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【キング・カーティス&チャンピオン・ジャック・デュプリー】R&B界のトップ・プレイヤーとニューオリンズの巨人の共演──ライブ盤で聴くモントルー Vol.57

「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

キング・カーティスは、50年代から60年代にかけて数えきれないほどのR&Bセッションに参加したトップ・サックス・プレーヤーであり、アレサ・フランクリンの伝説のフィルモア・ウェストのライブでは音楽監督を務めた。そのライブの勢いのままに、アレサとキング・カーティスのチームはモントルー・ジャズ・フェスティバルに乗り込んだ。アレサのステージ後、キング・カーティスはあるピアニストとの共演を果たす。プロフェッサー・ロングヘアやファッツ・ドミノに多大な影響を与えたブルースの巨人、チャンピオン・ジャック・デュプリーである。

ブルース一色のステージ

アレサ・フランクリンがヒッピーの聖地であったサンフランシスコ〈フィルモア・ウェスト〉に出演したのは、1971年3月5日から7日にかけての3日間だった。サックス・プレイヤーのキング・カーティスが音楽監督を務め、彼が組成したバンド「キングピンズ」がバックを固めたアレサのパフォーマンスは、彼女のキャリアにおける最高のステージとして半ば伝説化している。アレサが登場する前のキングピンズの前座演奏は『ライヴ・アット・フィルモア・ウエスト』としてパッケージ化され、本編のアレサの『ライヴ・アット・フィルモア・ウエスト』とともに大ヒットした。現在では、3日間計5時間超の演奏を4枚組のCDと配信で聴くことができる。

そのフィルモアのライブとほぼ同じメンバーを従えてアレサとキング・カーティスが欧州スイスに乗り込んだのが、およそ3カ月後の6月12日である。モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演するための渡欧で、そのパフォーマンスの記録は半世紀以上の時を経て2023年にアナログ盤として正式にリリースされた。前回紹介したのがそれである。

モントルーでは、アレサのステージの5日後にキング・カーティスも自身のバンドで演奏した。そのライブは1973年の時点でアルバム化されているが、これはフィルモアのライブとは大いに趣を異にする作品であった。R&Bインストルメンタル作の最高峰であり、プルコム・ハルム、レッド・ツェッペリン、ボビー・ジェントリーらの曲を取り上げることで白人オーディエンスにアピールし、かつアレサのライブ盤のプロローグという意味合いもあった『ライヴ・アット・フィルモア・ウエスト』に対し、モントルーのライブ盤は『ブルース・アット・モントルー』というタイトルが示すとおり、完全なブルース・アルバムであった。キング・カーティスのステージがブルース一色になったのは、もともとソロで出演するはずだったチャンピオン・ジャック・デュプリーという共演者がいたからだ。

後進に影響を与えたニューオリンズの巨人

チャンピオン・ジャック・デュプリーはニューオリンズ出身の弾き語りスタイルのブルース・ピアニストで、音楽で食えなかった一時期、ボクサー稼業をしていたことから「チャンピオン」というあだ名がついた。1930年代からシカゴやニューヨークで活躍したが、50年代末からは活動拠点を欧州に移し、66年にはエリック・クラプトン、ジョン・メイオールらとレコーディングしている(『フロム・ニューオリンズ・トゥ・シカゴ』)。

クリント・イーストウッドが監督したドキュメント映画『ピアノ・ブルース』では、ドクター・ジョンが「ピアノを始めた頃に好きだったピアニストの一人」としてチャンピオン・ジャック・デュプリーの名を挙げている。ニューオリンズには、チャンピオン・ジャックやプロフェッサー・ロングヘア、ヒューイ・スミスのようなすごいピアニストがいたから、ピアノではかなわないと思いギターを弾くことにしたのだと彼は言う。ドクター・ジョンのキャリアのスタートはギタリストだった。

「50年代、ジャックを録音できる機会が巡ってきたときは、一も二もなく飛びついた」と振り返っているのは、アトランティック・レコードの副社長であり、R&B部門の責任者であったジェリー・ウェクスラーである(『私はリズム&ブルースを創った』)。彼は「プロフェッサー・ロングヘアがニューオーリンズのジョージ・ワシントンだとするなら、チャンピオン・ジャック・デュプリーはトーマス・ジェファーソンだった」と、二人の偉大なピアニストをアメリカの初代および第三代大統領になぞらえている。

しかし、これは順序がおかしい。チャンピオン・ジャックのほうがフェス(プロフェッサー・ロングヘアの相性)より8歳も年上であり、かつフェスはチャンピオン・ジャックからの影響を公言していたからである。初代大統領になぞらえられるべきは、ファッツ・ドミノにも多大な影響を与えたチャンピオン・ジャックのほうだろう。もっともドクター・ジョンは、二人のスタイルがかなり異なることを理由に、フェスがチャンピオン・ジャックから影響を受けたという話を否定しているが。

