投稿日 : 2018.01.12 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】鈴木良雄|祖父は日本の “ヴァイオリン王”
インタビュー・文/小川隆夫
ジャズ変遷の渦中に身を置く
——チンさんが入ったころは、貞夫さんを頂点に日本のジャズがブームになっていました。ロックみたいに大勢のひとが集まるようになって。
ロックまではいかないにしても、かなりのひとが来てたよね。たしかにジャズがブームだった。
——そういう渦中にいて、どんなことを感じていました?
やっぱり有頂天だった。自分を見失ったところもあって。自分がやっていることで音楽的に満足がいかないことも多くて、プレイバックを聴くと欠点しか聴こえてこない。自信はなかったし、逃げみたいな方向にいったこともある。
——プレッシャーから?
世の中に出てみると、自分がぜんぜんダメだということがわかった。ちっちゃい人間というか、自信を持つところまでいってなくて、自己嫌悪に近い感じだったんだろうね。ノホホンときて、子供のころから荒波に揉まれる体験がなかった。それでだんだん崩れちゃったというか、そういう悩みはあった。超えなきゃいけないものがあるけど、超えられない不安というか。
——貞夫さんが顕著な例だと思いますが、スタンダードやジャズの有名な曲をやっていたミュージシャンがオリジナルをやるように変わってきた。チンさんが貞夫さんのバンドに入ったころからでしょ?
入ったときは、貞夫さんの音楽が変わっていくところだった。オレの前はベースが池田芳夫さんで、「エレベ(エレクトリック・ベース)も弾け」っていうから、池田さんからヤマハのエレベを譲り受けて、両方を弾いてた。いま考えると、あのときはマイルス(デイヴィス)(tp)が電化のジャズを始めて、日本のミュージシャンもそれになびいちゃった。貞夫さんもそっちをやってたし。
——ベーシストで影響を受けたひとは?
ウイントン・ケリー(p)が大好きだったから、そうなるとポール・チェンバースがベースでしょ。それが耳にずっと残ってた。ベースに替わってからはロン・カーター。ミロスラフ(ヴィトウス)が出てきたときはミロスラフみたいに弾いたりとか。
——増尾さんはロックのギタリストも聴いていたそうだけど、チンさんはジャズ以外の音楽って、聴いていたんですか?
聴いていたのはジャズとクラシックだけ。ロックは一度も好きにならなかった。ビートルズは聴いたけど、ロックのコンセプションに痺れたことはない。
——エレベを弾いていても関係なし?
エレベを弾いてるときに、増尾が「ロックみたいなのをやりたい」といって、つのだ☆ひろと一緒にやったことはある。だけど、やっぱり好きじゃなかった(笑)。
——ロック・フェスティヴァルで増尾さんとチンさんとつのださんが出ていたのを観たことがあります。
あのころはマーシャルのアンプをふたつ繋いでエレベを弾いたりしていたけど。血迷っていた時期だから(笑)。
——ロックのミュージシャンとセッションもしていたでしょ。
エディ藩(注17)とかね。それは増尾の関係で、頼まれてやっただけの話。オレの中の一番元にあるのはクラシックのフィーリングと日本的な感性だから。
(注17)エディ藩(g 1947年~)本名は潘廣源。66年にデイヴ平尾(vo)を中心に結成されたザ・ゴールデン・カップスのギタリスト。ヒット曲は〈長い髪の少女〉など。69年エディ藩グループ結成。その後も何度か再結成されたザ・ゴールデン・カップスに参加
——貞夫さんのバンドにいたのは1年半くらい?
そうかな?
——「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」に出たのが70年の夏で、その年が終わって、明けて、バンドが解散になる。
そんなに簡単じゃなかった気がするけどなあ。69年に入って71年に終わっているから2年くらいだろうけど。
菊地雅章のバンドに抜擢
——そのあと、プーさんのバンドにすぐ入る?
貞夫さんのところが終わって、増尾と直居(隆雄)(g)に声をかけて、「ニューヨークに行こうよ」と。だけどそのときは気分がダウンしていて、この状態でアメリカでやっていく自信がなかったから、行かなかった。そうしたらプーさんが来て、「オレのバンドでやらないか?」と誘ってくれて。
——プーさんのバンドは2年くらい?
ニューヨークに行ったのが73年の10月だから、それまで。71年の3月から2年半くらいか。ニューヨークに行く前に、貞夫さんが「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」に出ることになって、「一緒に行ってくれないか?」。そのときは本田竹曠(p)と文男ちゃん。そのツアーにつき合って、日本に帰ってからニューヨークに行ったの。
——プーさんはプーさんでたいへんだったでしょ?
