投稿日 : 2018.01.12 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】鈴木良雄|祖父は日本の “ヴァイオリン王”
インタビュー・文/小川隆夫
ザ・ジャズ・メッセンジャーズにスカウトされる
——次がアート・ブレイキー(ds)のザ・ジャズ・メッセンジャーズ。
スタンの仕事が終わってニューヨークにいたとき、アル・フォスター(ds)のバンドで「ブラッドリーズ」に出ていたの。シダー・ウォルトンがピアノで、フロントがボブ・バーグ(ts)。そうしたらアートがマネージャーと遊びに来た。2曲くらい一緒にやったのかな? 終わって挨拶に行ったら、「Give me your phone number」といわれた。そうしたらマネージャーからすぐに電話がかかってきて、「Chin, we’re going to California, next week」「What?」となって(笑)。
——スタン・ゲッツのバンドを辞めて、割とすぐ?
そう。ラッキーもすごくあったと思う。ザ・ジャズ・メッセンジャーズもベースが辞めて、そのときにオレがちょうどやってたから。
——メンバーは?
ビル・ハードマン(tp)とデヴィッド・シュニッター(ts)、ピアノが誰だったかなあ? よく代わったんだよね。だいたいがウォルター・ビショップ・ジュニアとかロニー・マシューズとか。アル・デイリーのときもあった。
——ザ・ジャズ・メッセンジャーズに入って、どうなっていくんですか?
最初に驚いたのが音のすごかったこと。でかいことじゃなくて、「ドラムスってこんなにいい音がするの?」。それと、やっていることが楽しい。となりで弾いてるけど、オレも観客になっちゃう。「イエー」って感じで、エンジョイしちゃうくらいいい。毎日ほとんど同じことをやるけど、毎回エンジョイできる。
それからは憑りつかれたように弾きまくった。アートは休まないひとだから、ツアーの連続で。シカゴ、デトロイト、クリーヴランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ辺り。南には行かなかった。そういうところを行ったり来たりして。入ってすぐに日本ツアーもあったし。2年くらいやって、グリーン・カードが取れたんで、辞めて、日本に帰って結婚した。
——そのあと、またザ・ジャズ・メッセンジャーズに入る?
結婚してニューヨークに戻って、そうしたらまた誘われた。だけど、オレはニューヨークで落ち着きたかった。ツアーでほとんどうちにいないし、帰ってくればニューヨークで仕事をして、またツアー。アートには「悪いけど、もうできない」と断った。
しばらくしたらビル・ハードマンも辞めて、「ジュニア・クック(ts)と双頭バンドを組むから、やらないか?」。アートのところみたいにツアーが年中あるわけじゃないし、年に1、2回、ヨーロッパの長いツアーをしてお金を稼いで、みたいな。あとは、たまにニューヨークでやったり、コンサートに出たり。お金は稼げなかったけど、ペースとしてはちょうどよかった。
——ぼくと知り合ったのがそのころ。
「ジャズ・フォーラム」だったかな。
——あそこのオーナーが同じアパートにいて、時間があると手伝ってたのね。そうしたらビルとジュニアのバンドでチンさんが出て。
いつだっけ?
——82年だったと思うけど。
あのバンドが一番長くて、6、7年やってた。そのころになると、ビバップの仕事をしてもつまらなくて。それで自分を探す旅に入っていった。一生懸命にベースを弾いても黒人みたいには弾けない。いちばんガックリきたのは、ビルとジュニアのバンドでハーレムに行ったとき。バンドのリーダーふたりが黒人でしょ、ピアノがウォルター・ビショップ・ジュニア、ドラムスがリロイ・ウィリアムス。メンバー全員が黒人で、オレだけが日本人。
マンハッタンでやっているときは周りにいろいろな肌のひとがいるからあまり気にならない。ハーレムで演奏していたときにパッと周りを見たら、ぜんぶ黒人だった。オレだけが黄色で、必死にやっている。みんな「イエー」ってノッているのに、オレだけがビートのことを考えたりしている。
そのときにサーっと冷める自分が見えちゃって、「オレ、なにやってるんだ?」「これ、オレの音楽じゃないよ」。それまでにもモヤモヤはあったけど、自我に目覚めた。「自分の音楽を作らなくちゃダメだ。もうビバップはやりたくない」となって、しばらくして、ビルとの最後のレコーディングも断って。
自分の音楽を探す旅に
——それで、自分のグループを作る。
