ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。
ベース奏者。1946年3月21日、長野県木曽福島生まれ。幼少期から両親にヴァイオリンとピアノを習い、中学でウクレレ、高校でギターを弾く。早稲田大学進学後はピアニストとしてモダン・ジャズ研究会に所属。大学二年の学園祭で渡辺貞夫と共演。その縁でベースに転向し、69年に渡辺貞夫カルテットに参加。71年に退団し、直後に菊地雅章のコンボに参加。退団後の73年にニューヨークに移住。直後からスタン・ゲッツ・カルテット、その後はアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズなどに加わり活動。70年代末には自身のグループを結成。85年の帰国後も基本的に自分のグループで活動し、現在にいたっている。
疎開先で生まれて
——生まれは?
長野県木曽福島で、1946年3月21日です。
——東京に出てきたのは?
中学一年になったとき。木曽福島は疎開先で、小学校六年までそっちにいたから。
——疎開先は親戚筋?
それは名古屋の親戚関係。木曽川を遡れば木曽福島だから、名古屋とは縁が深い。両親と親戚が知り合いを頼って、住み着いた。
——鈴木家はもともと東京だった?
祖先は名古屋だけど、うちの家族は東京の大森にいた。そこを焼け出されて、親戚と一緒に疎開する。オレはそこで生まれて、住み着いた形になって。姉貴が桐朋学園に行くので、オレより1年早く親父と東京に出て。オレとお袋と、一緒にいたお手伝いさんとかはあとから。
——東京はどこですか?
最初は荻窪。中学、高校とあの辺の学校を出て。
——木住野佳子(きしのよしこ/p)さんと同じ高校だとか。
よく知ってるじゃない(笑)。阿佐ヶ谷の杉並高校。
——チンさん(鈴木良雄の愛称)は鈴木ヴァイオリン(注1)やスズキ・メソード(注2)の一族で。
伯父の鎮一(注3)が松本でスズキ・メソードを始めた。
(注1)1887年、三味線職人だった鈴木政吉が初めて見たヴァイオリンに惹かれ、見よう見まねで制作を開始。翌88年に第1号完成。90年に工場を建設し、本格的な生産を開始。
(注2)創始者である鈴木鎮一が、46年、長野県松本市に松本音楽院を設立したことに始まる。才能教育五訓を根幹にした「母語教育法」に特徴があり、海外にも積極的に進出。現在の生徒数は公表で世界中に40万人。
(注3)鈴木鎮一(ヴァイオリン奏者 スズキ・メソードの創始者 1898-1998)ドイツでヴァイオリンを学ぶ。スズキ・メソードの創始者で、音楽教育家および教育学の理論家として世界的に著名。72年ロチェスター大学より名誉音楽博士号、76年「モービル音楽賞」、78年「ケネディ・センター」(カーター大統領夫妻列席)、「カーネギー・ホール」などで日米親善コンサート、82年「第1回千嘉代子賞」、85年ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労賞、以後もクリーブランド音楽大学、セントアンドリューズ大学、イサカ大学、メリーランド大学などより名誉博士号を授与。
——チンさんもそこでヴァイオリンのレッスンを受けたんですか?
3歳から親父にヴァイオリンを習っていて。3つ違いの姉はスズキ・メソードの血を引くというか、子供のころにスパルタ式に鍛えられたみたい。オレのときは親も疲れて、「適当にやってろ」(笑)。お袋はスズキ・メソードでピアノ教師の長だった。だからピアノも小学校の四、五年くらいまで手ほどきを受けて。でも〈エリーゼのために〉とか、あのへんのちょっと上くらいまでができただけの話で、本格的にはぜんぜん。
——お父様はなにをされていたんですか?
親父は鈴木ヴァイオリンの木曽福島工場の社長をやって、工場製と手工品のヴァイオリンを作ってた。いろいろなことがあって、工場がひと手に渡ったんでときどき東京に出て、手工品のいいヴァイオリンを作って売っていた。
お祖父さんが鈴木政吉(注4)といって、ヴァイオリン王といわれているひと。尾張の下級藩士の息子として生まれて、最初は三味線作りで、のちにヴァイオリンを作るようになった。鈴木ヴァイオリンはかなり大きくなったけど、戦争とかがあって。その後に鎮一がスズキ・メソードを始めた。
(注4)鈴木政吉(ヴァイオリン製作者 1859-1944)鈴木バイオリン製造株式会社の創業者。ヴァイオリン製作技術を独学で身につけ、1900年パリ万国博覧会の楽器部門で入賞。息子の鎮一はスズキ・メソードの創始者。
親父はヴァイオリンも弾くし、ヴァイオリンも作る。あのころでは珍しい鈴木カルテットという弦楽4重奏団もやって。鎮一が第1ヴァイオリンで親父が第2ヴァイオリン、ヴィオラとチェロも兄弟で。お爺ちゃんには十何人か子供がいるから。
最初の音楽体験
——最初の音楽体験は?
3歳のときのヴァイオリンかな。お袋がピアノを教えていたから、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトの曲とか、姉貴もヴァイオリンをやっていたからそういう曲は小さなときから耳にこびりつくくらい聴いていた。
——自分でもピアノを習っていたし。
あとになってのことだけど、ベースには弓弾きがふた通り、逆手で弾くジャーマン・スタイルと順手のフレンチ・スタイル。ヴァイオリンは順手だけど、最初は逆手だったからなにか馴染めなかった。それで順手がいいと、フレンチ・ボウに変えてみたらぜんぜんやりやすい。アップ・ボウ、ダウン・ボウがあって、「この音符はアップ・ボウでいってからダウン・ボウにすればいい」って自然にできる。ほかは覚えてないけど、これだけは身体が覚えていた(笑)。
——クラシック以外の音楽が最初に耳に入ってきたのはいつごろ?