貞夫さんとはまったく違うことを鍛えられたから、別の理由で落ち込んで。「なんであんな音で弾くんだ」といわれると、ますます自信を失くして。要するにプーさんの世界だよね。ピアニストというより、武満徹(注18)さんと同じくらい頭の中は芸大の作曲科。
(注18)武満徹(作曲家 1930~96年)現代音楽の世界的な作曲家。多くの映画音楽も手がけ、『不良少年』(61年)、『切腹』(62年)、『砂の女』(64年)で、それぞれ「毎日映画コンクール音楽賞」受賞。60年代中盤には若手だった日野皓正(tp)がその映画音楽にしばしば起用されている。
——プーさんの音楽は演奏するのが難しい?
理論的にはすごいところにいっているひとだけど、それは作曲家としてすごいということで、プレイヤーとして卓越していたとは感じなかった。プレイヤーとしてひとになにかを伝えようと思ったら、あの唸り声はやめないといけない。バラードなんかプーさんのピアノより声が大きくて。しようがないからオレも声を出してやってたけどさ、一時はね(笑)。
——音楽的に学ぶものは多かった?
こういう音楽のアプローチの仕方もあるんだなということはわかったけど、オレには貞夫さんの音楽性のほうが近かった。
——あの時代にこのふたりのバンドに入っていたのはすごいことですよね。
ふたりに鍛えられたから。
——チンさんはバンドは持っていなかった。
自分のバンドを作るのはアメリカに行ってから。
——レコーディングやセッションには参加していたでしょ。
ケメコのをやったり。オレのリーダー作は、アメリカに行く前は一枚しかない。
——それが『フレンズ』(CBS・ソニー)(注19)。あれは、友人でもある伊藤潔(注20)さんがプロデューサーで。
それもあったけど、増尾がすでに2枚、彼とアルバムを作っていて、オレのはなかったから、潔が「そろそろやったほうがいいんじゃない?」「じゃあやろうか」となって。
(注19)当時ライヴ・シーンで交流のあった精鋭と組んで吹き込んだ初リーダー作。メンバー=鈴木良雄(b) 峰厚介(ss ts) 本田竹曠(p) 村上寛(ds) 宮田英夫(fl) 73年5月10日、11日 東京で録音
(注20)伊藤潔(レコード・プロデューサー 1946~)大学卒業後、設立された直後のCBS・ソニーに入社。渡辺貞夫、増尾好秋、鈴木良雄などの作品を手がけ、70年代中盤からは日本フォノグラムのジャズ・レーベル、East Windで伊藤八十八プロデューサーと多くのジャズ作品を制作。現在もフリーで活躍中。
——ニューヨークには、増尾さんたちと行くのはやめたけど、そのときから行こうと思っていた?
もともといい出したのがオレだから。だけどプーさんのバンドに入っていたから、増尾より2年半遅れたのかな? ニューヨークに初めて行ったのは、貞夫さんと「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」に出たときで、そのころ知ってるひとといえば中村照夫(b)さんしかいなかった。その友だちにスティーヴ・ジャクソンというドラマーがいて、彼が「日本に来たい」といったんじゃないかな? それで日本に来て、寛(村上寛)(ds)のうちに下宿していた。オレもスティーヴと仲よくなって、いずれニューヨークに行こうと思っていたから英語を習ったりして。
ニューヨークに移住
——ニューヨークに移って、最初は?
プーさんのバンドで一緒だったコウちゃん(峰厚介)(sax)も「ニューヨークに行きたい」といって、貞夫さんもアメリカに用事があるというんで、3人で行ったの。貞夫さんはすぐに帰って、コウちゃんとオレは一緒に住んだわけ。そのときのアパートを見つけてくれたのがスティーヴ。
——どのあたり?
79丁目のヨーク・アヴェニュー。
——アッパー・イーストの高級住宅街じゃないですか。
ジャーマンタウンといってすごくいいところだけど、家賃が高い。最初はコウちゃんとシェアしてたからいいけど、コウちゃんの嫁さんが来るというんで、「じゃあ、オレは出るから」。ウエスト・ヴィレッジのホレイシオ・ストリートにアパートを借りて。ふたりで700ドルくらいだったところが、ひとりになったら100ドルくらい。安い、汚いで、床がかしいでいたけど(笑)。
そのころは、ニューヨークで日本レストランが2つか3つくらいしかなくて。バスに乗ってイーストのセカンド・アヴェニューに行くと「ミエ・レストラン」がある。可愛い娘がいたから足繁く通っていたの(笑)。別のウェイトレスが、「この上に住んでいるけど、引っ越すので、どう?」。ウエストサイドのアパートより立派で、家賃も安かったから「いいよ」。「ミエ・レストラン」の上だったらいつでも日本食が食べられるし。
——それ、12丁目のセカンド・アヴェニューですね。
住んでみたら、あの辺は柄が悪くて、毎日のように救急車が通る。また荒んだ生活になって(笑)。
——そこは長かった?