『ウイングス』(トリオ)(注21)を作る前に、『Matsuri』(CBS・ソニー)(注22)というアルバムを作ったの。あの〈Matsuri〉がオレの出発点。それまで悶々として書けなかったのが、〈Matsuri〉のパターンをやっていたら、女房が「それ、面白いじゃない」といってくれて。そのパターンで初めて曲を書いたときに、「これはオレにしかできない曲だ」ということがわかった。それまではなになに風になっていただけの話で、ちっとも自分が出ていない。だから、あれが出発点。
(注21)自身の音楽を追求し始めた鈴木が最良の音楽仲間を集めて完成させた全曲オリジナルのアルバム。メンバー=鈴木良雄(b elb) デイヴ・リーブマン(afl) ボブ・バーグ(ts) トム・ハーレル(fgh) アンディ・ラヴァーン(elp) クリフォード・カーター(syn) チャック・ローブ(g) ダニー・ゴットリーブ(ds) ナナ・ヴァスコンセロス(per)) 81年8月 ニューヨークで録音
(注22)渡米後に録音した最初のアルバム。メンバー=鈴木良雄(b p) デイブ・リーブマン(ss ts afl) トム・ハーレル(tp) アンディ・ラヴァーン(p) ビリー・ハート(ds) ルーベンス・バッシーニ(per) 79年 ニューヨークで録音
——それ以降は、基本は自分のバンドで活動して。
『ウイングス』が出てから自分のバンドをやろうと思って、「セヴンス・アヴェニュー・サウス」や「ジャズ・フォーラム」あたりでやり始めた。でも、そんなにはやってない。
——「ジャパン・ソサエティ」のホールでもコンサートをやりましたよね。
やると赤字になっちゃうから(笑)、あまりできなかったけど、とにかく自分の音楽を始めようと思って。
——学校にも通って。
〈Matsuri〉ができる前に、どうやったら作曲ができるのか、なにか作曲法があるんじゃないか? それで勉強をしようと思って、マンハッタン・ジャズ・スクールの夏期講習にも行ったけど、ぜんぜんダメで。ジュリアード音楽院の教授に会ったら、「書いたものを持ってこい」。それをパッと見て、「君は作曲の歴史を知らないようだから、今年卒業した一番優秀な学生に習いなさい」。
そのひとに、バッハ以前の古典から現代音楽までを、2年くらいかけて習ったんじゃないかな? 西洋音楽の歴史をぜんぶアナライズして。いままでのひとがやってきたものを見て、「なるほど、こういうふうになっているんだ」という方法論みたいなものがだんだん身についてきた。それをやったことで、自分の中ではものすごく視野が広がった。「音楽ってこういう歴史があって、こういうふうになっているのか」ということで、自分の立っている場所がよくわかった。自分の中で湧き上がってくるものを作曲するのがそこから始まった。
——日本に戻ってきた最大の理由は?
そのころは女房が勤めに行って、オレが子育てをやっていた。そうなると、オレじゃないと子供が寝ない。これはミュージシャン本来の生活じゃない。それで日本に帰ってきた。
——10年以上ニューヨークにいたでしょ。
帰ってきたのが85年の1月だから、11年くらいかな?
——不安はなかった?
その前にも、峰厚介、村上寛、本田竹曠とかが「一緒にやろうよ」といって、たまにツアーを組んでくれていた。ちょくちょく日本に帰ってくる機会もあったし。
——そんなに浦島太郎ではなかった。
日本の状況はわかっていたから、気持ちの上ではスムーズに帰ってこれた。あとの理由としては、お袋がひとりで住むようになったから心配で、というのもあるけど。
——アメリカの十数年間はチンさんにとってどんなものだったんですか?
人間的にも音楽的にも人生においても、大きな比重を占めてる。そこに原点がある。
——それがなかったらいまの自分は……
いない。目覚めさせてくれたのがニューヨークだし、ニューヨークで出会ったミュージシャンだし。作曲して自分のバンドを持ってやってるのも、ニューヨークにいたときと同じところにいて、同じところに向かっているからだと思う。
——チンさんはある意味、作曲家だと思いますが、自分でも作曲をすごく意識しているでしょ?
というか、ベーシストで一番弱いのはメロディを引っ張れないこと。たまにベースでメロディを弾いたりソロもやるけど、そこで勝負しようとは考えたことがない。ベースはそうでなく、音楽を底から支える楽器だと思っているから。作曲家として総合的な音楽をプロデュースすることが目的かな? だから、鈴木良雄の音楽を聴いてもらいたい。
——だから自分のバンドで活動することにこだわっている。
そうだね。いまはオレを使ってくれるひとがあまりいないし(笑)。
——ヤマちゃん(山本剛)(p)や増尾さんとはやるけど。
自分がコントロールできる音楽をやろうと思っている。
——きょうはいろいろなお話を聞かせていただきありがとうございました。
取材・文/小川隆夫
2017-12-10 Interview with 鈴木良雄 @ 青葉台「上島珈琲店」