。

インバウンドも多く来店するモンクベリーズです。ある日、DJしている時に、外国人から「これかけて」ってホワイトラベルのプロモ盤を渡されて。それは聞いたこともないERIC B&RAKIM「Paid in Full」のリミックスでした。目を丸くしてたら「それあげるよ」って言われて。その外国人というのがネリー・フーパーだったんですけど、リミックスの概念も同時に体験できそれも衝撃でした。

──ネリー・フーパーといえばマッシヴ・アタックやビョークのプロデュースで90年代のロックシーンにその名を轟かせますが、そんな大物も遊びにきてたんですね。モンクベリーズ時代、須永さんはどんな音楽をかけていたのでしょうか。

レアグルーヴをかけ始めていました。「バンバータ・チャート」というのがあって、アフリカ・バンバータが自分が好きな古いレコードをピックアップしたリストがあったんです。そこに載っているものが後にレアグルーヴと言われる代表曲群、それを片っ端から買ってました。基本、フリーランスがプレイするようなお店のレコードは各自持ち込み。所謂ディスコやバーって毎月10万円くらいレコード経費があって、専属DJがレコード屋を回って買って大量にストックがあるけどそれは店のものだから専属DJ以外は使えません。

だから自分で大量にレコードを買うようになったのはフリーになってからですね。それまで自分が持っていたレコードはロックだったので、当時はヒップホップの新譜は全部買ってました。よく通ったのはWAVEとCISCOですね。

選曲、EQ、客の酒量までコントロールするDJ’ing

──自分のDJのスタイルが出来上がったのもその頃ですか?

そうですね。著名海外DJのプレイは全部聴きに行きました。そして、それを徹底的に分析して自分の中に落とし込んだんです。レアグルーヴってなんでもありじゃないですか。いろんなジャンルから曲を集めてきて、それを自分の物差しで串刺しにしてドラマを作るのがDJ’ingなんです。そういうやり方もめちゃくちゃロックだと思ったんですよね。

同じく、ジャズだけで1時間とか3時間のドラマを作るのも、自分にしかできないロックだと思ってます。アナログDJなんて持ち込める枚数が決まってるじゃないですか。そんな中で、ブースに立った瞬間に何をかけるか決めるんです。探り探り大まかな雰囲気さえ掴めればだいたいピークに持っていけるまでの曲順が降りてきます。

──その場の空気を読んで、曲を使って即興でストーリーを作っていく。それは場数を踏まないとできない芸当ですね。

場を読む力というのはDJには必要だと思います。そこで僕が一番考えているのはバーの売り上げをあげることなんです。店からギャラをもらってる身で、好き勝手やって「俺ってカッコいいでしょ?」みたいなわけにいかないじゃないですか。

店に貢献するにはどうしたらいいかっていうと、バーの売り上げをアップさせる。例えば100人踊るフロアがあるとすると、100人を一気に盛り上げるのは簡単なんですけど、じわじわ盛り上げてって寸止めするんですよ。そうすると、みんなバーに行く時間ができるじゃないですか。「もう1回(ピークが)来る」っていうのを期待させて寸止めでバーに行かせて滞在時間を稼ぐ。それを繰り返して最後に大円団。みんなで「乾杯!」っていうのが僕の理想のプレイです。

──音楽でその場をコントロールする、っていうか、客が飲む酒の量まで操るという(笑)。フリーになった時は、そういうことができていた?

大体できてました。それまでに4~5軒、いろんなベニューで先輩方の薫陶で基礎勉強をさせてもらったので。そして、モンクベリーズで宮崎さんのDJを間近で見て、音の作り方とかEQ(イコライザー)のやり方をついに掴んだ。それでなんとかフリーで出来そうだと思ったんです。

──そして、須永さんは95年に渋谷にオープンしたオルガンバーのプロデューサーとDJを担当。オルガンバーを通じて須永さんの名前はさらに広がったのではないでしょうか。

その頃、いろいろあって僕は音楽業界から離れようと思っていたんです。友達のレコード屋で働いてDJは趣味でやってました。そんな時に、「新しいバーをオープンするんだけどプロデュースしない?」って頼まれたんです。

その当時、ニューヨークでホテルのラウンジ文化を体験したことが大きかったです。ホテルの1Fにラウンジがあって結構有名なDJがリラックスして回しているんですけど、お客さんもそこで踊るわけではなく、音楽を聴きながら酒を飲んで体を揺らしている。そういうお店って東京にはないよな、と思ったんです。それでオルガンバーをそういう店にしようと思いました。周りには既に優秀な友人DJが大勢いるので割と気楽に構えていましたが。

でも、そういうコンセプトが伝わりにくくて半年以上は苦労しました。そのうち店に通ってくれていたDMRのスタッフから「辰緒さんの普段通りのプレイをミックステープで出しませんか?」って打診されて、店の宣伝になるんだったらやってみようかな、と思って出してみたら、それが後に数千本くらい売れてお客さんが来るようになったんです。

お客さんが来たら踊らせたくなっちゃって、選曲はそっち方面にシフトしていったんですけど、最初の頃はカラパナとかマッキー・フェアリーとか、ハワイ産AORなどもけっこうかけてましたね。

──そういう選曲センスって、当時はどんなふうに受け入れられていたのですか?