最初に驚いたのは、お祭りで町の拡声器から流れてきた歌謡曲。「なに、この音楽は?」。〈お富さん〉(注5)ってあるでしょ。それまでは西洋音楽しか聴いてなかったから、「これも音楽なのかな?」と思ったのが、最初のショックというか。
(注5)春日八郎の歌で54年8月に発売され、その年に大ヒットした歌謡曲。作詞=山崎正、作曲=渡久地政信。
——それがいくつのとき?
小学校の二年とか三年とか。あとは中学一年のときに林間学校で山に行ったときに、同級生がウクレレを弾いて歌ってた。そのときに初めてポピュラー音楽を生で聴いて。女の子に「キャーキャー」いわれているのを見て、「これ、いいなあ」。帰ってすぐ親父に「鈴木ヴァイオリンにウクレレないの?」って聞いたら、「あるはずだよ」。ウクレレはすぐ弾けるようになった。
——見よう見まねで?
レコードを聴いたかは覚えてないけど、コード譜があればウクレレは簡単。あとは、そいつが歌っていたハワイアン。「ああ、やんなっちゃった」みたいなヤツ(笑)。中学のときはウクレレを一生懸命にやって、それでけっこう弾けるようになった。
高校に行ったら、一年の臨海学校で、今度はギターを弾いているやつがいて(笑)。ウクレレに比べたら音楽的だし、「かっこいい、絶対にやらなくちゃ」と思って、親父に(笑)「ギターないの?」。それでギターを始めて、要するにコードを弾きながら歌うスタイル。ブラザーズ・フォア(注6)やトリオ・ロス・パンチョス(注7)、あとは〈禁じられた遊び〉とかのクラシックもやった。
(注6)57年にワシントン州シアトルで結成されたフォークソング・グループ。60年に〈グリーンフィールズ〉が大ヒットした。
(注7)メキシコ人のアルフレッド・ヒル、チューチョ・ナバロ、プエルトリコ人のエルナンド・アビレス によって44年に結成されたラテン音楽のグループ。60年代に日本でも高い人気を誇り、〈ある恋の物語〉〈ラ・マラゲーニャ〉〈キサス・キサス・キサス〉〈ベサメ・ムーチョ〉〈その名はフジヤマ〉などが連続ヒットした。
高校の3年間はとにかくギターにのめり込んで、毎日のようにいじってた。テレビを見ながらでもギターを弾いて、「あのコード、なんだろう?」とやって、絶対に手から離さなかった。ギターを弾くきっかけにもなった友だちとコーラスもやってた。屋上に行く階段の途中に吹き抜けがあって、そこでやると音がすごく響くんで、気持ちがいいし、誰も来ない。そこで毎日のように練習してたら、ほかにも「入れてくれ」っていうやつが来て。そいつは高校三年にしては珍しくモダン・ジャズも知ってたんだよね。その3人でコーラスをやって、文化祭に出たりして。女の子に受けるように、流行っていた〈高校三年生〉(注8)もやって。「キャーキャー」いわれるのが快感で(笑)、動機は不純だよね。
(注8)63年6月にリリースされた舟木一夫のデビュー・シングル。作詞は丘灯至夫、作曲は遠藤実。発売1年で売上100万枚を越す大ヒットとなり、舟木を一躍スター歌手にした。累計売上は230万枚。
ジャズとの出会い
3年のときに喫茶店で勉強していたら〈テイク・ファイヴ〉が聴こえてきた。それがすごく衝撃的で、「なんだろう、この音楽?」「同じパターンの繰り返しだし、拍子も違うし、いままで聴いたことのない音楽だ」みたいな感じで、釘づけになった。一緒にコーラスをやっているジャズ好きに、「こんなリズムの曲、知ってる?」って聞いたら、「それ、〈テイク・ファイヴ〉だよ」。すぐレコードを買いに行ったら、その曲が入っていたデイヴ・ブルーベック(p)の『タイム・アウト』(コロムビア)(注9)があって、それが一番最初に買ったジャズのLP。
(注9)メンバー=デイヴ・ブルーベック(p) ポール・デスモンド(as) ユージン・ライト(b) ジョー・モレル(ds) 59年6月25日、7月1日、8月18日 ニューヨークで録音
アブストラクトな絵を見ているような感じで、いままで聴いていたものとはぜんぜん違う音楽だなと思った。『タイム・アウト』の中にはクラシック的な曲がいろいろあるじゃない。それもあって、入りやすかった。
ピアノがちょっと弾けてたから、「どんなことをやってるんだろう?」と思って、完璧じゃないけどパターンをコピーしてみたの。同じアルバムに入っていた〈トルコ風ブルー・ロンド〉も面白かったし。
どうせ大学は浪人と思っていたら、うまく引っかかって早稲田に入っちゃった。クラブに誘う新入生歓迎会コンサートが「大隈講堂」であって、ハイソサエティ・オーケストラとか、ニューオルリンズジャズクラブとか、ナレオ・ハワイアンズとか、モダン・ジャズ研究会、あとはマンドリン・クラブも出てたかな? ギターをやってたし、ジャズにも興味を持ち始めていたから、「オレもなにかやりたいな」と。
そうしたら出店があって、最初に行ったのがジャズ研の出店。「最近、ちょっとジャズに興味をもってきたんですけど」といったら、「来週の火曜日にオーディションをやるから部室に来いよ」。それで扉を開けたのが運命のわかれ道(笑)。パンドラの箱じゃないけど、開けちゃった(笑)。
けっこう吹けるヤツもいて、課題曲が〈イエスタデイズ〉。オレはなんにも知らないけど、途中までメロディを弾いて、「あとはわかりません」「じゃあ、お前は座ってろ」。みんな終わって、「これだけか?」となったときに、「ちょっとピアノも弾けるんですけど」といって〈トルコ風ブルー・ロンド〉を弾いたら、みんながびっくりしちゃって。「すごいじゃないか」。すごいとは思っていなかったけど、「お前はピアノをやれ」。それでギターはやめて、ピアノになった。