ジャックは韻律的に常軌を逸し、小節の途中で止めたりはみ出したりすることでそのブルースを際立たせる男だった。ぶっきらぼうで、私が思うに、最小限の装飾でいつでも録音に臨める男だった。

ウェクスラーはこうも語っている。「韻律的に常軌を逸し」というのはわかりにくい表現だが、「ルールを完全に破壊しない程度の逸脱」とでも解しておけばよいと思う。これがどういう意味かはのちほど述べる。

成り行きで結成された即興バンド

当時36歳だったキング・カーティスと61歳のチャンピオン・ジャック・デュプリーの初共演は、ほとんど成り行きのようにして決まったらしい。アレサのステージが終わったあとも、キング・カーティスはモントルーに滞在していた。欧州随一の避暑地でのバカンスを楽しんでいたのだろう。ある晩、アトランティックのジャズ部門のトップであるネスヒ・アーティガン、同社の専属プロデューサーであったジョエル・ドーン、キング・カーティス、チャンピオン・ジャック・デュプリーの4人はバーで歓談していた。

そういえば、ジャックとカーティスはこれまで一度も共演したことがなかったな。そう言い出したのは誰だったか。ならばこの機会に一緒に演奏してはどうかという案も出て、「いいね、やろうぜ」となったのは酒の勢いであったに違いない。カーティスは、やはりモントルーに残っていたバンド・メンバーのコーネル・デュプリー(ギター)とジェリー・ジェモット(ベース)に声をかけた。ドラムのバーナード・パーディはすでに帰米したか、欧州の別の国に行ってしまっていたのだろう。ドラマーは別のバンドから呼び寄せ、そうして即席の小バンドが編成された。

時間はなかったから、この即席バンドはほぼリハーサルなしでステージに臨んだようだ。アルバムに収録されている6曲のうち、「ジャンカーズ・ブルース」は、チャンピオン・ジャックがアトランティックからリリースした『ブルース・フロム・ザ・ガター』(1959年)の収録曲だが、残りの5曲のクレジットはすべて「ジャック・デュプリー&キング・カーティス」となっている。つまり、ほとんどの曲はステージの直前に2人でつくったか、ステージで即興でつくったか、そのどちらかだったということだ。

アトランティック・レコードから発売されたチャンピオン・ジャック・デュプリーの代表作の一枚『ブルース・フロム・ザ・ガター』

もとよりブルースは形式の決まった音楽だから、キーと歌詞が決まれば曲は成立する。ベテランのブルースマンなら、思いのままに発した言葉がおのずから歌詞となるだろう。ブルースという音楽の素晴らしさは、まさしくこういうところにあると思う。

俺は小節数など数えない

アルバムの収録曲はすべてブルースだが、例えば冒頭の「ジャンカーズ・ブルース」を聴いていると妙な感じがする。ブルースにしてはどうにも収まりが悪いのである。CDの英文解説を読んで、その理由がわかった。チャンピオン・ジャック・デュプリーのプレイは、よく言えば自由、ごく普通の言い方をすればかなりいい加減で、本来12小節ある曲の8小節目でいきなり1小節目に戻ったり、11小節で終わったり、13小節まで伸ばしたりと、要するに好き勝手に演奏しているのである。

このアルバムの最も印象的な特徴は、チャンピオン・ジャックによるコーラスの長さの恣意的な変化に、キング・カーティスとリズム・セクションが鋭敏に対応している点である。変化に対するこのような本能的かつ直感的な反応は、集団即興音楽において熱狂と満足を観客に与える要素の一つである。

ビルボード誌の記者マイク・ヘネシーはそう書いている。同じ文章の中でチャンピオン・ジャックのコメントも紹介されているが、これは最高というほかない。barには「小節」「酒場」「柵」といった意味があることを踏まえて読んでいただきたい。

「俺が知っているbarは、酒を飲むbarと刑務所の独房のbarだけだ。俺はbarの数など数えない。感覚でやっている」

これが、ジェリー・ウェクスラーが言った「韻律的に常軌を逸し」という表現の意味である。小節数など数えないから、ずれることもあるだろう。しかし、それはあくまで韻律的、すなわち音楽的構成を破壊しないレベルのずれである。そうウェクスラーは言いたかったのだと思う。

元来ブルースとはそういう自由な音楽であって、「3コードを使った12小節のAAB形式」がブルースの定型となったのは、ブルースの楽曲が楽譜化されて売られるようになった1910年代以降と言われている。最初に採譜されたのが「3コードを使った12小節のAAB形式」の曲だったため、それがその後にブルースの型として流通するようになったに過ぎない。

それ以前には、そしてそれ以降も多くの実演奏の場面では、8小節であろうが16小節であろうが、あるいは11小節であろうが13小節であろうが、12小節より一拍多かろうが少なかろうが、ブルースはブルースであった。チャンピオン・ジャック・デュプリーはそのブルースの流儀に沿って演奏しているまでで、自分のプレイが破調であるとは考えていなかっただろう。例えば、ジョン・リー・フッカーもそういうタイプのブルースマンだった。