たとえば山下達郎「LOVE SPACE」なんかもよくかけてましたけど、当時、山下達郎をクラブでかけるDJなんかいなかったので、みんな戸惑ってましたね。でもレアグルーヴを通過しているので僕的には全く違和感がなくて、洋楽邦楽関係なくプレイしていました。

モンクベリーズに入る前に、青山のTOKIOっていうディスコのDJをしていたんですけど、店の近くパイドパイパーハウスというレコード屋があって、そこに通うようになってティンパンアレイ系のアーティストを知ることができました。何せ出自がパンクですからそこに辿り着くまで時間がかかってしまったわけです。それである日、桑名晴子「あこがれのsundown」から「LOVE SPACE」というMIXを偶然発見、これで10年食っていける!と確信しましたね(笑)。

──それ、完全に今のシティポップ・ブームを先取りしてますね。

小西(康陽)さんには「山下達郎をかける辰緒さんは嫌いだ」って言われましたけどね(笑)。

──あらら(笑)。そういえば、オルガンバー時代には小西さんに会われて、それが縁で『Punch The Monkey』に参加されます。

小西さんはよくオルガンバーに遊びに来てくれたんです。渋谷系が流行っていたとき、僕はヒップホップのDJだったのでピチカートファイヴもフリッパーズ・ギターも全然聴いてなかったんです。渋谷系という言葉すら知らなかった。でも、宇田川町でクラブをやっていると、少しずつ渋谷系とリンクしてくるんですよ。小西さんからは制作や音楽知識などいろんなことを教わりました。勝手に師匠と崇めてます。

DJとして大切な「技術と作法」

──00年代に入ってからは、Sunaga t Experienceとしても活動されるようになります。須永さんにとってSunaga t Experienceとはどういう存在ですか?

自分の理想としては、ミュージシャンのサロンになればいいなと思っています。ミュージシャンはもちろん、カヴァーアートを作ってる人たちや、アルバムが出来上がる過程で関わる人たち全員がメンバーというつもりで立ち上げたんです。だから〈須永辰緒〉っていう個人の名前を出すのはおこがましいので、Sunaga t Experienceということにしたんです。なんでもよかったですよ、名前は。でも、名前を考えている時に思い出したのが “ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス” だったりして。

──なるほど。ソロ・ユニットというより、ひとつの場所なんですね。ツバキハウス、モンクベリーズ、オルガンバー、そして、Sunaga t Experienceと、須永さんは人が交流する「場所」で音楽を鳴らし続けている。そこにDJ的な姿勢を感じます。00年代に入ってから、須永さんはジャズにシフトしていきますが、なかでもヨーロッパのジャズを熱心に追いかけていた。

フィンランドのジャズですごく気に入ったアルバムがあるんですけど、そのアルバムに出会って「ということは、北欧にもいっぱいジャズってあるんじゃねえの?」って思ったんです。それでヨーロッパ・ジャズのディスクガイド本を見ながら片っ端からレコードを探したんです。でも、試聴させてくれない店もあって、その時は参加ミュージシャンとか制作年、あとはジャケットのフォントを頼りに買いました。

──ジャケ買いというのはよく聞きますが、フォントも重要なんですね(笑)。

まあ、一つの要素としてですね。プロデューサー買い、フォント買いで、ある年代当時の当地の音楽コミュニティが探れる。銀ジャケにハズレなし、動物ジャケは7割当たり、野球ジャケは全部外れ、とか、レアグルーヴを探していた頃、DJの間でよく言われていました。DJの中で僕は曲単価が一番高いと思いますよ。レコードバッグ一袋のなかに200万円分のレコードが入ってますから。特にジャズ、ブラジル系は致し方ないところです。レコードを買う時は直感を大事にしています。試聴させてくれるところだったら、針を落として3秒で買うか買わないかを決めます。

──初めて行ったレコード店では必ず何か買うそうですね。

足跡を残すんですよ。

──レコード屋さんの店員とコミュニケーションをとる、ということですね。

音楽のことはレコード屋の店員に教えてもらうのが一番。彼らはプロなので、このLPにはこんな曲が潜んでいるっていうのをよく知っているんです。そういうことを直接聞いたらほうがいい。それに良いレコードは店の奥にあるから、店員や店主と仲良くしないとそれは出てこない。「須永さんこんなの知ってる?」って店員から言われたら、それは嬉しいですよね。

──なるほど、そうすることで、店員からネットや本に載っていない情報が聞き出せるわけですね。そんなこんなでDJを40年間やられて来た須永さんですが、今のクラブ・シーンやDJについて何か思うことはありますか?