——クラブなのにオーディションがあるんだ。
どのくらいできるかのチェックだよね。変なクラブで、老けたひとがいたから「顧問の教授かな?」と思ったら学生だったとか(笑)。サングラスしてドラムスを叩くひともいて、「このひと、ヤクザかな?」。それがマネージャーだったり(笑)、もうビックリ。こっちは高校を卒業したばかりでウブだから。
1年のときは、とにかくピアノを一生懸命にやって。そのころは教えてくれるひとがいないから、「どうしたらああいう音がするんだろう?」。左手にセヴンスの音を持ってきて、「ああ、これだ!」と見つけたときは嬉しかった。
そうやってある程度わかってきたころ、2年のときだけど、増尾(好秋)(g)が入ってきた。部室にベースが転がっていたから、〈朝日のようにさわやかに〉や〈枯葉〉とかはなんとなく弾けるようになっていた。それでオレがベースを弾いて、増尾とやったの。そうしたら滅茶苦茶にうまいし、サウンドもドミソじゃなくて、テンション・ノートも使っていて驚いた。ウエス・モンゴメリー(g)とかのコピーだったけど、レヴェルがぜんぜん違う。オクターヴ奏法もできるし、レコードから聴こえてくるようなサウンドがしていた。
「誰にも教わらないで、レコードを聴きながら自分でやってきた」っていうし。周りにそういうひとがいなかったから、初めてひとと合奏したのがオレだった。増尾は、オレよりぜんぜん早くて、中学のころからジャズをやってた。それまでにも音楽のできるひとには会ってたけど、「こいつはすごい」と思ったのは増尾が初めて。
渡辺貞夫と共演
——渡辺貞夫(as)さんと知り合うのがこの少しあと。
貞夫さんは、アメリカへ行く前に「レコード売ります」という広告を『スイングジャーナル』(注10)に出したのね。幸田(稔)(注11)がそれを見て、貞夫さんのうちに行って。だけどみんな売れちゃってて、残っていたのは2、3枚だけ。貞夫さんが、「これは一生懸命に練習したチャーリー・パーカー(as)のレコードだから売れないけれど、わざわざ来てくれたから」といって、くれたらしい。
(注10)47年から2010年まで発刊された日本のジャズ専門月刊誌。
(注11)バードマン幸田(「Jazz Spot J」店主 1945年~)本名は幸田稔。早稲田大学モダン・ジャズ研究会でサックス奏者として活躍。会社勤務後、78年にタモリなどジャズ研OBの共同出資で「Jazz Spot J」を開店、店主となる。
増尾と銀座の「ジャズ・ギャラリー8」に、佐藤允彦(p)さんと滝本達郎(b)さんと小津昌彦(ds)さんのトリオを聴きに行ったときのこと。司会の相倉久人(注12)さんが、「昨日、渡辺貞夫がアメリカから帰ってきたので、夜に来るかもしれません」。「ええ!」となって、オレたちは昼の部から一番前の席で待ってたの。そうしたらほんとうに来たんだよね。目の前でブワーって吹いて、のけぞるぐらい驚いた。
(注12)相倉久人(音楽評論家 1931~2015年)【『第1集』の証言者】東京大学在学中から執筆開始。60年代は「銀巴里」「ピットイン」、外タレ・コンサートの司会、山下洋輔(p)との交流などで知られる。70年代以降はロック評論家に転ずるも、近年はジャズの現場に戻り健筆を振るった。
それで、直後の早稲田祭に「貞夫さん、来てくれないかな?」という話になった。幸田に接点があったから、「ほとんどギャラは出ないですけど、来てもらえませんか?」とダメ元で頼んだら、「おお、いいよ」。帰ってきたばかりだったから、サックスを抱えて早稲田祭に来てくれた。始めたら、「なんだ、これは?」とみんながぶったまげてた(笑)
——このときはチンさんがピアノで。
増尾は貞夫さんについていけたけど、オレはできる曲だけをピアノで弾いて。あとは、先輩のベースとドラムス。即決されたわけじゃないけど、増尾は、貞夫さんが「日本にもこんなギターがいるんだ」ってことで、オレが三年くらいのときに貞夫さんのバンドに入ったよね。
——そのころのチンさんは?
オレはピアノをずっとやっていて、四年くらいになったらまあまあ弾けてたし、プロからも「やらないか?」と誘いもあった。そのころは、アルバイトでバーみたいなところでもちょっと弾いたりして。増尾のお姉さんがピアニストで、ホテルのラウンジでやってたのをトラ(エキストラ)で頼まれたりとか。そういうのをやって、卒業する寸前にはレギュラー・バンドに入っていた。赤坂に、アメリカの統治下にあった「山王ホテル」があったじゃない。あそこで、オレとギターとベースのトリオで。
——貞夫さんとはそれっきり?
貞夫さんのところには理論を教わりに行ってた。増尾も行ってたし、今井尚(たかし)(tb)も行ってた。学生もプロも一緒になって、習いに行ってたの。初めて貞夫さんがジャズの理論をアメリカから持って帰ってきたからね。それまで、日本のミュージシャンはみんな「こんなものかな?」という程度でやっていた。それを、「ここはこういうことで」といってね。それが大学二、三年のころ。
——それは貞夫さんの家で?
銀座のどこかに部屋を借りて。学生は数えるほどしかいなかったけど、最初の講義からオレは行って。そのときは山下洋輔(p)さんもいたし、プーさん(菊地雅章)(p)もいた。それでしばらくするうちに生徒が増えたので、貞夫さんが恵比寿のヤマハで教室を始めて、オレも通いだす。毎週1回だったかな?
