ARBAN

【リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド】20数年の時を経て再現されたサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド──ライブ盤で聴くモントルー Vol.58

リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド_ライブ盤で聴くモントルー Vol.58
「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

ビートルズがライブ・ツアーをやめたのは1966年8月だった。それから23年の時を経た1992年、リンゴ・スターは自身のバンドでツアーに出た。バンド名は「リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド」である。メンバーを変えながら今日まで続いているそのバンドが、モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演したのは1992年である。モントルー・フェスに出演した最初で最後のビートル。彼が自分のバンドにかけた思いとは──。

やっぱり僕もツアーに出たいんだ

1970年のビートルズ解散後、4人のメンバーの中でソロ・キャリアの地歩を最も迅速に固めたのはリンゴ・スターだった。解散した年に2枚のアルバムをリリースし、翌年に発表したシングル「明日への願い」は、全米チャートで4位となった。以後、74年の「ノー・ノー・ソング」まで7枚連続でシングルを全米10位以内に送り込み、うち2枚は1位を獲得している。これは、ジョン・レノンもポール・マッカートニーもジョージ・ハリスンも成しえなかった記録である。ほかの3人に比べて創作や表現へのこだわりが希薄だったぶん、ポップ・マーケットに単身軽やかに躍り出ることができた。そんな見方もできると思う。

しかしその間、彼は自分のバンドを持つことはなかったし、ツアーに出ることもなかった。バンドを擁して人前で演奏する欲求が生じたのは1976年のことで、それには2つのきっかけがあった。1つは、米ロサンゼルスでマッカートニーのバンド、ウイングスのライブを見たことである。当時リンゴはこう話している。

「いろいろと考えちゃってね、やっぱり僕もツアーに出たいんだ。それもサーカスのような巡業でね」

しかし、リンゴの心をより大きく動かしたのは、その数カ月後に経験したもう1つのライブだった。彼は観客ではなく演者としてそれに参加している。のちに『ラスト・ワルツ』として映画化されるザ・バンドの解散コンサートである。

ステージの最後にほぼ全出演者によって演奏された「アイ・シャル・ビー・リリースト」に、リンゴはローリング・ストーンズのメンバーとなって間もなかったロン・ウッドとともに参加し、あの何を考えているのかよくわからないクールな表情で淡々とドラムを叩いている。しかし、ボブ・ディラン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、エリック・クラプトンといった大物たちと共演したステージ上で彼は内心興奮していたとみえて、その後のインタビューでツアーの構想を熱く語っていた。

「レビューみたいにしたいんだ。ポールとウイングスみたいなものじゃなくて、リンゴとみんなっていう、もっと舞台のようなやつだな」

「リンゴとみんな」、すなわち「リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド」のイメージがこの時点ですでにあったことがわかる。しかしそれが実現するまでに、その後13年の時間を要した。

アルコール漬けの生活を抜け出して

70年代前半まで少なくともチャート上は成功していたリンゴだったが、活動の実質は日本の芸能人と同じで、テレビ番組に出たり、役者として映画に出演したり、子ども向け番組のナレーションをやったりと、かなり節操のないものだった。経済的に成功したミュージシャンにとって金銭的事情が活動の動機とならない以上、次々にやってくるオファーを興味本位で受けるほかにやることはなく、大衆音楽史上最大の成功を収めたグループの元メンバーとしてのスターダムに安穏と浸る生活が久しく続いた。手間と金のかかるバンド結成とツアーは、思いついたとしても、何か決定的なモチベーションが生じなければそこに向けてあえて動く気にはならない。そういういわばスター病にリンゴは罹っていた。

NME誌などは、リンゴは1970年以降ほとんどの時間を「くだらない映画や旺盛な交尾活動」ばかりに費やしてきた、と書き立てていたが、それもあながち間違っているとは言えなかった。

評伝『リンゴ・スター 遅れてきたビートル』の著者アラン・クレイソンはそう書いている。「旺盛な交尾活動」とはいかにも英国の音楽誌らしいシニカルな表現だが、有り余る金を持つスターがセックス、加えてドラッグとアルコールに金の使い途を求めるのはとくに珍しくもないことで、リンゴの女性関係はかなり派手だったようだし、レノンのようにヘロイン中毒に苦しんだり、マッカートニーのようにマリファナを所持して他国で拘留されるといったことはなかったものの、ビートルズ解散直後から酒への耽溺は始まっていた。

解散のショックを紛らわすために浸り始めた酒の量は年々増加し、音楽活動の停滞やレノンの死によって、飲酒癖はやがてアルコール中毒の症状を呈するに至った。二人目の妻で女優であるバーバラ・バックもやはり大酒飲みであったので、二人の生活は映画『バラと酒の日々』におけるジャック・レモンとリー・レミックを地で行くものとなった。バーバラは語っている。

「2~3カ月ごとにふたりで禁酒をするのだけど、またもとのもくあみになってしまうの。なにかしらの形で助けを求めるべきだと思っていたんだけど、どうしてもそこまでことが運ばなかったのよね」