1年くらい。そのころに女房と知り合って。それで「ミエ・レストラン」のアパートを引き払い、日本に帰って結婚して。
——それが何年のこと?
30歳のときだから76年。グリーン・カードの申請中はアメリカから出られない。やっとグリーン・カードが取れたので、6月に結婚して。今度は日本で女房のグリーン・カードが取れるのを待って。夏にニューヨークに戻って、16丁目のフィフス・アヴェニューかシックス・アヴェニューのアパートに入る。そこには半年もいなかった。
——「マンハッタン・プラザ」(パフォーミング・アーティスト用の市営アパート)に入ったから?
「マンハッタン・プラザ」ができた話は聞いていたけど、あそこはナインス・アヴェニューの43丁目でしょ。とんでもないところだと思っていた。ところがター坊というベースがそこに入っていたの。話してたら、「チンさん、すごいよ。プールもあるし」「エエッ」「テニス・コートも3面あって」「エエッ」。それですぐに申し込んだら、しばらくしてそこのひとが審査に来て。
入居できる条件は貧乏で、立派なところに住んでいるひとはダメ。それと、本当にミュージシャンかの確認。貧乏というのは、部屋に入れば家具がほとんどなかったから「OK」(笑)。それでしばらくしたら入れた。
——「マンハッタン・プラザ」には家賃の決まりがあって。
収入の4分の1が家賃だから、年収が2000ドルなら年に500ドル。
——ありえないくらい安い。簡単に入居できたんですか?
あそこはツイン・タワーで、オレのほうはほぼ埋まってたけど、ハドソン・リヴァー側のタワーはまだ半分くらいしか入っていないときだった。いまは何千人とかウエイティング・リストがあるらしい。ここには日本に戻るまでいて、その後もしばらくはキープしていた。
移住直後からスタン・ゲッツのバンドで活躍
——ミュージシャンとしてはどのような活動を?
行ってすぐの仕事が、ホレイシオ・ストリートにいるころで、ルイス・ヘイズ(ds)の3管編成バンド。それは2回くらいしかやらなかったけど。それから照夫さんの友だちで、ダニー・フィールズというベーシストがいて、そいつの家でセッションをやったときに黒人のドラマーがいたの。彼がブルックリンの仕事を取ってきて、「やらないか?」。
行ったら、ピアニストがアルバート・デイリー。これは、ニューヨークに来て2か月か3か月のころだと思うけど。そうしたら、アルが、「スタン・ゲッツ(ts)のところでやってるけど、ジョージ・ムラーツ(b)が辞めて、後任を探している。オーディションを受けるか?」。受けたらOKが出て、次の週からカリフォルニア・ツアー。
最初にやったのがロスの「シェリーズ・マンホール」。スタンはチック・コリア(p)の曲をよくやってたのね。プーさんともやってた曲で、〈ラ・フィエスタ〉とか。あれは開放弦のEの曲だから、ベース・ソロが回ってくる。オレも調子に乗ってガンガンやるじゃない。終わってから、スタンに「your solo is too long」といわれちゃった(笑)。
スタンは名士だから、ロスでも「パーティがあるから来いよ」と誘われる。ビバリーヒルズだったのかな? 門に着いたけど、入ってから車で5分以上走ってやっと家が見えてくるくらい敷地が広い。
中に入ったらそれこそ何百人てひとが来てて。大きな窓から庭を見ると、奥に噴水があって、ライティングされていて。「これ、お城じゃない?」みたいな家なの。キッチンに行くと、どのくらいでかいかいえないくらい馬鹿でかい冷蔵庫があって。バーには世界中の酒があるみたいな。アメリカの金持ちってこうなんだ。映画のシーンだよね。そういうのがカルチャー・ショックで。
——ゲッツは日本で考えられないくらいの名士ですから。
そんなことも知らなかったので、びっくり。そうだ! スタンのバンドに入る前に、もうひとつあったんだ。行ったばかりのころで、ボブ・クランショウ(b)が怪我をしたかなにかで、ソニー・ロリンズ(ts)の旅に行けない。増尾がソニーのバンドに入っていたから、「やらない?」。フィラデルフィアの「ジャスト・ジャズ」というジャズ・クラブで2週間だと思うけど、プレイしたことがある。そのときに、スタンの事務所から「入ってくれないか」となって。ソニーとやるわ、スタンのバンドに入るわ、急に違うところに行っちゃったみたいな感じで、かなり舞い上がってた。
スタンの話があって、すぐグリーン・カードの申請をしたんだよね。彼のところにいたデイヴ・ホランド(b)と同じ弁護士に「頼んでやるから」といわれて。スタンは外国でもツアーをするじゃない。オレは申請中だから国外に出られない。それでクビになったのか、音が悪くてクビになったのかわからないけど(笑)、半年ぐらいいたのかな?