みんなある程度やり方がわかってきたら、アレンジを書く。発表会みたいなこともやって、オレが持っていったのは〈酒とバラの日々〉。サックスもいっぱいいるし、トランペットもいっぱいいる。ドラムスもピアノもいる。だけどベースがいない。みんなの発表する曲を合奏するのに、ベースがいないとどうしようもない(笑)。
貞夫さんが「弾けるヤツはいないか?」というから、「これくらいの曲なら弾けます」。そこにあったヤマハのベースを弾いたら、貞夫さんが「いいじゃないか、オレのバンドで弾かないか?」。ピアノでデビューして1年も経っていなかったから、そのときはそれで終わったけど、そのあとも真剣に「ベースやってくれないか?」と。
——誘われてもすぐには入らなかった。
「山王ホテル」の真ん前にキャバレーがあって、いまは京都にいる藤井(藤井貞泰)(p)さんがそこでやってたの。彼が、「バンドを辞めるけど、やってみる?」「やります」。「山王ホテル」のバンドはつまらなかったから、そのキャバレーに移って。そのときのベースがゴンちゃん(水橋孝)。サックスが菊地の秀ちゃん(菊地秀行)(as)で、バンマスが権藤さんというドラマー。
権藤さんは仕事を取ってくるマネージャー・タイプ。最初は赤坂だったけど、五反田に移って、次は横浜の日の出町。どんどん場末になっていく(笑)。ちゃんとした演奏もするけど、彼はなんでもOKしちゃうひとだったから、「バンドさん、ショータイムよ」って、ストリップの伴奏もやらされる。「参ったなあ」と思ったけど、一生懸命やってた。
五反田のときも、最初はジャズをやってるけど、「お客さん、リクエストありますか?」と聞いちゃうんだよね。〈網走番外地〉とかいわれると、やるわけ。こんなに厚い『歌謡曲全集』が置いてあって、「はい、これ」。そういうことで、荒んだ感じだった。日の出町の店では、夏の暑いときにもタキシードを着て。貞夫さんに「ベースをやらないか?」といわれたのがそういうタイミングだった。
ベーシストで渡辺貞夫カルテットに参加
——でも、すぐにはベースに転向しなかった。
ピアノをプロでやっていたのは6か月くらいかな? ベースになって、最初に入ったのが大野雄二(p)さんのバンド。大野さんの家に遊びに行って、ピアノのサウンドを教わったりしていた。そこにあった稲葉(國光)さんのベースを遊びで弾くと、「いいじゃないか」なんていわれて。あるとき、大野さんに「ベースに変わりました」といったら、「明日から来い」。
——貞夫さんのバンドに入る前からベースで活動はしていたんだ。
大野さんのバンドで、六本木の地下にあった店でやって。歌がケメコ(笠井紀美子)。赤坂のホテルで大沢(保郎)(p)さんともやったし。それで大沢さんのところにいたとき、貞夫さんが「だいぶ弾けるようになったか?」「わかんないですけど」「今度やってみろ」となって、後日、「ピットイン」でやったら、貞夫さんが「バンドに入れ」。
ベースをやると決心してからは、ピアノはいっさいやめて。姉貴と桐朋で同級生の日本フィルのベースのかたに習って、1年くらいやったのかな? ピアノをやめて、1年後くらいには貞夫さんのところでベースを弾いていた。
——それが……
23歳のとき。
——最初の仕事は覚えていますか?
文男(渡辺文男)(ds)ちゃんと増尾で「ピットイン」。文男ちゃんなんか髪の毛がアフロで、「すごいな、プロのバンドはぜんぜん違う」。ラウンジでやっているバンドとはエネルギーもまったく違った。
——参加したのが69年。そのころの貞夫さんのバンドはオリジナルが中心? ボサノヴァなんかもやっていたのかしら?
入ったばかりのころは、ラジオで「ナベサダとジャズ」(注13)をやっていたときで。そうすると、ボサノヴァはやるわ、ビートルズはやるわ、チャーリー・パーカーはやるわと、なんでも。ぜんぶで1000曲くらいやったんじゃないかっていうぐらい。1回が15分で、2、3曲を2週間分録り溜めする。音録りするのが毎回30曲くらい? 昼間に練習して、夜が公開録音。
(注13)69年4月から72年6月1日まで、月〜金曜の午後11時から15分間ニッポン放送で放送されていた。
——それがいい勉強になった。
滅茶苦茶に鍛えられた。
——「ピットイン」とかでは、〈パストラル〉のような新しい音楽をやっていたと記憶していますが。
もちろんやってた。『パストラル』(CBSソニー)(注14)が最初のレコーディングだからね。
(注14)メンバー=渡辺貞夫(as fl sns) 八城一夫(p) 増尾好秋(g) 松本浩(vib) 鈴木良雄(b) 渡辺文男(ds) 田中正太(flh) 松原千代繁(flh) 69年6月24日、7月8日 東京で録音
——そのころはすごい人気になっていたでしょ。
貞夫さんがガーッときてたときだから、民音(注15)や労音(注16)のコンサートがいっぱいあった。「ナベサダとジャズ」の地方公演もあって、札幌、大阪、名古屋とかの大きなホールで公開収録する。手前味噌じゃないけど、増尾がいうには、オレが入るまでは、1か月ごとにベースが変っていたらしい。そんなときにたまたまオレがいたもんだから、まあ面白いよね。運命の偶然というか。
(注15)「一般財団法人民主音楽協会」の略称。音楽文化の向上や音楽を通して異なる文化との交流などを目的に、創価学会の池田大作会長(当時)によって63年10月18日創立。
(注16)「全国勤労者音楽協議会」の略称。各地に会員を有する音楽鑑賞団体で、49年11月に大阪で創立。
——ラウンジやキャバレーでやっていたひとが日本で一番のジャズ・バンドに入ったじゃないですか。その落差は?