ついに1988年、二人は揃って米アリゾナのアルコール中毒療養施設に入所することを決意し、5週間の監禁生活を送ることになった。不眠と不安と妄想に悩まされた5週間であったが、その苦しみを経たのちの、酒が完全に抜けた清々しい頭をもって、リンゴは本気でツアーを計画したいと考えるようになった。ここからリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドの企画が本格的にスタートすることになる。

『リンゴ・スター 遅れてきたビートルズ』著・アラン・クレイソン/刊・プロデュースセンター出版局(1998年)

豪華な面子が揃った第一期オール・スターズ

一般に、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドが成立したのは、敏腕プロモーターとして知られていたデイヴィッド・フィショフからのアプローチによるものだったとされている。しかし、リンゴにも主体的かつ積極的な意志があり、また少なくとも最初のツアー・メンバーはリンゴ自身が精選したものであるという『リンゴ・スター 遅れてきたビートル』の記述は信用できると思う。現在では第一期と呼ばれるオール・スターズに、『ラスト・ワルツ』の3人の出演者が加わっているからだ。元ザ・バンドのリック・ダンコ、リヴォン・ヘルムの2人、そしてドクター・ジョンである。『ラスト・ワルツ』のコンサート出演時に抱いた衝動をリンゴは忘れていなかったのだろう。

 オール・スター・バンドのコンセプトをリンゴはこうシンプルに語っている。

「僕はバンドを率いたりはしたくないんだよ。ただ楽しくやりたいし、ごきげんなプレイヤーといっしょにやりたいんだ。友だちといっしょにやりたいんだ」

「友だち」は先の3人以外に、ビートルズ最後期のサポート・メンバーであったビリー・プレストン、イーグルスのジョー・ウォルシュ、ニール・ヤングのバック・バンド、クレイジー・ホースのメンバーであったニルス・ロフグレン、ブルース・スプリングスティーンのE・ストリート・バンドのサックス・プレイヤー、クラレンス・クレモンズ、そしてビートルズ人脈の中で重要な仕事を任されてきたドラマー、ジム・ケルトナーを加えた総勢8名であった。その後メンバーを変えながら現在まで続いているリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドの歴史にあって、最も豪勢な面子が揃ったのがこの第一期であったことは衆目の一致するところである。

ライブの構成は、要所でリンゴがソロになってからのヒット曲や、ビートルズ時代にボーカルをとった曲を歌い、その間にメンバーがそれぞれの持ち歌を歌うというもので、現在聴くことができる第一期のライブ盤では、リンゴの「明日への願い」「ノー・ノー・ソング」のあとに、ドクター・ジョンが「アイコ・アイコ」を歌い、ザ・バンドの「ザ・ウェイト」が続くというかなり贅沢な流れになっている。「ザ・ウェイト」のオリジナル・バージョンでリード・ボーカルを担当していたのは、ヘルムとダンコの2人だった。それがそのまま再現されている。

モントルーに出演した初めてのビートル

ビートルズが1966年にコンサート活動をやめてから23年の時を経て実現したこのツアーに確かな手応えを得たリンゴは、その3年後に再びメンバーを集めてツアーに出ることを決めた。これが第二期リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドである。

メンバーは第一期のジョー・ウォルシュ、ニルス・ロフグレンのほか、トッド・ラングレン、イーグルスのティモシー・B・シュミット、カナダのハード・ロック・バンド、ゲス・フーのバートン・カミングス、ポール・マッカートニーの『ヤァ! ブロード・ストリート』にも参加していたギタリストのデイヴ・エドモンズ、サックス・プレイヤーのティム・カペロ、そしてリンゴの息子で、のちにザ・フーやオアシスに参加するザック・スターキーの9人であった。

この第二期オール・スター・バンドがモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演したのは92年6月である。マッカートニーのウイングスは72年に欧州ツアーの一環でモントルーを訪れているが、これはフェスではない単独公演だった。ビートルズの元メンバーがモントルー・ジャズ・フェスに出演したのはこれが最初であり、現在のところ最後である。

ステージで演奏された全26曲中、ライブ盤には15曲が収録されている。映像作品も以前にVHSとレーザーディスクで発売されていて、これをソースにしたと思われる2時間弱の映像をYouTubeで見ることができるが、正直リンゴ以外は誰が誰なのか判然とせず、尺もかなり長いので、コンパクトに選曲されたCDで楽しむことをお勧めする。

冒頭、先ごろ91歳で逝去したクインシー・ジョーンズがメンバーを紹介する。彼はドイツの歴史あるジャズ・バンド、WDRビッグ・バンドの指揮をするためにモントルーに来ていたのだった。一曲目はジョン・レノンがリンゴに贈った「アイム・ザ・グレーテスト」で、リンゴはドラムを叩かずにボーカルに徹する。3曲目の「イエロー・サブマリン」からイーグルスの「ならず者」「言い出せなくて」とヒット曲が続く流れが前半の大きな山場で、「ならず者」を歌っているのは、この曲がヒットしたときにはまだイーグルスに加入していなかったジョー・ウォルシュだ。

