投稿日 : 2018.01.12 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】鈴木良雄|祖父は日本の “ヴァイオリン王”
インタビュー・文/小川隆夫
渡辺貞夫と共演
——渡辺貞夫(as)さんと知り合うのがこの少しあと。
貞夫さんは、アメリカへ行く前に「レコード売ります」という広告を『スイングジャーナル』(注10)に出したのね。幸田(稔)(注11)がそれを見て、貞夫さんのうちに行って。だけどみんな売れちゃってて、残っていたのは2、3枚だけ。貞夫さんが、「これは一生懸命に練習したチャーリー・パーカー(as)のレコードだから売れないけれど、わざわざ来てくれたから」といって、くれたらしい。
(注10)47年から2010年まで発刊された日本のジャズ専門月刊誌。
(注11)バードマン幸田(「Jazz Spot J」店主 1945年~)本名は幸田稔。早稲田大学モダン・ジャズ研究会でサックス奏者として活躍。会社勤務後、78年にタモリなどジャズ研OBの共同出資で「Jazz Spot J」を開店、店主となる。
増尾と銀座の「ジャズ・ギャラリー8」に、佐藤允彦(p)さんと滝本達郎(b)さんと小津昌彦(ds)さんのトリオを聴きに行ったときのこと。司会の相倉久人(注12)さんが、「昨日、渡辺貞夫がアメリカから帰ってきたので、夜に来るかもしれません」。「ええ!」となって、オレたちは昼の部から一番前の席で待ってたの。そうしたらほんとうに来たんだよね。目の前でブワーって吹いて、のけぞるぐらい驚いた。
(注12)相倉久人(音楽評論家 1931~2015年)【『第1集』の証言者】東京大学在学中から執筆開始。60年代は「銀巴里」「ピットイン」、外タレ・コンサートの司会、山下洋輔(p)との交流などで知られる。70年代以降はロック評論家に転ずるも、近年はジャズの現場に戻り健筆を振るった。
それで、直後の早稲田祭に「貞夫さん、来てくれないかな?」という話になった。幸田に接点があったから、「ほとんどギャラは出ないですけど、来てもらえませんか?」とダメ元で頼んだら、「おお、いいよ」。帰ってきたばかりだったから、サックスを抱えて早稲田祭に来てくれた。始めたら、「なんだ、これは?」とみんながぶったまげてた(笑)
——このときはチンさんがピアノで。
増尾は貞夫さんについていけたけど、オレはできる曲だけをピアノで弾いて。あとは、先輩のベースとドラムス。即決されたわけじゃないけど、増尾は、貞夫さんが「日本にもこんなギターがいるんだ」ってことで、オレが三年くらいのときに貞夫さんのバンドに入ったよね。
——そのころのチンさんは?
オレはピアノをずっとやっていて、四年くらいになったらまあまあ弾けてたし、プロからも「やらないか?」と誘いもあった。そのころは、アルバイトでバーみたいなところでもちょっと弾いたりして。増尾のお姉さんがピアニストで、ホテルのラウンジでやってたのをトラ(エキストラ)で頼まれたりとか。そういうのをやって、卒業する寸前にはレギュラー・バンドに入っていた。赤坂に、アメリカの統治下にあった「山王ホテル」があったじゃない。あそこで、オレとギターとベースのトリオで。
——貞夫さんとはそれっきり?
貞夫さんのところには理論を教わりに行ってた。増尾も行ってたし、今井尚(たかし)(tb)も行ってた。学生もプロも一緒になって、習いに行ってたの。初めて貞夫さんがジャズの理論をアメリカから持って帰ってきたからね。それまで、日本のミュージシャンはみんな「こんなものかな?」という程度でやっていた。それを、「ここはこういうことで」といってね。それが大学二、三年のころ。
——それは貞夫さんの家で?
銀座のどこかに部屋を借りて。学生は数えるほどしかいなかったけど、最初の講義からオレは行って。そのときは山下洋輔(p)さんもいたし、プーさん(菊地雅章)(p)もいた。それでしばらくするうちに生徒が増えたので、貞夫さんが恵比寿のヤマハで教室を始めて、オレも通いだす。毎週1回だったかな?
