投稿日 : 2018.01.12 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】鈴木良雄|祖父は日本の “ヴァイオリン王”

インタビュー・文/小川隆夫

鈴木良雄 インタビュー
連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。

鈴木良雄/すずき よしお
ベース奏者。1946年3月21日、長野県木曽福島生まれ。幼少期から両親にヴァイオリンとピアノを習い、中学でウクレレ、高校でギターを弾く。早稲田大学進学後はピアニストとしてモダン・ジャズ研究会に所属。大学二年の学園祭で渡辺貞夫と共演。その縁でベースに転向し、69年に渡辺貞夫カルテットに参加。71年に退団し、直後に菊地雅章のコンボに参加。退団後の73年にニューヨークに移住。直後からスタン・ゲッツ・カルテット、その後はアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズなどに加わり活動。70年代末には自身のグループを結成。85年の帰国後も基本的に自分のグループで活動し、現在にいたっている。

 

疎開先で生まれて

——生まれは?

長野県木曽福島で、1946年3月21日です。

——東京に出てきたのは?

中学一年になったとき。木曽福島は疎開先で、小学校六年までそっちにいたから。

——疎開先は親戚筋?

それは名古屋の親戚関係。木曽川を遡れば木曽福島だから、名古屋とは縁が深い。両親と親戚が知り合いを頼って、住み着いた。

——鈴木家はもともと東京だった?

祖先は名古屋だけど、うちの家族は東京の大森にいた。そこを焼け出されて、親戚と一緒に疎開する。オレはそこで生まれて、住み着いた形になって。姉貴が桐朋学園に行くので、オレより1年早く親父と東京に出て。オレとお袋と、一緒にいたお手伝いさんとかはあとから。

——東京はどこですか?

最初は荻窪。中学、高校とあの辺の学校を出て。

——木住野佳子(きしのよしこ/p)さんと同じ高校だとか。

よく知ってるじゃない(笑)。阿佐ヶ谷の杉並高校。

——チンさん(鈴木良雄の愛称)は鈴木ヴァイオリン(注1)やスズキ・メソード(注2)の一族で

伯父の鎮一(注3)が松本でスズキ・メソードを始めた。

(注1)1887年、三味線職人だった鈴木政吉が初めて見たヴァイオリンに惹かれ、見よう見まねで制作を開始。翌88年に第1号完成。90年に工場を建設し、本格的な生産を開始。

(注2)創始者である鈴木鎮一が、46年、長野県松本市に松本音楽院を設立したことに始まる。才能教育五訓を根幹にした「母語教育法」に特徴があり、海外にも積極的に進出。現在の生徒数は公表で世界中に40万人。

(注3)鈴木鎮一(ヴァイオリン奏者 スズキ・メソードの創始者 1898-1998)ドイツでヴァイオリンを学ぶ。スズキ・メソードの創始者で、音楽教育家および教育学の理論家として世界的に著名。72年ロチェスター大学より名誉音楽博士号、76年「モービル音楽賞」、78年「ケネディ・センター」(カーター大統領夫妻列席)、「カーネギー・ホール」などで日米親善コンサート、82年「第1回千嘉代子賞」、85年ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労賞、以後もクリーブランド音楽大学、セントアンドリューズ大学、イサカ大学、メリーランド大学などより名誉博士号を授与。

——チンさんもそこでヴァイオリンのレッスンを受けたんですか?

3歳から親父にヴァイオリンを習っていて。3つ違いの姉はスズキ・メソードの血を引くというか、子供のころにスパルタ式に鍛えられたみたい。オレのときは親も疲れて、「適当にやってろ」(笑)。お袋はスズキ・メソードでピアノ教師の長だった。だからピアノも小学校の四、五年くらいまで手ほどきを受けて。でも〈エリーゼのために〉とか、あのへんのちょっと上くらいまでができただけの話で、本格的にはぜんぜん。

——お父様はなにをされていたんですか?

親父は鈴木ヴァイオリンの木曽福島工場の社長をやって、工場製と手工品のヴァイオリンを作ってた。いろいろなことがあって、工場がひと手に渡ったんでときどき東京に出て、手工品のいいヴァイオリンを作って売っていた。

お祖父さんが鈴木政吉(注4)といって、ヴァイオリン王といわれているひと。尾張の下級藩士の息子として生まれて、最初は三味線作りで、のちにヴァイオリンを作るようになった。鈴木ヴァイオリンはかなり大きくなったけど、戦争とかがあって。その後に鎮一がスズキ・メソードを始めた。

(注4)鈴木政吉(ヴァイオリン製作者 1859-1944)鈴木バイオリン製造株式会社の創業者。ヴァイオリン製作技術を独学で身につけ、1900年パリ万国博覧会の楽器部門で入賞。息子の鎮一はスズキ・メソードの創始者。

親父はヴァイオリンも弾くし、ヴァイオリンも作る。あのころでは珍しい鈴木カルテットという弦楽4重奏団もやって。鎮一が第1ヴァイオリンで親父が第2ヴァイオリン、ヴィオラとチェロも兄弟で。お爺ちゃんには十何人か子供がいるから。

最初の音楽体験

——最初の音楽体験は?