その後、トッド・ラングレンらがやはり自分の持ち歌を歌い、ゲス・フーの最大のヒット曲「アメリカン・ウーマン」に続いてリンゴが歌うのは、ビートルズのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』に収録されていた「ボーイズ」と、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で彼が歌った「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」である。「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ──」は、実際のライブでもアンコールの最後に歌われた曲だった。

 

架空のバンドの架空のショー

友だちのちょっとした助けがあればなんとかなる
友だちのちょっとした助けがあればハイになれる
友だちのちょっとした助けがあるならやってみるよ

こう歌われる「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」は、ほとんどリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドのためにつくられた曲のようで、「友だちといっしょにやりたいんだ」という過去のリンゴの発言とも完全にシンクロしている。

「架空のバンドの架空のショー」というコンセプトでつくられた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』にあって、「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ──」はやはり架空のシンガーであるビリー・シーンが歌う設定になっていた。そのシンガーを演じたのがリンゴである。

『サージェント・ペパーズ』はコンセプト・アルバムの嚆矢とされるが、マッカートニーが考えたコンセプトが成立しているのは最初の2曲だけ、つまり表題曲と「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ──」までである。終盤に表題曲のリプライズを入れることで一貫性を何とか保たせてはいるが、実はそれほどトータリティがある作品ではない。レノンは、自分たちがコンセプト・アルバムと言ったからそう言われるようになっただけで、コンセプトなどまったく成立していない、といったことを語っている。リンゴも同様のことを話していた。

マッカートニーが構想し、結局は構想のままに終わった「架空のバンドの架空のショー」というコンセプト。それを22年後に受け継いだのがリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドであったと考えてみたい誘惑にかられる。リンゴは「サーカスのような巡業」をして、コンサートを「レビューみたいにしたい」と言っていた。まさにサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのイメージそのままではないか。『サージェント・ペパーズ』には、「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」というサーカス団の曲もあった。

その架空のバンドを再現するに最もふさわしいメンバーはリンゴだった。彼はバンドのシンガーであるビリー・シーンだったのだから。

「ビートルズ第4の男」の満ち足りた人生

リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドは、モントルー出演後も数々の「友だち」を加えて今日まで続いている。2019年に来日したのは14期、現在は15期だそうである。第3期以降のメンバーをかいつまんで挙げてみると、ジョン・エントウィッスル、ジャック・ブルース、ビーター・フランプトン、エリック・カルメン、イアン・ハンター、シーラ・E、コリン・ヘイ、スティーヴ・ルカサーなどとなる。これはもちろん一部に過ぎないが、メジャーな顔ぶれを見るだけでもまったく脈絡のない面子であり、みんなが実際にリンゴの「友だち」であったかどうかも疑わしい。おそらくは、ギャラとスケジュールとビートルズに対するリスペクトの度合いなどを鑑みたうえで、ツアー・プロデューサーがメンバーを選定しているのだと思う。旬を過ぎたミュージシャンたちの営業といった側面もなくはない。

しかし、そんなことは演者も観客も承知の上である。それで何が悪いかと言えるのは、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドとは「架空のバンド」であり、そのコンサートはサーカスのようなエンターテイメント・ショーだからである。

「ただ楽しくやりたいし、ごきげんなプレイヤーといっしょにやりたいんだ」とリンゴは言った。切実な言葉だと思う。ビートルズの最後は「楽しく」も「ごきげん」でもなかった。それに最も胸を痛めていたのはリンゴであったと伝わる。それから長い年月を経た今、「ビートルズ第4の男」は一切のプレッシャーから解放され、80代半ばにして「楽しくごきげんな」バンド活動に邁進している。まことに満ち足りた人生と言うべきだと思う。

※引用は『リンゴ・スター 遅れてきたビートル』アラン・クレイソン著/ザ・ビートル・クラブ監修(プロデュース・センター出版局)より

文/二階堂 尚


『Live from Montreux』
リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド

■1.Introduction 2.I’m the Greatest 3.Don’t Go Where the Road Don’t Go 4.Yellow Submarine 5.Desperado 6.I Can’t Tell You Why 7.Girls Talk 8.Weight of the World 9.Bang the Drum All Day 10.Walkin’ Nerve 11.Black Maria 12.In the City 13.American Woman 14.Boys 15.With a Little Help From My Friends
■リンゴ・スター(vo,ds)、ジョー・ウォルシュ(g,vo,etc)、ニルス・ロフグレン(g,vo)、トッド・ラングレン(g,vo,etc)、デイヴ・エドモンズ(g,vo)、バートン・カミングス(kb,vo)、ティモシー・B・シュミット(b,vo)、ティム・カッペロ(sax)、ザック・スターキー(ds)
■第26回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1992年6月13日

ARBANオリジナルサイトへ
モバイルバージョンを終了