落差ねえ。増尾が先に入っていて、「いいな」とは思っていた。オレはこのままピアノをやって、秋吉敏子(p)さんの〈ロング・イエロー・ロード〉じゃないけど、「長い道のりだ」って、のんびりやってたの。プロ意識もなにもあまりなく、ただ弾いてただけの話で。
ジャズ変遷の渦中に身を置く
——チンさんが入ったころは、貞夫さんを頂点に日本のジャズがブームになっていました。ロックみたいに大勢のひとが集まるようになって。
ロックまではいかないにしても、かなりのひとが来てたよね。たしかにジャズがブームだった。
——そういう渦中にいて、どんなことを感じていました?
やっぱり有頂天だった。自分を見失ったところもあって。自分がやっていることで音楽的に満足がいかないことも多くて、プレイバックを聴くと欠点しか聴こえてこない。自信はなかったし、逃げみたいな方向にいったこともある。
——プレッシャーから?
世の中に出てみると、自分がぜんぜんダメだということがわかった。ちっちゃい人間というか、自信を持つところまでいってなくて、自己嫌悪に近い感じだったんだろうね。ノホホンときて、子供のころから荒波に揉まれる体験がなかった。それでだんだん崩れちゃったというか、そういう悩みはあった。超えなきゃいけないものがあるけど、超えられない不安というか。
——貞夫さんが顕著な例だと思いますが、スタンダードやジャズの有名な曲をやっていたミュージシャンがオリジナルをやるように変わってきた。チンさんが貞夫さんのバンドに入ったころからでしょ?
入ったときは、貞夫さんの音楽が変わっていくところだった。オレの前はベースが池田芳夫さんで、「エレベ(エレクトリック・ベース)も弾け」っていうから、池田さんからヤマハのエレベを譲り受けて、両方を弾いてた。いま考えると、あのときはマイルス(デイヴィス)(tp)が電化のジャズを始めて、日本のミュージシャンもそれになびいちゃった。貞夫さんもそっちをやってたし。
——ベーシストで影響を受けたひとは?
ウイントン・ケリー(p)が大好きだったから、そうなるとポール・チェンバースがベースでしょ。それが耳にずっと残ってた。ベースに替わってからはロン・カーター。ミロスラフ(ヴィトウス)が出てきたときはミロスラフみたいに弾いたりとか。
——増尾さんはロックのギタリストも聴いていたそうだけど、チンさんはジャズ以外の音楽って、聴いていたんですか?
聴いていたのはジャズとクラシックだけ。ロックは一度も好きにならなかった。ビートルズは聴いたけど、ロックのコンセプションに痺れたことはない。
——エレベを弾いていても関係なし?
エレベを弾いてるときに、増尾が「ロックみたいなのをやりたい」といって、つのだ☆ひろと一緒にやったことはある。だけど、やっぱり好きじゃなかった(笑)。
——ロック・フェスティヴァルで増尾さんとチンさんとつのださんが出ていたのを観たことがあります。
あのころはマーシャルのアンプをふたつ繋いでエレベを弾いたりしていたけど。血迷っていた時期だから(笑)。
——ロックのミュージシャンとセッションもしていたでしょ。
エディ藩(注17)とかね。それは増尾の関係で、頼まれてやっただけの話。オレの中の一番元にあるのはクラシックのフィーリングと日本的な感性だから。
(注17)エディ藩(g 1947年~)本名は潘廣源。66年にデイヴ平尾(vo)を中心に結成されたザ・ゴールデン・カップスのギタリスト。ヒット曲は〈長い髪の少女〉など。69年エディ藩グループ結成。その後も何度か再結成されたザ・ゴールデン・カップスに参加
——貞夫さんのバンドにいたのは1年半くらい?
そうかな?
——「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」に出たのが70年の夏で、その年が終わって、明けて、バンドが解散になる。
そんなに簡単じゃなかった気がするけどなあ。69年に入って71年に終わっているから2年くらいだろうけど。
菊地雅章のバンドに抜擢
——そのあと、プーさんのバンドにすぐ入る?
貞夫さんのところが終わって、増尾と直居(隆雄)(g)に声をかけて、「ニューヨークに行こうよ」と。だけどそのときは気分がダウンしていて、この状態でアメリカでやっていく自信がなかったから、行かなかった。そうしたらプーさんが来て、「オレのバンドでやらないか?」と誘ってくれて。
——プーさんのバンドは2年くらい?
ニューヨークに行ったのが73年の10月だから、それまで。71年の3月から2年半くらいか。ニューヨークに行く前に、貞夫さんが「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」に出ることになって、「一緒に行ってくれないか?」。そのときは本田竹曠(p)と文男ちゃん。そのツアーにつき合って、日本に帰ってからニューヨークに行ったの。
——プーさんはプーさんでたいへんだったでしょ?
貞夫さんとはまったく違うことを鍛えられたから、別の理由で落ち込んで。「なんであんな音で弾くんだ」といわれると、ますます自信を失くして。要するにプーさんの世界だよね。ピアニストというより、武満徹(注18)さんと同じくらい頭の中は芸大の作曲科。
(注18)武満徹(作曲家 1930~96年)現代音楽の世界的な作曲家。多くの映画音楽も手がけ、『不良少年』(61年)、『切腹』(62年)、『砂の女』(64年)で、それぞれ「毎日映画コンクール音楽賞」受賞。60年代中盤には若手だった日野皓正(tp)がその映画音楽にしばしば起用されている。
——プーさんの音楽は演奏するのが難しい?
理論的にはすごいところにいっているひとだけど、それは作曲家としてすごいということで、プレイヤーとして卓越していたとは感じなかった。プレイヤーとしてひとになにかを伝えようと思ったら、あの唸り声はやめないといけない。バラードなんかプーさんのピアノより声が大きくて。しようがないからオレも声を出してやってたけどさ、一時はね(笑)。
——音楽的に学ぶものは多かった?