今、いろんなDJのスタイルが出て来てますよね。7インチだけクイックで回すDJ KOCOくんとか最高にクール。DJの裾野がすごく広がっているので全部は把握できていませんが、DJとしてお客さんの前に立つのであれば、お客さんより音楽のことを知っていないといけないし、ファッションのセンスも正さないといけないと思います。いつまでも憧れの対象でいて欲しい。

でもDJのなかには、ファッションのことは全く構わないし、タバコを吸いながらやってる人もいる。仕事をする態度じゃないですよね。あと、技術がない人も多い。僕らプロは技術から入るんです。特にEQの技術はすごく大事なんです。あと音量。スピーカーを飛ばさない、というのは基本的なことなんですけど、飛ばしてしまうDJが多くて怒っているお店をいっぱい知っています。お店に迷惑をかけない、というのはDJとして最低限のルールなんです。

「マツケンサンバ」ブームの起点は須永辰緒です(断言)

──お店の売り上げに貢献することの重要さを話されていましたが、須永さんにとってDJはお店あっての存在なんですね。自分のスタイルを誇示するパフォーマンスではない。

自分を表現するなんておこがましいですよ。僕はDJ塾みたいなことをやっていて、DJ志望の連中にイチから教えているんです。そこで教えてるのはDJとしての作法です。そして、EQの重要さ。イコライジングというのは音を平均化するということなんです。アナログって12インチとLPで出力が違うし、一枚のレコードでも内周と外周では音質が全然違う。それをEQで平均化するんです。

例えば音量を上げたい時、みんなミドル(中音)を上げるんですけど、そうするとヴォーカルの通りは良くなるけど、ほかの音が曇ってしまうんです。だから、逆にミドルを下げてロー(低音)とハイ(高音)を出す。そうすると音の通りが良くなるんです。そうすることで実質体感音量も上がって聴こえる。

──それは須永さんがDJをしてきたなかで発見したノウハウなんですか?

そうです。やっぱり、酒を飲む環境って音が良いほうがいいじゃないですか。

──確かにそのほうが気持ちよく飲めますね。DJは選曲だけではなく、音を通じて環境を作り上げていく仕事なんですね。

僕はDJのやり方を誰からも教えてもらえませんでした。でも、アナログDJが絶滅危惧種となった今、次の世代に伝えておかないとまずいな、と思うようになったんです。伝統芸能を後世に残していくというか(笑)。ただ、技術は教えられてもセンスは教えられませんけどね。

僕は自分にセンスが圧倒的に足りなかった分、努力だけは惜しまなかった。なんとか先輩方の尻尾だけは離さないように今まで必死にやってきましたが、いまだにセンスと知識の面では先輩方には未だ追いつけない。

──これからやってみたいことはありますか?

DJとしてやりたいことは20年前にある程度達成したんです。LONDON NITEを初めて見て「こんなDJになりたい!」と思っていたことは成し遂げた。それからの20年は余禄。探求の旅です。「夜ジャズ」然り、復刻音源のシリーズ然り。最近はお客さんを踊らせるより、こういう音楽もあるよ、と教えてあげるDJをしています。僭越な言い方をするとキュレイターみたいな立場で音楽をかけているんです。

そういうこともあって、年内にレコードバーを始める予定です。店の場所も決まってて、スピーカーもアンプも揃ってます。ハイエンドオーディオと言ってもいいかも。そこでワンオペでウーロンハイを提供しながらレコードかけようと思ってます。

──そこではどんな音楽を?

今まで曲単体でしかLPを聴いてないじゃないですか。好きだけど踊れないレコードって、なかなかターンテーブルに乗らない。良い曲なのは知ってるし、すっごくセンスに溢れているのもわかっているけど、リズム設定がなってないからターンテーブルに乗らない曲やアルバムがいっぱいあるんです。そういうものを、お酒を飲みながらじっくり楽しみたいと思っています。

お客さんがレコードを持ち込んでもいい。自分が知らないレコードだっから聴いてみたいじゃないですか。だから、バイトは募集しないけどレコードを教えてくれる人は大募集(笑)。

──酒を飲みながら良い音楽を聴くバー。DJ人生の最高の余禄ですね。

なりたかったDJになれたし、作品も何枚も出させてもらったし、感謝しかないですね。ただひとつだけ、声を大にして言いたいのは、「マツケンサンバ」があれだけヒットしたのは僕がピックアップしたからなんです。これはもう絶対にそう!

──そうだったんですか。「マツケンサンバ」ブームの影に須永さんがいたとは。40年のDJキャリアの中で外せない大事件ですね。

京都の太秦映画村で買った短冊CD「マツケンサンバ」をオルガンバーでかけたら爆発した。それを聴いた小西さんが「何これ!?」って驚いてリミックス・シリーズを作ったんです。だから広めたのは小西さんで、東京に持ち込んだのは僕なんです。それが感度の良いお客さんの間で広がった。市井発信のムーブメントの象徴でしたね! だから僕のレコードバーがオープンした時には、マツケンさんから花を出して欲しいです(笑)。

取材・文/村尾泰郎
撮影/山元良仁

須永辰緒イベント

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