3歳のときのヴァイオリンかな。お袋がピアノを教えていたから、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトの曲とか、姉貴もヴァイオリンをやっていたからそういう曲は小さなときから耳にこびりつくくらい聴いていた。

——自分でもピアノを習っていたし。

あとになってのことだけど、ベースには弓弾きがふた通り、逆手で弾くジャーマン・スタイルと順手のフレンチ・スタイル。ヴァイオリンは順手だけど、最初は逆手だったからなにか馴染めなかった。それで順手がいいと、フレンチ・ボウに変えてみたらぜんぜんやりやすい。アップ・ボウ、ダウン・ボウがあって、「この音符はアップ・ボウでいってからダウン・ボウにすればいい」って自然にできる。ほかは覚えてないけど、これだけは身体が覚えていた(笑)。

——クラシック以外の音楽が最初に耳に入ってきたのはいつごろ?

最初に驚いたのは、お祭りで町の拡声器から流れてきた歌謡曲。「なに、この音楽は?」。〈お富さん〉(注5)ってあるでしょ。それまでは西洋音楽しか聴いてなかったから、「これも音楽なのかな?」と思ったのが、最初のショックというか。

(注5)春日八郎の歌で54年8月に発売され、その年に大ヒットした歌謡曲。作詞=山崎正、作曲=渡久地政信。

——それがいくつのとき?

小学校の二年とか三年とか。あとは中学一年のときに林間学校で山に行ったときに、同級生がウクレレを弾いて歌ってた。そのときに初めてポピュラー音楽を生で聴いて。女の子に「キャーキャー」いわれているのを見て、「これ、いいなあ」。帰ってすぐ親父に「鈴木ヴァイオリンにウクレレないの?」って聞いたら、「あるはずだよ」。ウクレレはすぐ弾けるようになった。

——見よう見まねで?

レコードを聴いたかは覚えてないけど、コード譜があればウクレレは簡単。あとは、そいつが歌っていたハワイアン。「ああ、やんなっちゃった」みたいなヤツ(笑)。中学のときはウクレレを一生懸命にやって、それでけっこう弾けるようになった。

高校に行ったら、一年の臨海学校で、今度はギターを弾いているやつがいて(笑)。ウクレレに比べたら音楽的だし、「かっこいい、絶対にやらなくちゃ」と思って、親父に(笑)「ギターないの?」。それでギターを始めて、要するにコードを弾きながら歌うスタイル。ブラザーズ・フォア(注6)やトリオ・ロス・パンチョス(注7)、あとは〈禁じられた遊び〉とかのクラシックもやった。

(注6)57年にワシントン州シアトルで結成されたフォークソング・グループ。60年に〈グリーンフィールズ〉が大ヒットした。

(注7)メキシコ人のアルフレッド・ヒル、チューチョ・ナバロ、プエルトリコ人のエルナンド・アビレス によって44年に結成されたラテン音楽のグループ。60年代に日本でも高い人気を誇り、〈ある恋の物語〉〈ラ・マラゲーニャ〉〈キサス・キサス・キサス〉〈ベサメ・ムーチョ〉〈その名はフジヤマ〉などが連続ヒットした。

高校の3年間はとにかくギターにのめり込んで、毎日のようにいじってた。テレビを見ながらでもギターを弾いて、「あのコード、なんだろう?」とやって、絶対に手から離さなかった。ギターを弾くきっかけにもなった友だちとコーラスもやってた。屋上に行く階段の途中に吹き抜けがあって、そこでやると音がすごく響くんで、気持ちがいいし、誰も来ない。そこで毎日のように練習してたら、ほかにも「入れてくれ」っていうやつが来て。そいつは高校三年にしては珍しくモダン・ジャズも知ってたんだよね。その3人でコーラスをやって、文化祭に出たりして。女の子に受けるように、流行っていた〈高校三年生〉(注8)もやって。「キャーキャー」いわれるのが快感で(笑)、動機は不純だよね。