みんなある程度やり方がわかってきたら、アレンジを書く。発表会みたいなこともやって、オレが持っていったのは〈酒とバラの日々〉。サックスもいっぱいいるし、トランペットもいっぱいいる。ドラムスもピアノもいる。だけどベースがいない。みんなの発表する曲を合奏するのに、ベースがいないとどうしようもない(笑)。
貞夫さんが「弾けるヤツはいないか?」というから、「これくらいの曲なら弾けます」。そこにあったヤマハのベースを弾いたら、貞夫さんが「いいじゃないか、オレのバンドで弾かないか?」。ピアノでデビューして1年も経っていなかったから、そのときはそれで終わったけど、そのあとも真剣に「ベースやってくれないか?」と。
——誘われてもすぐには入らなかった。
「山王ホテル」の真ん前にキャバレーがあって、いまは京都にいる藤井(藤井貞泰)(p)さんがそこでやってたの。彼が、「バンドを辞めるけど、やってみる?」「やります」。「山王ホテル」のバンドはつまらなかったから、そのキャバレーに移って。そのときのベースがゴンちゃん(水橋孝)。サックスが菊地の秀ちゃん(菊地秀行)(as)で、バンマスが権藤さんというドラマー。
権藤さんは仕事を取ってくるマネージャー・タイプ。最初は赤坂だったけど、五反田に移って、次は横浜の日の出町。どんどん場末になっていく(笑)。ちゃんとした演奏もするけど、彼はなんでもOKしちゃうひとだったから、「バンドさん、ショータイムよ」って、ストリップの伴奏もやらされる。「参ったなあ」と思ったけど、一生懸命やってた。
五反田のときも、最初はジャズをやってるけど、「お客さん、リクエストありますか?」と聞いちゃうんだよね。〈網走番外地〉とかいわれると、やるわけ。こんなに厚い『歌謡曲全集』が置いてあって、「はい、これ」。そういうことで、荒んだ感じだった。日の出町の店では、夏の暑いときにもタキシードを着て。貞夫さんに「ベースをやらないか?」といわれたのがそういうタイミングだった。
ベーシストで渡辺貞夫カルテットに参加
——でも、すぐにはベースに転向しなかった。
ピアノをプロでやっていたのは6か月くらいかな? ベースになって、最初に入ったのが大野雄二(p)さんのバンド。大野さんの家に遊びに行って、ピアノのサウンドを教わったりしていた。そこにあった稲葉(國光)さんのベースを遊びで弾くと、「いいじゃないか」なんていわれて。あるとき、大野さんに「ベースに変わりました」といったら、「明日から来い」。
——貞夫さんのバンドに入る前からベースで活動はしていたんだ。
大野さんのバンドで、六本木の地下にあった店でやって。歌がケメコ(笠井紀美子)。赤坂のホテルで大沢(保郎)(p)さんともやったし。それで大沢さんのところにいたとき、貞夫さんが「だいぶ弾けるようになったか?」「わかんないですけど」「今度やってみろ」となって、後日、「ピットイン」でやったら、貞夫さんが「バンドに入れ」。
ベースをやると決心してからは、ピアノはいっさいやめて。姉貴と桐朋で同級生の日本フィルのベースのかたに習って、1年くらいやったのかな? ピアノをやめて、1年後くらいには貞夫さんのところでベースを弾いていた。
——それが……
23歳のとき。
——最初の仕事は覚えていますか?
文男(渡辺文男)(ds)ちゃんと増尾で「ピットイン」。文男ちゃんなんか髪の毛がアフロで、「すごいな、プロのバンドはぜんぜん違う」。ラウンジでやっているバンドとはエネルギーもまったく違った。
——参加したのが69年。そのころの貞夫さんのバンドはオリジナルが中心? ボサノヴァなんかもやっていたのかしら?
入ったばかりのころは、ラジオで「ナベサダとジャズ」(注13)をやっていたときで。そうすると、ボサノヴァはやるわ、ビートルズはやるわ、チャーリー・パーカーはやるわと、なんでも。ぜんぶで1000曲くらいやったんじゃないかっていうぐらい。1回が15分で、2、3曲を2週間分録り溜めする。音録りするのが毎回30曲くらい? 昼間に練習して、夜が公開録音。
(注13)69年4月から72年6月1日まで、月〜金曜の午後11時から15分間ニッポン放送で放送されていた。
——それがいい勉強になった。
滅茶苦茶に鍛えられた。
——「ピットイン」とかでは、〈パストラル〉のような新しい音楽をやっていたと記憶していますが。
もちろんやってた。『パストラル』(CBSソニー)(注14)が最初のレコーディングだからね。
(注14)メンバー=渡辺貞夫(as fl sns) 八城一夫(p) 増尾好秋(g) 松本浩(vib) 鈴木良雄(b) 渡辺文男(ds) 田中正太(flh) 松原千代繁(flh) 69年6月24日、7月8日 東京で録音
——そのころはすごい人気になっていたでしょ。
貞夫さんがガーッときてたときだから、民音(注15)や労音(注16)のコンサートがいっぱいあった。「ナベサダとジャズ」の地方公演もあって、札幌、大阪、名古屋とかの大きなホールで公開収録する。手前味噌じゃないけど、増尾がいうには、オレが入るまでは、1か月ごとにベースが変っていたらしい。そんなときにたまたまオレがいたもんだから、まあ面白いよね。運命の偶然というか。
(注15)「一般財団法人民主音楽協会」の略称。音楽文化の向上や音楽を通して異なる文化との交流などを目的に、創価学会の池田大作会長(当時)によって63年10月18日創立。
(注16)「全国勤労者音楽協議会」の略称。各地に会員を有する音楽鑑賞団体で、49年11月に大阪で創立。
——ラウンジやキャバレーでやっていたひとが日本で一番のジャズ・バンドに入ったじゃないですか。その落差は?
落差ねえ。増尾が先に入っていて、「いいな」とは思っていた。オレはこのままピアノをやって、秋吉敏子(p)さんの〈ロング・イエロー・ロード〉じゃないけど、「長い道のりだ」って、のんびりやってたの。プロ意識もなにもあまりなく、ただ弾いてただけの話で。