ロック・スターが熱望したサックスの音

モントルーのライブのおよそ20日後、キング・カーティスはニューヨークのスタジオで、あるレコーディングに臨んだ。すでにほぼ出来上がっていたバック・トラックにカーティスのサックスの音を加えてほしいと熱望したのは、世界で最も名の知られたロック・スターだった。

キング・カーティスが2曲に参加したアルバムは、アメリカでは9月、英国では10月に発売され、両国のアルバム・チャートで1位となった。タイトルは『イマジン』。カーティスの音を望んだロック・スターの名はジョン・レノンである。

レノンは10代の頃から、キング・カーティスのサックスの音に馴染んでいたと思われる。バディ・ホリーはビートルズのメンバーたちのヒーローの一人だったが、キング・カーティスは彼のバンドのメンバーだったことがあった。デビュー前のビートルズのレパートリーであったバディ・ホリーの「レミニシング」は、キング・カーティスが書いた曲である。

同じく初期のビートルズがカバーした黒人コーラス・グループがコースターズで、現在は「ヤング・ブラッド」「サーチン」の2曲をそれぞれ『ライヴ・アット・ザ・BBC』『ザ・コンプリート・デッカ・テープス1962』で聴くことができる。キング・カーティスはそのコースターズとも仕事をしていて、とりわけ「ヤキティ・ヤク」「チャーリー・ブラウン」の2曲におけるスタッカートを多用したアタックの強いプレイがよく知られている。一時期カーティスの代名詞となっていた「ヤキティ・サックス」は、そのプレイにちなんだものだ。

カーティスのサックスの豪快な音は10代のレノンの耳に焼きつき、いつかこのようなサックスを自分のレコードに入れたいと考えたに違いない。ビートルズのデビューからおよそ10年後につくったソロ・アルバムで、彼はその夢を果たしたのだった。

アレサが葬儀で歌った歌

『イマジン』を初めて聴いたとき、人々は際立って激しい2曲「イッツ・ソー・ハード」「兵隊にはなりなくない」のキング・カーティスのサックス・ブロウに耳をそばだてたことだろう。テキサス・テナーの伝統を汲むワイルドな音は、ざらついたジョン・レノンの声やジョージ・ハリソンのスライド・ギターによくフィットした。

しかしこのアルバムがリリースされたとき、キング・カーティスはすでにこの世の人ではなかった。R&B界のトップ・サックス・プレーヤーが自宅前でジャンキーに刺殺されたのは1971年8月31日である。モントルーのライブからおよそ2カ月後。彼はまだ36歳だった。

自叙伝『私はリズム&ブルースを創った』でジェリー・ウェクスラーは、キング・カーティスを「私の仲間」「ソウルブラザー」「長きにわたる協力者」「親友」「最も近しい同僚」「私にとって刺激と情報のつねなる源だった男」などと呼び、最大限の賛辞を書き連ねている。

カーティスは偉大なサックス奏者だった、おべんちゃらでもなんでもない、ただただ偉大だった。その存在感はそびえ立たんばかりだった。

力強く、落ち着きはらい、まばゆい光を放つ存在。つねに頼りにされていた。食べるのが、サイコロ賭博が、レコーディングが、バイクに乗るのが、抜かりのないレコーディング契約を結ぶのが、大好きな男だった。

高潔で、肝っ玉の太い、世知に長けた人間で、私の知る誰とも違っていた。

キング・カーティスの葬儀には2000人以上が参列したと言われる。カーティスの才能を最もよく知るシンガーの一人であったアレサ・フランクリンは、自身が10代から歌っていた古いゴスペル・ソング「生命は永遠に(Never Grow Old)」を歌った。その歌詞の一部を最後に紹介しておく。

遥かな海岸にあるという場所
そこに美しい魂(ソウル)の故郷がある
私たちが死ぬこともなく、年老いることのない場所

永遠の歌で王(キング)を讃えよう
そこは私たちが決して死なない場所

ここでの仕事を終え、人生の栄冠を勝ち取ったとき
私たちの悩みと試練が終わりを告げるとき
私たちの悲しみはすべて去り行き
私たちの声は愛する死者たちと溶け合うだろう

文/二階堂 尚

〈参考文献〉『私はリズム&ブルースを創った』ジェリー・ウェクスラー、デヴィッド・リッツ著/新井崇嗣訳(みすず書房)、『フードゥー・ムーンの下で』ドクター・ジョン、ジャック・ルメル著/森田信義訳(ブルースインターアクションズ)、『ブルース』湯川新著(法政大学出版局)


『Blues at Montreux』
キング・カーティス&チャンピオン・ジャック・デュプリー

■1.Junker’s Blues 2.Sneaky Pete 3.Everything’s Gonna Be Alright  4.Get with It 5.Poor Boy Blues 5.I’m Having Fun
■キング・カーティス(ts,as)、チャンピオン・ジャック・デュプリー(p,vo)、 コーネル・デュプリー(g)、ジェリー・ジェモット(b)、オリヴァー・ジャクソン (ds)
■第5回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1971年6月17日

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