(注8)63年6月にリリースされた舟木一夫のデビュー・シングル。作詞は丘灯至夫、作曲は遠藤実。発売1年で売上100万枚を越す大ヒットとなり、舟木を一躍スター歌手にした。累計売上は230万枚。

ジャズとの出会い

3年のときに喫茶店で勉強していたら〈テイク・ファイヴ〉が聴こえてきた。それがすごく衝撃的で、「なんだろう、この音楽?」「同じパターンの繰り返しだし、拍子も違うし、いままで聴いたことのない音楽だ」みたいな感じで、釘づけになった。一緒にコーラスをやっているジャズ好きに、「こんなリズムの曲、知ってる?」って聞いたら、「それ、〈テイク・ファイヴ〉だよ」。すぐレコードを買いに行ったら、その曲が入っていたデイヴ・ブルーベック(p)の『タイム・アウト』(コロムビア)(注9)があって、それが一番最初に買ったジャズのLP。

(注9)メンバー=デイヴ・ブルーベック(p) ポール・デスモンド(as) ユージン・ライト(b) ジョー・モレル(ds) 59年6月25日、7月1日、8月18日 ニューヨークで録音

アブストラクトな絵を見ているような感じで、いままで聴いていたものとはぜんぜん違う音楽だなと思った。『タイム・アウト』の中にはクラシック的な曲がいろいろあるじゃない。それもあって、入りやすかった。

ピアノがちょっと弾けてたから、「どんなことをやってるんだろう?」と思って、完璧じゃないけどパターンをコピーしてみたの。同じアルバムに入っていた〈トルコ風ブルー・ロンド〉も面白かったし。

どうせ大学は浪人と思っていたら、うまく引っかかって早稲田に入っちゃった。クラブに誘う新入生歓迎会コンサートが「大隈講堂」であって、ハイソサエティ・オーケストラとか、ニューオルリンズジャズクラブとか、ナレオ・ハワイアンズとか、モダン・ジャズ研究会、あとはマンドリン・クラブも出てたかな? ギターをやってたし、ジャズにも興味を持ち始めていたから、「オレもなにかやりたいな」と。

そうしたら出店があって、最初に行ったのがジャズ研の出店。「最近、ちょっとジャズに興味をもってきたんですけど」といったら、「来週の火曜日にオーディションをやるから部室に来いよ」。それで扉を開けたのが運命のわかれ道(笑)。パンドラの箱じゃないけど、開けちゃった(笑)。

けっこう吹けるヤツもいて、課題曲が〈イエスタデイズ〉。オレはなんにも知らないけど、途中までメロディを弾いて、「あとはわかりません」「じゃあ、お前は座ってろ」。みんな終わって、「これだけか?」となったときに、「ちょっとピアノも弾けるんですけど」といって〈トルコ風ブルー・ロンド〉を弾いたら、みんながびっくりしちゃって。「すごいじゃないか」。すごいとは思っていなかったけど、「お前はピアノをやれ」。それでギターはやめて、ピアノになった。

——クラブなのにオーディションがあるんだ。

どのくらいできるかのチェックだよね。変なクラブで、老けたひとがいたから「顧問の教授かな?」と思ったら学生だったとか(笑)。サングラスしてドラムスを叩くひともいて、「このひと、ヤクザかな?」。それがマネージャーだったり(笑)、もうビックリ。こっちは高校を卒業したばかりでウブだから。

1年のときは、とにかくピアノを一生懸命にやって。そのころは教えてくれるひとがいないから、「どうしたらああいう音がするんだろう?」。左手にセヴンスの音を持ってきて、「ああ、これだ!」と見つけたときは嬉しかった。

そうやってある程度わかってきたころ、2年のときだけど、増尾(好秋)(g)が入ってきた。部室にベースが転がっていたから、〈朝日のようにさわやかに〉や〈枯葉〉とかはなんとなく弾けるようになっていた。それでオレがベースを弾いて、増尾とやったの。そうしたら滅茶苦茶にうまいし、サウンドもドミソじゃなくて、テンション・ノートも使っていて驚いた。ウエス・モンゴメリー(g)とかのコピーだったけど、レヴェルがぜんぜん違う。オクターヴ奏法もできるし、レコードから聴こえてくるようなサウンドがしていた。

「誰にも教わらないで、レコードを聴きながら自分でやってきた」っていうし。周りにそういうひとがいなかったから、初めてひとと合奏したのがオレだった。増尾は、オレよりぜんぜん早くて、中学のころからジャズをやってた。それまでにも音楽のできるひとには会ってたけど、「こいつはすごい」と思ったのは増尾が初めて。

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