こういう音楽のアプローチの仕方もあるんだなということはわかったけど、オレには貞夫さんの音楽性のほうが近かった。
——あの時代にこのふたりのバンドに入っていたのはすごいことですよね。
ふたりに鍛えられたから。
——チンさんはバンドは持っていなかった。
自分のバンドを作るのはアメリカに行ってから。
——レコーディングやセッションには参加していたでしょ。
ケメコのをやったり。オレのリーダー作は、アメリカに行く前は一枚しかない。
——それが『フレンズ』(CBS・ソニー)(注19)。あれは、友人でもある伊藤潔(注20)さんがプロデューサーで。
それもあったけど、増尾がすでに2枚、彼とアルバムを作っていて、オレのはなかったから、潔が「そろそろやったほうがいいんじゃない?」「じゃあやろうか」となって。
(注19)当時ライヴ・シーンで交流のあった精鋭と組んで吹き込んだ初リーダー作。メンバー=鈴木良雄(b) 峰厚介(ss ts) 本田竹曠(p) 村上寛(ds) 宮田英夫(fl) 73年5月10日、11日 東京で録音
(注20)伊藤潔(レコード・プロデューサー 1946~)大学卒業後、設立された直後のCBS・ソニーに入社。渡辺貞夫、増尾好秋、鈴木良雄などの作品を手がけ、70年代中盤からは日本フォノグラムのジャズ・レーベル、East Windで伊藤八十八プロデューサーと多くのジャズ作品を制作。現在もフリーで活躍中。
——ニューヨークには、増尾さんたちと行くのはやめたけど、そのときから行こうと思っていた?
もともといい出したのがオレだから。だけどプーさんのバンドに入っていたから、増尾より2年半遅れたのかな? ニューヨークに初めて行ったのは、貞夫さんと「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」に出たときで、そのころ知ってるひとといえば中村照夫(b)さんしかいなかった。その友だちにスティーヴ・ジャクソンというドラマーがいて、彼が「日本に来たい」といったんじゃないかな? それで日本に来て、寛(村上寛)(ds)のうちに下宿していた。オレもスティーヴと仲よくなって、いずれニューヨークに行こうと思っていたから英語を習ったりして。
ニューヨークに移住
——ニューヨークに移って、最初は?
プーさんのバンドで一緒だったコウちゃん(峰厚介)(sax)も「ニューヨークに行きたい」といって、貞夫さんもアメリカに用事があるというんで、3人で行ったの。貞夫さんはすぐに帰って、コウちゃんとオレは一緒に住んだわけ。そのときのアパートを見つけてくれたのがスティーヴ。
——どのあたり?
79丁目のヨーク・アヴェニュー。
——アッパー・イーストの高級住宅街じゃないですか。
ジャーマンタウンといってすごくいいところだけど、家賃が高い。最初はコウちゃんとシェアしてたからいいけど、コウちゃんの嫁さんが来るというんで、「じゃあ、オレは出るから」。ウエスト・ヴィレッジのホレイシオ・ストリートにアパートを借りて。ふたりで700ドルくらいだったところが、ひとりになったら100ドルくらい。安い、汚いで、床がかしいでいたけど(笑)。
そのころは、ニューヨークで日本レストランが2つか3つくらいしかなくて。バスに乗ってイーストのセカンド・アヴェニューに行くと「ミエ・レストラン」がある。可愛い娘がいたから足繁く通っていたの(笑)。別のウェイトレスが、「この上に住んでいるけど、引っ越すので、どう?」。ウエストサイドのアパートより立派で、家賃も安かったから「いいよ」。「ミエ・レストラン」の上だったらいつでも日本食が食べられるし。
——それ、12丁目のセカンド・アヴェニューですね。
住んでみたら、あの辺は柄が悪くて、毎日のように救急車が通る。また荒んだ生活になって(笑)。
——そこは長かった?
1年くらい。そのころに女房と知り合って。それで「ミエ・レストラン」のアパートを引き払い、日本に帰って結婚して。
——それが何年のこと?
30歳のときだから76年。グリーン・カードの申請中はアメリカから出られない。やっとグリーン・カードが取れたので、6月に結婚して。今度は日本で女房のグリーン・カードが取れるのを待って。夏にニューヨークに戻って、16丁目のフィフス・アヴェニューかシックス・アヴェニューのアパートに入る。そこには半年もいなかった。
——「マンハッタン・プラザ」(パフォーミング・アーティスト用の市営アパート)に入ったから?
「マンハッタン・プラザ」ができた話は聞いていたけど、あそこはナインス・アヴェニューの43丁目でしょ。とんでもないところだと思っていた。ところがター坊というベースがそこに入っていたの。話してたら、「チンさん、すごいよ。プールもあるし」「エエッ」「テニス・コートも3面あって」「エエッ」。それですぐに申し込んだら、しばらくしてそこのひとが審査に来て。
入居できる条件は貧乏で、立派なところに住んでいるひとはダメ。それと、本当にミュージシャンかの確認。貧乏というのは、部屋に入れば家具がほとんどなかったから「OK」(笑)。それでしばらくしたら入れた。
——「マンハッタン・プラザ」には家賃の決まりがあって。
収入の4分の1が家賃だから、年収が2000ドルなら年に500ドル。
——ありえないくらい安い。簡単に入居できたんですか?
あそこはツイン・タワーで、オレのほうはほぼ埋まってたけど、ハドソン・リヴァー側のタワーはまだ半分くらいしか入っていないときだった。いまは何千人とかウエイティング・リストがあるらしい。ここには日本に戻るまでいて、その後もしばらくはキープしていた。
移住直後からスタン・ゲッツのバンドで活躍
——ミュージシャンとしてはどのような活動を?
行ってすぐの仕事が、ホレイシオ・ストリートにいるころで、ルイス・ヘイズ(ds)の3管編成バンド。それは2回くらいしかやらなかったけど。それから照夫さんの友だちで、ダニー・フィールズというベーシストがいて、そいつの家でセッションをやったときに黒人のドラマーがいたの。彼がブルックリンの仕事を取ってきて、「やらないか?」。
行ったら、ピアニストがアルバート・デイリー。これは、ニューヨークに来て2か月か3か月のころだと思うけど。そうしたら、アルが、「スタン・ゲッツ(ts)のところでやってるけど、ジョージ・ムラーツ(b)が辞めて、後任を探している。オーディションを受けるか?」。受けたらOKが出て、次の週からカリフォルニア・ツアー。
最初にやったのがロスの「シェリーズ・マンホール」。スタンはチック・コリア(p)の曲をよくやってたのね。プーさんともやってた曲で、〈ラ・フィエスタ〉とか。あれは開放弦のEの曲だから、ベース・ソロが回ってくる。オレも調子に乗ってガンガンやるじゃない。終わってから、スタンに「your solo is too long」といわれちゃった(笑)。
スタンは名士だから、ロスでも「パーティがあるから来いよ」と誘われる。ビバリーヒルズだったのかな? 門に着いたけど、入ってから車で5分以上走ってやっと家が見えてくるくらい敷地が広い。
中に入ったらそれこそ何百人てひとが来てて。大きな窓から庭を見ると、奥に噴水があって、ライティングされていて。「これ、お城じゃない?」みたいな家なの。キッチンに行くと、どのくらいでかいかいえないくらい馬鹿でかい冷蔵庫があって。バーには世界中の酒があるみたいな。アメリカの金持ちってこうなんだ。映画のシーンだよね。そういうのがカルチャー・ショックで。
——ゲッツは日本で考えられないくらいの名士ですから。
そんなことも知らなかったので、びっくり。そうだ! スタンのバンドに入る前に、もうひとつあったんだ。行ったばかりのころで、ボブ・クランショウ(b)が怪我をしたかなにかで、ソニー・ロリンズ(ts)の旅に行けない。増尾がソニーのバンドに入っていたから、「やらない?」。フィラデルフィアの「ジャスト・ジャズ」というジャズ・クラブで2週間だと思うけど、プレイしたことがある。そのときに、スタンの事務所から「入ってくれないか」となって。ソニーとやるわ、スタンのバンドに入るわ、急に違うところに行っちゃったみたいな感じで、かなり舞い上がってた。
スタンの話があって、すぐグリーン・カードの申請をしたんだよね。彼のところにいたデイヴ・ホランド(b)と同じ弁護士に「頼んでやるから」といわれて。スタンは外国でもツアーをするじゃない。オレは申請中だから国外に出られない。それでクビになったのか、音が悪くてクビになったのかわからないけど(笑)、半年ぐらいいたのかな?
ザ・ジャズ・メッセンジャーズにスカウトされる
——次がアート・ブレイキー(ds)のザ・ジャズ・メッセンジャーズ。
スタンの仕事が終わってニューヨークにいたとき、アル・フォスター(ds)のバンドで「ブラッドリーズ」に出ていたの。シダー・ウォルトンがピアノで、フロントがボブ・バーグ(ts)。そうしたらアートがマネージャーと遊びに来た。2曲くらい一緒にやったのかな? 終わって挨拶に行ったら、「Give me your phone number」といわれた。そうしたらマネージャーからすぐに電話がかかってきて、「Chin, we’re going to California, next week」「What?」となって(笑)。
——スタン・ゲッツのバンドを辞めて、割とすぐ?
そう。ラッキーもすごくあったと思う。ザ・ジャズ・メッセンジャーズもベースが辞めて、そのときにオレがちょうどやってたから。
——メンバーは?
ビル・ハードマン(tp)とデヴィッド・シュニッター(ts)、ピアノが誰だったかなあ? よく代わったんだよね。だいたいがウォルター・ビショップ・ジュニアとかロニー・マシューズとか。アル・デイリーのときもあった。
——ザ・ジャズ・メッセンジャーズに入って、どうなっていくんですか?
最初に驚いたのが音のすごかったこと。でかいことじゃなくて、「ドラムスってこんなにいい音がするの?」。それと、やっていることが楽しい。となりで弾いてるけど、オレも観客になっちゃう。「イエー」って感じで、エンジョイしちゃうくらいいい。毎日ほとんど同じことをやるけど、毎回エンジョイできる。
それからは憑りつかれたように弾きまくった。アートは休まないひとだから、ツアーの連続で。シカゴ、デトロイト、クリーヴランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ辺り。南には行かなかった。そういうところを行ったり来たりして。入ってすぐに日本ツアーもあったし。2年くらいやって、グリーン・カードが取れたんで、辞めて、日本に帰って結婚した。
——そのあと、またザ・ジャズ・メッセンジャーズに入る?
結婚してニューヨークに戻って、そうしたらまた誘われた。だけど、オレはニューヨークで落ち着きたかった。ツアーでほとんどうちにいないし、帰ってくればニューヨークで仕事をして、またツアー。アートには「悪いけど、もうできない」と断った。
しばらくしたらビル・ハードマンも辞めて、「ジュニア・クック(ts)と双頭バンドを組むから、やらないか?」。アートのところみたいにツアーが年中あるわけじゃないし、年に1、2回、ヨーロッパの長いツアーをしてお金を稼いで、みたいな。あとは、たまにニューヨークでやったり、コンサートに出たり。お金は稼げなかったけど、ペースとしてはちょうどよかった。
——ぼくと知り合ったのがそのころ。
「ジャズ・フォーラム」だったかな。
——あそこのオーナーが同じアパートにいて、時間があると手伝ってたのね。そうしたらビルとジュニアのバンドでチンさんが出て。
いつだっけ?
——82年だったと思うけど。
あのバンドが一番長くて、6、7年やってた。そのころになると、ビバップの仕事をしてもつまらなくて。それで自分を探す旅に入っていった。一生懸命にベースを弾いても黒人みたいには弾けない。いちばんガックリきたのは、ビルとジュニアのバンドでハーレムに行ったとき。バンドのリーダーふたりが黒人でしょ、ピアノがウォルター・ビショップ・ジュニア、ドラムスがリロイ・ウィリアムス。メンバー全員が黒人で、オレだけが日本人。
マンハッタンでやっているときは周りにいろいろな肌のひとがいるからあまり気にならない。ハーレムで演奏していたときにパッと周りを見たら、ぜんぶ黒人だった。オレだけが黄色で、必死にやっている。みんな「イエー」ってノッているのに、オレだけがビートのことを考えたりしている。
そのときにサーっと冷める自分が見えちゃって、「オレ、なにやってるんだ?」「これ、オレの音楽じゃないよ」。それまでにもモヤモヤはあったけど、自我に目覚めた。「自分の音楽を作らなくちゃダメだ。もうビバップはやりたくない」となって、しばらくして、ビルとの最後のレコーディングも断って。
自分の音楽を探す旅に
——それで、自分のグループを作る。
『ウイングス』(トリオ)(注21)を作る前に、『Matsuri』(CBS・ソニー)(注22)というアルバムを作ったの。あの〈Matsuri〉がオレの出発点。それまで悶々として書けなかったのが、〈Matsuri〉のパターンをやっていたら、女房が「それ、面白いじゃない」といってくれて。そのパターンで初めて曲を書いたときに、「これはオレにしかできない曲だ」ということがわかった。それまではなになに風になっていただけの話で、ちっとも自分が出ていない。だから、あれが出発点。
(注21)自身の音楽を追求し始めた鈴木が最良の音楽仲間を集めて完成させた全曲オリジナルのアルバム。メンバー=鈴木良雄(b elb) デイヴ・リーブマン(afl) ボブ・バーグ(ts) トム・ハーレル(fgh) アンディ・ラヴァーン(elp) クリフォード・カーター(syn) チャック・ローブ(g) ダニー・ゴットリーブ(ds) ナナ・ヴァスコンセロス(per)) 81年8月 ニューヨークで録音
(注22)渡米後に録音した最初のアルバム。メンバー=鈴木良雄(b p) デイブ・リーブマン(ss ts afl) トム・ハーレル(tp) アンディ・ラヴァーン(p) ビリー・ハート(ds) ルーベンス・バッシーニ(per) 79年 ニューヨークで録音
——それ以降は、基本は自分のバンドで活動して。
『ウイングス』が出てから自分のバンドをやろうと思って、「セヴンス・アヴェニュー・サウス」や「ジャズ・フォーラム」あたりでやり始めた。でも、そんなにはやってない。
——「ジャパン・ソサエティ」のホールでもコンサートをやりましたよね。
やると赤字になっちゃうから(笑)、あまりできなかったけど、とにかく自分の音楽を始めようと思って。
——学校にも通って。
〈Matsuri〉ができる前に、どうやったら作曲ができるのか、なにか作曲法があるんじゃないか? それで勉強をしようと思って、マンハッタン・ジャズ・スクールの夏期講習にも行ったけど、ぜんぜんダメで。ジュリアード音楽院の教授に会ったら、「書いたものを持ってこい」。それをパッと見て、「君は作曲の歴史を知らないようだから、今年卒業した一番優秀な学生に習いなさい」。
そのひとに、バッハ以前の古典から現代音楽までを、2年くらいかけて習ったんじゃないかな? 西洋音楽の歴史をぜんぶアナライズして。いままでのひとがやってきたものを見て、「なるほど、こういうふうになっているんだ」という方法論みたいなものがだんだん身についてきた。それをやったことで、自分の中ではものすごく視野が広がった。「音楽ってこういう歴史があって、こういうふうになっているのか」ということで、自分の立っている場所がよくわかった。自分の中で湧き上がってくるものを作曲するのがそこから始まった。
——日本に戻ってきた最大の理由は?
そのころは女房が勤めに行って、オレが子育てをやっていた。そうなると、オレじゃないと子供が寝ない。これはミュージシャン本来の生活じゃない。それで日本に帰ってきた。
——10年以上ニューヨークにいたでしょ。
帰ってきたのが85年の1月だから、11年くらいかな?
——不安はなかった?
その前にも、峰厚介、村上寛、本田竹曠とかが「一緒にやろうよ」といって、たまにツアーを組んでくれていた。ちょくちょく日本に帰ってくる機会もあったし。
——そんなに浦島太郎ではなかった。
日本の状況はわかっていたから、気持ちの上ではスムーズに帰ってこれた。あとの理由としては、お袋がひとりで住むようになったから心配で、というのもあるけど。
——アメリカの十数年間はチンさんにとってどんなものだったんですか?
人間的にも音楽的にも人生においても、大きな比重を占めてる。そこに原点がある。
——それがなかったらいまの自分は……
いない。目覚めさせてくれたのがニューヨークだし、ニューヨークで出会ったミュージシャンだし。作曲して自分のバンドを持ってやってるのも、ニューヨークにいたときと同じところにいて、同じところに向かっているからだと思う。
——チンさんはある意味、作曲家だと思いますが、自分でも作曲をすごく意識しているでしょ?
というか、ベーシストで一番弱いのはメロディを引っ張れないこと。たまにベースでメロディを弾いたりソロもやるけど、そこで勝負しようとは考えたことがない。ベースはそうでなく、音楽を底から支える楽器だと思っているから。作曲家として総合的な音楽をプロデュースすることが目的かな? だから、鈴木良雄の音楽を聴いてもらいたい。
——だから自分のバンドで活動することにこだわっている。
そうだね。いまはオレを使ってくれるひとがあまりいないし(笑)。
——ヤマちゃん(山本剛)(p)や増尾さんとはやるけど。
自分がコントロールできる音楽をやろうと思っている。
——きょうはいろいろなお話を聞かせていただきありがとうございました。
取材・文/小川隆夫
2017-12-10 Interview with 鈴木良雄 @ 青葉台「上島珈琲店」